二度と敷居を跨ぐな。二度と私の前に姿を見せるな!

るーしあ

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アスティル帝国の国境に架かる白銀の橋。

 そこは今、かつてないほど清烈な静謐せいひつに包まれていた。

 空はどこまでも高く、透き通った青色が広がっている。

 フィラルナは、ゲザラエルの傍らで、国境の向こう側から近づいてくる「異様な気配」をじっと見つめていた。

「……来たわね。最後の澱みが」

 フィラルナの呟きに、ゲザラエルは無言で彼女の肩を抱き寄せた。

 彼の大きな手からは、いつもの凛とした針葉樹の香りが漂い、フィラルナの心を力強く支えてくれる。

「案ずるな。汚泥がどれほど足掻こうと、この白銀の地を汚すことは許さん。お前が望むなら、私が今ここで奴を永遠の沈黙へと誘ってもいいのだぞ」

「いいえ、ゲザラエル様。……これは、私が自分で断ち切らなければならない鎖なのです。あの方に、本当の最後を告げるために」

 フィラルナは、凛とした瞳で前方を見据えた。

 霧の向こうから現れたのは、もはや軍勢ですらなかった。

 数人の、恐怖に顔を引き攣らせた従者に支えられ、泥を這うようにして進んでくる一人の男。

 それが、かつてゼフェルナ王国で絶大な権勢を誇ったヴォルティグ・ゼフェルナの成れの果てだった。

 彼の纏う豪華な毛皮の外套は、館の澱みに当てられてボロボロに腐食し、裾からは黒い液体が滴り落ちている。

 その顔は土気色に沈み、頬はこけ、瞳には狂気と絶望が混ざり合った、どす黒い光が宿っていた。

「……はぁ、はぁ……。フィラルナ……フィラルナぁ……!」

 ヴォルティグは橋の境界線まで辿り着くと、支えていた従者を振り払い、その場に崩れ落ちた。

 彼が膝をついた地面からは、シュウ、と嫌な音を立てて冷気が蒸発し、不快な脂の臭いが立ち上る。

「……ヴォルティグ様。そんなお姿で、一体何のご用ですか」

 フィラルナの声は、冷たい氷の板を叩くような、硬く、澄んだ響きを持っていた。

 ヴォルティグは顔を上げ、フィラルナを見つめた。

 その瞬間、彼の喉の奥から、ヒュッという短い悲鳴が漏れた。

 目の前に立つ女性は、もはや自分の知っている「フィラルナ」ではなかった。

 アスティルの聖なる輝きを全身に纏い、その瞳には自分を拒絶する「絶対的な光」が宿っている。

 かつて自分が踏みにじり、雨の中に放り出した女が、今や自分の命を左右する神のごとき存在として君臨している。

 その事実に、ヴォルティグのプライドは木っ端微塵に砕け散った。

「……フィラルナ。頼む、戻ってきてくれ……! いや、戻らなくてもいい! 今すぐ、一振りでいいから、私のためにその香りを紡いでくれ……!」

 ヴォルティグは土下座するように額を地面に擦り付けた。

「領地が……我がゼフェルナの領地が死んでいるんだ! 人々は病み、植物は枯れ、私も……私は、もう数日も眠れていない! 目を閉じれば、お前のいない暗闇の中から、悍ましい怪物たちが私を食らいに来るんだ!」

「それは、あなたが作り出した罪の幻影ですわ。私が浄化すべきものではありません」

「嘘だ! お前がいれば消えるはずだ! お前は聖女なんだろう!? 慈悲深い調香師なんだろう!? ならば、苦しんでいる私を救うのが義務ではないか!」

 絶望の底にいてもなお、ヴォルティグの言葉には傲慢さが滲んでいた。

 彼はまだ、自分が「救われるべき善良な被害者」だと思い込んでいるのだ。

 フィラルナは、一歩だけ前へ出た。

 彼女が踏み出した足元から、パキパキと氷の結晶が花開き、ヴォルティグの周囲に渦巻く黒い澱みを押し返していく。

「ヴォルティグ様。あなたは、私が無能だとおっしゃいました。香りのない、価値のない女だと。……。それなのに、なぜ今、私の香りを求めるのですか?」

「そ、それは……お前が力を隠していたからだろう! お前が最初からその力を見せていれば、私はお前を大切にした! メリシアなどという女に現を抜かすこともなかった!」

「いいえ。あなたは、私に愛を求めたことなど一度もありませんでした。……あなたが求めていたのは、自分を快適にするための便利な道具。自分の地位を輝かせるための美しい背景。……。そこに、私の心はありませんでした」

