3 / 26
3
――死神。
その不吉な響きに、私の心臓は嫌な音を立てて跳ねた。
閉じていた瞼を、恐る恐る持ち上げる。
視界の端で、先ほどまで私を囲んでいた異形の人々が、一斉に動きを止めていた。
彼らが向ける視線の先。波打ち際から少し離れた大きな流木の上に、その男はいた。
銀糸のように透き通った長い髪。それを無造作に後ろで結わえ、漆黒のローブを身に纏っている。
肌は病的なまでに白く、整いすぎた顔立ちはどこか人間離れした冷たさを感じさせた。
何より異様だったのは、その背後だ。
彼の影が、地面に落ちる太陽の光を無視して、ゆらゆらと巨大な鎌の形に変質しているように見えたのは、私の見間違いだったのだろうか。
「……エント様」
私を殺そうと拳を振り上げていた大男――頭部に一本の角を持つ、ヴォルグと呼ばれた男が、忌々しげに舌打ちをして拳を下ろした。
「お目覚めかよ。昼寝の最中に人間に踏まれでもしたのか?」
「踏まれてない。ただ、騒がしいから起きただけだ。……ったく、朝から元気だな、お前ら」
エントと呼ばれた銀髪の青年は、大きなあくびを一つした。
その仕草はあまりに無防備で、この場の緊迫感を完全に削いでしまう。
彼は流木からひらりと飛び降りると、気だるげな足取りでこちらへ歩いてきた。
砂を踏む音が、一歩、また一歩と近づいてくる。
「待ってください! 私は、ただ……」
私は震える声で叫んだ。
彼が何者かはわからない。けれど、この島の人々が彼を「死神」と呼び、畏怖していることだけは理解できた。
「ニンゲン。お前、どこから来た」
エントが私の目の前で立ち止まり、視線を落とした。
至近距離で見る彼の瞳は、薄い灰色。感情というものが一切抜け落ちた、鏡のような瞳だ。
「アステリア王国から、船で……。嵐に遭って、気づいたらここに」
「アステリア。……ああ、あの傲慢な連中の国か」
エントの口角が、わずかに皮肉げに歪んだ。
周囲の住人たちから、再び低い唸り声が上がる。
「聞いたか! アステリアのニンゲンだとよ! あそこの連中がどれだけ我らハーフを迫害してきたか、忘れたとは言わせねえぞ!」
「そうだ! 生かしておいては災いの元だ! 今すぐ海の藻屑にしてやれ!」
突き刺さるような言葉の刃。
私は知らなかった。この国の外に、ハーフと呼ばれる人々が住む島があることも、アステリア王国が彼らを迫害していたという事実も。
聖女として、ただ目の前の病人を救うことだけを考えて生きてきた私。
けれど、その「善意」さえも、彼らにとっては偽善、あるいは憎しみの対象でしかない。
「……助けて」
無意識のうちに、言葉が漏れていた。
裏切られ、捨てられ、死にかけて。
ようやく辿り着いた陸地で、今度は「人間であること」を理由に殺されようとしている。
あまりに不条理だ。
あまりに、悲しすぎる。
「助けて? ハッ、笑わせるなよ。ニンゲンが我らに助けを乞うか」
ヴォルグが鼻で笑い、私を睨みつけた。
「おい、ヴォルグ。これ以上は俺の管轄だ」
エントが、遮るようにヴォルグの前に立った。
「管轄だと? 死神様が、何の用だよ。まさか、こいつを魂ごと持っていくってのか?」
「……さあな。ただ、俺の屋敷の近くに流れ着いた以上、俺が処分を決める。文句があるならバルドス様に言え」
バルドス。その名が出た瞬間、ヴォルグを含めた住人たちの顔に、一瞬だけ恐怖に近い色が走った。
エントは住人たちの反応に興味がなさそうに、再び私の方を向いた。
そして、ひどく冷めた声で告げる。
「立て。立てないなら、ここで勝手に死ね」
「……っ」
慈悲など微塵も感じられない言葉だった。
けれど、それは「今すぐ殺す」という宣告よりは、幾分か希望があるようにも聞こえた。
私は砂まみれの手を地面につき、折れそうな足を叱咤して、どうにか立ち上がった。
視界がぐらりと揺れる。
海水に濡れた髪が重く肩にのしかかり、寒さで歯の根が合わない。
私が立ち上がったのを確認すると、エントは無言で歩き出した。
断崖絶壁へと続く、険しい岩場の方へ。
「待て、エント! その女をどうするつもりだ!」
ヴォルグの怒鳴り声が背中に飛ぶ。
「飽きたら殺す。それまで俺の暇つぶしに使うだけだ」
エントは一度も振り返ることなく、淡々と答えた。
私は彼の背中を追うしかなかった。
周囲を取り囲む住人たちが、道を開ける。
その瞳には、軽蔑、嫌悪、そして「すぐに死ぬだろう」という冷笑が浮かんでいた。
岩場を登りながら、私は必死に現状を整理しようとした。
ここはハーフオリジン。モンスターと人間の血を引く者たちが住む、地図にない島。
そして私を連れて行くのは、やる気のない死神。
(これから、私はどうなるの……?)
ふと見上げた崖の上。
そこには、霧の中に浮かび上がるように、古びた、けれど巨大な洋館が建っていた。
エントの屋敷。
そこが私の新しい「牢獄」になるのか、それとも。
ふいに、エントが足を止めた。
「おい、ニンゲン。……名前は」
振り返らずに、彼が問う。
「……エルラ、です」
「そうか。エルラ、覚えとけ。ここでは、誰もお前を助けない。死にたくなければ、俺の邪魔だけはするな」
突き放すような言葉。
けれど、彼の銀色の髪を揺らす風が、アステリアの雨よりも少しだけ温かく感じられたのは、私の気の迷いだったのかもしれない。
私は、重い足取りで彼に従った。
足元では、黒い砂浜が波に洗われ続けている。
かつての「聖女」としての名前も、身分も、ここでは何の意味も持たない。
ただの「無力な人間」として、私はこの異端の地での第一歩を踏み出した。
絶望は、まだ終わっていなかった。
けれど、私の中の何かが、静かに燃え始めていた。
――まだ、死んでたまるものか。
裏切ったあの人たちの顔を思い出し、私は強くペンダントを握りしめた。
その決意をあざ笑うかのように、空からは再び、激しい雨が降り注ごうとしていた。
その不吉な響きに、私の心臓は嫌な音を立てて跳ねた。
閉じていた瞼を、恐る恐る持ち上げる。
視界の端で、先ほどまで私を囲んでいた異形の人々が、一斉に動きを止めていた。
彼らが向ける視線の先。波打ち際から少し離れた大きな流木の上に、その男はいた。
銀糸のように透き通った長い髪。それを無造作に後ろで結わえ、漆黒のローブを身に纏っている。
肌は病的なまでに白く、整いすぎた顔立ちはどこか人間離れした冷たさを感じさせた。
何より異様だったのは、その背後だ。
彼の影が、地面に落ちる太陽の光を無視して、ゆらゆらと巨大な鎌の形に変質しているように見えたのは、私の見間違いだったのだろうか。
「……エント様」
私を殺そうと拳を振り上げていた大男――頭部に一本の角を持つ、ヴォルグと呼ばれた男が、忌々しげに舌打ちをして拳を下ろした。
「お目覚めかよ。昼寝の最中に人間に踏まれでもしたのか?」
「踏まれてない。ただ、騒がしいから起きただけだ。……ったく、朝から元気だな、お前ら」
エントと呼ばれた銀髪の青年は、大きなあくびを一つした。
その仕草はあまりに無防備で、この場の緊迫感を完全に削いでしまう。
彼は流木からひらりと飛び降りると、気だるげな足取りでこちらへ歩いてきた。
砂を踏む音が、一歩、また一歩と近づいてくる。
「待ってください! 私は、ただ……」
私は震える声で叫んだ。
彼が何者かはわからない。けれど、この島の人々が彼を「死神」と呼び、畏怖していることだけは理解できた。
「ニンゲン。お前、どこから来た」
エントが私の目の前で立ち止まり、視線を落とした。
至近距離で見る彼の瞳は、薄い灰色。感情というものが一切抜け落ちた、鏡のような瞳だ。
「アステリア王国から、船で……。嵐に遭って、気づいたらここに」
「アステリア。……ああ、あの傲慢な連中の国か」
エントの口角が、わずかに皮肉げに歪んだ。
周囲の住人たちから、再び低い唸り声が上がる。
「聞いたか! アステリアのニンゲンだとよ! あそこの連中がどれだけ我らハーフを迫害してきたか、忘れたとは言わせねえぞ!」
「そうだ! 生かしておいては災いの元だ! 今すぐ海の藻屑にしてやれ!」
突き刺さるような言葉の刃。
私は知らなかった。この国の外に、ハーフと呼ばれる人々が住む島があることも、アステリア王国が彼らを迫害していたという事実も。
聖女として、ただ目の前の病人を救うことだけを考えて生きてきた私。