 フィラルナは、そっと自分の胸元に手を当てた。

「私は三年間、あなたの側にいました。……。あなたが仕事で疲れた夜、私は自分の命を削るようにして、あなたの部屋の空気を浄化し続けていた。……。あなたが不自由なく呼吸できていたのは、私がいたから。……。でも、あなたは一度も『ありがとう』と言ってはくれませんでしたわね」

「そ、そんなことは……! これから言う! いくらでも言うから!」

「もう遅いのです」

 フィラルナが掌を広げると、そこには母の形見である銀の香炉が浮かび上がった。

 香炉からは、この世のものとは思えないほど美しく、そして切ない「銀雪ぎんせつの旋律」が溢れ出す。

「私は、あの日誓ったのです。二度と、あの場所には帰らない。二度と、あなたのために香りを紡がない。……。この誓いは、私の新しい人生の基盤。……。それを今更、あなたの身勝手な言葉で汚させはしません」

「フィラルナ……! ああ、フィラルナ!」

 ヴォルティグが這いずり、フィラルナの靴に触れようとした。

 だが、その手が彼女に届く前に、ゲザラエルの鋭い視線が彼を射抜いた。

「……汚らわしい。その手を引け」

 ゲザラエルの放つ絶対的な圧力が、ヴォルティグを地面に押し付けた。

「お前は、彼女を失ったのではない。……最初から、お前に彼女を所有する資格などなかったのだ。……。消えろ。お前が吐き出す息一つさえ、彼女の鼻を汚すのが我慢ならん」

 ゲザラエルは、フィラルナの腰を抱き寄せ、冷酷にヴォルティグを見下ろした。

「フィラルナ。奴に、最後の引導を渡してやれ。……二度と、夢にさえお前が現れぬようにな」

「……はい、ゲザラエル様」

 フィラルナは、香炉の蓋を静かに開けた。

 瞬間。

 爆発的な「覚醒かくせいの香り」が、橋全体を席巻した。

 それは、ヴォルティグが望んでいた「安らぎ」ではない。

 自らの犯した罪、積み上げた傲慢、そして捨て去った宝物の価値を、強制的に、そして克明に直視させる「真実の裁き」。

「……が、あああああああ!?」

 ヴォルティグが頭を抱えて絶叫した。

 彼の脳裏には、フィラルナを蔑んだ日々、雨の中に放り出した夜、彼女がいなくなった後に崩壊していった公爵邸の光景が、鮮明な映像となって奔流のごとく流れ込んだ。

 そして何より、今のフィラルナが、自分ではなく隣の男に最高の微笑みを向けているという事実が、彼の魂をズタズタに引き裂いた。

「熱い……! 心が、焼けるようだ! 止めろ! こんな香り、聞きたくない!」

「これが、あなたが捨てた『真実』です。……。一生、その罪の臭いと共に、闇の中で生きるがいいわ」

 フィラルナが最後の一振りを与えると、橋の上に漂っていた黒い霧は完全に消滅し、ヴォルティグを支えていた魔力的な澱みも霧散した。

 後に残ったのは、ただの衰弱しきった、哀れな老人のような男。

「……。ひっ……。ひ、ひぃ……」

 ヴォルティグは、もはや言葉を紡ぐ力もなく、ガタガタと震えながら、従者たちによって引きずられるようにして撤退していった。

 彼の去った後の地面には、ひび割れた大地と、不快な残り香さえ残っていない。

 フィラルナの力が、その存在ごと、アスティルの記憶から排除したのだ。

「……終わりましたわ。ゲザラエル様」

 フィラルナは、香炉を収め、ゲザラエルの胸に顔を埋めた。

「ああ。……。実に見事な拒絶だった。これでお前の過去は、完全に過去のものとなったな」

 ゲザラエルは、彼女の銀髪を愛おしそうに撫でた。

「フィラルナ。お前の香りは、世界を癒やすためにある。……。だが、お前自身を癒やすのは、私の役目だ。……。今夜は、城の最高級のハーブ園でお茶を飲もう。お前の好きな、あの澄んだ風と共に」

「……ふふ。はい。喜んで」

 フィラルナは、ようやく心からの安らぎを得て微笑んだ。

 背後のゼフェルナ王国の空は、呪われたように黒く濁っていたが、アスティルの白銀の世界は、彼女を祝福するようにダイヤモンドダストが舞い踊っている。

 最高の拒絶。

 それは、彼女が真の幸福へと踏み出すための、最後の「浄化」であった。

 ヴォルティグ・ゼフェルナ。

 かつての夫であった男の名は、この瞬間、フィラルナの人生から永遠に消え去ったのである。

 二人の歩む道には、もはや濁りは一切ない。

 どこまでも清らかで、甘やかな未来の香りが、風に乗って広がっていた。

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