けれど、その「善意」さえも、彼らにとっては偽善、あるいは憎しみの対象でしかない。
「……助けて」
無意識のうちに、言葉が漏れていた。
裏切られ、捨てられ、死にかけて。
ようやく辿り着いた陸地で、今度は「人間であること」を理由に殺されようとしている。
あまりに不条理だ。
あまりに、悲しすぎる。
「助けて? ハッ、笑わせるなよ。ニンゲンが我らに助けを乞うか」
ヴォルグが鼻で笑い、私を睨みつけた。
「おい、ヴォルグ。これ以上は俺の管轄だ」
エントが、遮るようにヴォルグの前に立った。
「管轄だと? 死神様が、何の用だよ。まさか、こいつを魂ごと持っていくってのか?」
「……さあな。ただ、俺の屋敷の近くに流れ着いた以上、俺が処分を決める。文句があるならバルドス様に言え」
バルドス。その名が出た瞬間、ヴォルグを含めた住人たちの顔に、一瞬だけ恐怖に近い色が走った。
エントは住人たちの反応に興味がなさそうに、再び私の方を向いた。
そして、ひどく冷めた声で告げる。
「立て。立てないなら、ここで勝手に死ね」
「……っ」
慈悲など微塵も感じられない言葉だった。
けれど、それは「今すぐ殺す」という宣告よりは、幾分か希望があるようにも聞こえた。
私は砂まみれの手を地面につき、折れそうな足を叱咤して、どうにか立ち上がった。
視界がぐらりと揺れる。
海水に濡れた髪が重く肩にのしかかり、寒さで歯の根が合わない。
私が立ち上がったのを確認すると、エントは無言で歩き出した。
断崖絶壁へと続く、険しい岩場の方へ。
「待て、エント! その女をどうするつもりだ!」
ヴォルグの怒鳴り声が背中に飛ぶ。
「飽きたら殺す。それまで俺の暇つぶしに使うだけだ」
エントは一度も振り返ることなく、淡々と答えた。
私は彼の背中を追うしかなかった。
周囲を取り囲む住人たちが、道を開ける。
その瞳には、軽蔑、嫌悪、そして「すぐに死ぬだろう」という冷笑が浮かんでいた。
岩場を登りながら、私は必死に現状を整理しようとした。
ここはハーフオリジン。モンスターと人間の血を引く者たちが住む、地図にない島。
そして私を連れて行くのは、やる気のない死神。
(これから、私はどうなるの……?)
ふと見上げた崖の上。
そこには、霧の中に浮かび上がるように、古びた、けれど巨大な洋館が建っていた。
エントの屋敷。
そこが私の新しい「牢獄」になるのか、それとも。
ふいに、エントが足を止めた。
「おい、ニンゲン。……名前は」
振り返らずに、彼が問う。
「……エルラ、です」
「そうか。エルラ、覚えとけ。ここでは、誰もお前を助けない。死にたくなければ、俺の邪魔だけはするな」
突き放すような言葉。
けれど、彼の銀色の髪を揺らす風が、アステリアの雨よりも少しだけ温かく感じられたのは、私の気の迷いだったのかもしれない。
私は、重い足取りで彼に従った。
足元では、黒い砂浜が波に洗われ続けている。
かつての「聖女」としての名前も、身分も、ここでは何の意味も持たない。
ただの「無力な人間」として、私はこの異端の地での第一歩を踏み出した。
絶望は、まだ終わっていなかった。
けれど、私の中の何かが、静かに燃え始めていた。
――まだ、死んでたまるものか。
裏切ったあの人たちの顔を思い出し、私は強くペンダントを握りしめた。
その決意をあざ笑うかのように、空からは再び、激しい雨が降り注ごうとしていた。
あなたにおすすめの小説
乙女ゲームは始まらない
みかん桜
恋愛
異世界転生した公爵令嬢のオリヴィア。
婚約者である王太子殿下の前に自称ヒロインが現れたけど……あの、現実の貴族社会って物語のように優しくはないよ?
※恋愛要素は背景程度です。
※過激なざまぁ描写はありません。
聖女に負けた侯爵令嬢 (よくある婚約解消もののおはなし)
蒼あかり
恋愛
ティアナは女王主催の茶会で、婚約者である王子クリストファーから婚約解消を告げられる。そして、彼の隣には聖女であるローズの姿が。
聖女として国民に、そしてクリストファーから愛されるローズ。クリストファーとともに並ぶ聖女ローズは美しく眩しいほどだ。そんな二人を見せつけられ、いつしかティアナの中に諦めにも似た思いが込み上げる。
愛する人のために王子妃として支える覚悟を持ってきたのに、それが叶わぬのならその立場を辞したいと願うのに、それが叶う事はない。
いつしか公爵家のアシュトンをも巻き込み、泥沼の様相に……。
ラストは賛否両論あると思います。納得できない方もいらっしゃると思います。
それでも最後まで読んでいただけるとありがたいです。
心より感謝いたします。愛を込めて、ありがとうございました。
報われなかった姫君に、弔いの白い薔薇の花束を
さくたろう
恋愛
その国の王妃を決める舞踏会に招かれたロザリー・ベルトレードは、自分が当時の王子、そうして現王アルフォンスの婚約者であり、不遇の死を遂げた姫オフィーリアであったという前世を思い出す。
少しずつ蘇るオフィーリアの記憶に翻弄されながらも、17年前から今世まで続く因縁に、ロザリーは絡め取られていく。一方でアルフォンスもロザリーの存在から目が離せなくなり、やがて二人は再び惹かれ合うようになるが――。
20話です。小説家になろう様でも公開中です。
あなたを忘れる魔法があれば
美緒
恋愛
乙女ゲームの攻略対象の婚約者として転生した私、ディアナ・クリストハルト。
ただ、ゲームの舞台は他国の為、ゲームには婚約者がいるという事でしか登場しない名前のないモブ。
私は、ゲームの強制力により、好きになった方を奪われるしかないのでしょうか――?
これは、「あなたを忘れる魔法があれば」をテーマに書いてみたものです――が、何か違うような??
R15、残酷描写ありは保険。乙女ゲーム要素も空気に近いです。
※小説家になろう、カクヨムにも掲載してます
愛はリンゴと同じ
turarin
恋愛
学園時代の同級生と結婚し、子供にも恵まれ幸せいっぱいの公爵夫人ナタリー。ところが、ある日夫が平民の少女をつれてきて、別邸に囲うと言う。
夫のナタリーへの愛は減らない。妾の少女メイリンへの愛が、一つ増えるだけだと言う。夫の愛は、まるでリンゴのように幾つもあって、皆に与えられるものなのだそうだ。
ナタリーのことは妻として大切にしてくれる夫。貴族の妻としては当然受け入れるべき。だが、辛くて仕方がない。ナタリーのリンゴは一つだけ。
幾つもあるなど考えられない。
悪意には悪意で
12時のトキノカネ
恋愛
私の不幸はあの女の所為?今まで穏やかだった日常。それを壊す自称ヒロイン女。そしてそのいかれた女に悪役令嬢に指定されたミリ。ありがちな悪役令嬢ものです。
私を悪意を持って貶めようとするならば、私もあなたに同じ悪意を向けましょう。
ぶち切れ気味の公爵令嬢の一幕です。
蔑ろにされた王妃と見限られた国王
奏千歌
恋愛
※最初に公開したプロット版はカクヨムで公開しています
国王陛下には愛する女性がいた。
彼女は陛下の初恋の相手で、陛下はずっと彼女を想い続けて、そして大切にしていた。
私は、そんな陛下と結婚した。
国と王家のために、私達は結婚しなければならなかったから、結婚すれば陛下も少しは変わるのではと期待していた。
でも結果は……私の理想を打ち砕くものだった。
そしてもう一つ。
私も陛下も知らないことがあった。
彼女のことを。彼女の正体を。