歩きスマホしてたら異世界に迷い込んじゃったけど世界って救う必要ある?

るき

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Chapter2

01 ヨミ

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 暗闇の中で、誰かが私を呼んだような気がした。

 誰が、私を……私は…………?

 頭が働かない。体が重い。背中には硬い感触。
 ゆっくりと目を開ける。視界を占めるのは一面の白。わずかに顔を傾けると、高い建物が逆さまに見えた。私は道に倒れているらしい。

「んなぁあああー!」

 今度は気のせいではなく、誰かの叫び声が、はっきりと聞こえた。

「フゥ……ゥウウウウ……」

 ため息のような唸り声。生臭い、獣のような臭気。叫び声を上げた人の他に、誰か――何かがいる気配。

「グォオオオオオオ!」

 耳が痺れるほどの咆哮に、ぼんやりとしていた意識が完全に覚醒した。
 危機感に急かされるように、上体を起こしながら後ずさる。目の前にいたのは、黒い毛に覆われた大型の動物。
 熊、だろうか。なぜ熊が、という疑問は、その大型動物が振り返ったと同時に別の感情に置き換わる。

「――――っ!」

 恐怖で体が竦んで、声が出なかった。
 熊じゃない。猿に似た顔の中心に、大きな目が一つ。腫瘍のように盛り上がった鼻に、耳まで裂けた口。
 この世のものとは思えない、異形の怪物。

 走って遠ざかる足音が聞こえる。怪物に遭遇した誰かが悲鳴を上げ、逃げ去ったのだろうと、頭の片隅で理解する。
 私も逃げなくてはならない。だけれど立ち上がる前に、巨大な手で体を掴まれ、持ち上げられてしまった。

「ぐっ……!」

 締め上げられて、声が出る。
 私の胴を掴んでも余るぐらい大きな手。服を引き裂く鋭い爪。
 自分の顔が、恐怖と苦痛で歪むのがわかる。
 怪物は私が苦しむ姿を見て、ニタリと嗤った。

 その表情に、見覚えがある気がした。
 他人の不幸が楽しくて仕方ない。傷つけているという自覚もなく遊び感覚で痛めつけて、すぐに忘れる。もし悪意というものに顔があって、嗤ったなら、こういう表情をするに違いない。

 私に恐怖を味わわせるほど旨みが増すとでも思っているように、怪物は殊更にゆっくりと牙をむき出しにして、私の頭を噛み砕こうとする。
 口から漂う腐臭に吐き気がする。こいつに食い殺されるのは、嫌だ。でも絶対に敵わないのだと、私は知ってしまっている。

 このまま死ぬのなら――――仕方ない。無駄な抵抗をして長く苦しむよりも、諦める方が「幸せ」なのかもしれない。

 そう思った時、視界の端がカッと光った。
 激しい光の奔流に怯んだ怪物が、私から手を離す。そのまま地面に打ち付けられるはずだった私を、柔らかな何かが包み込んだ。

「――ヨミ様!」

 女の人の声。光が収まると、私を抱きとめて助けてくれた人の姿がはっきりと見えた。

「ああ、ヨミ様! ヨミ様でいらっしゃいますのね! 予言の日がこんなにも早く訪れるなんて……なんたる僥倖!」

 私を横抱きにしたまま、頬を紅潮させてまくし立てる女性。その頭には、角が生えている。ガゼルのような大きな黒い角に、長く豊かな赤い巻き髪。緑色の瞳。

「ヨミ様、お怪我は? まあ、お召し物が破けておいでで! 少々お待ちください、応急処置をさせていただきますので」

 女性は私を降ろして、自分の服を脱ごうと胸元に手をかけた。服、というかほぼ紐だけれど。

「……えっ、あの……!?」

 止める間もなく女性は胸の紐を解き、私の腕に巻いてくれた。

 えっ。

 ええっ。

 好意はありがたいのだけれど、私は袖が破けただけだし、元々あなたよりは厚着だからあなたの服を分けてもらう必要はなかったのだけれど!? あなたは胸がむき出しになってしまったけれどそれはいいの!? それに今はそれどころじゃないのでは――!?

「ブォオオオオッ!」

 怪物が唸り声を上げ、女性の背後から襲い掛かる。

「うるさいですわね」

 女性は振り返ることすらせず、蝿でも払うかのように片手を上げて後ろに払った。たったそれだけの動作で、怪物の腕が吹き飛ぶ。

「グアアアアアッ!」

 赤黒い体液が周囲に飛び散って、私の頬を濡らす。
 片腕を失った怪物は憎々しげに女性を睨みつけ、甲高い叫び声を上げた。

「ギャギャッ! ギャオオオオオオッ!!」

 叫び声に呼ばれたように、地面に黒い染みが広がる。闇が沸騰するようにぶくぶくと泡立ち、そこから幾体もの怪物が湧き上がってくる。

 異常事態に次ぐ異常事態に、声が出ない。けれど女性にはなんでもないことのようだった。

「あらまあ、虫けら共が無尽蔵に沸いて出ますのねえ」

 はあ、と悩ましげにため息をついて、長い髪を掻き上げる。

「でもちょうどいい。ヨミ様の忠実なる下僕であるレイラが♡ この薄汚いゴミ虫どもを一匹残らずすりつぶしてご覧に入れますので、どうかお楽しみくださいませね♡」

 女性はすらりとした腕を空に向けて伸ばした。右手の薬指に嵌められた指輪が光り、長い紐状のもの――鞭に姿を変える。
 宙に現れた鞭を掴み、地面を打つ。アスファルトと鞭が衝突した瞬間に爆発して、アスファルトが粉々に砕けた。

「そぉれ♡ まずは一匹♡」

 空気を切り裂く鋭い音に、爆発音。既に片腕を失った怪物は首までもを失い、巨体がどさりと地面に崩れ落ちる。少し遅れて、跳ね飛ばされた首が私のすぐ近くに落ちた。
 噴き出た血で周囲が赤黒く染まる。その血に興奮したかのように怪物の群れが次々と女性に襲い掛かるが、接近することさえできずに体を刻まれ、血飛沫をあげる。

 ――どうしてこんな状況に。

 この怪物たちは何? さっきの光は? あの女性はどこからやってきた? この状況はどういうこと?
 私を「ヨミ様」と呼んだけれど、違う。私は。私は――――……私は?

 私の名前は? 私はどうしてこの場所にいる?
 混乱しきった頭の中に、一つの言葉が浮かぶ。

 ――記憶喪失。

 危機的状況なのに、自分のこともわからないなんて。

「はぁあああん♡ いかがですかヨミ様ァ♡ 恐れ多くもヨミ様に歯向かうクズ共に相応しい報いですわ♡ あっはははは♡」

 女性は私に背を向けたまま、圧倒的な力で怪物たちを蹂躙し、恍惚とした笑い声を上げている。
 力の差は歴然なのに、一撃で殺さない。猫が獲物を甚振るように、皮膚を裂き、肉を穿ち、骨を粉砕する。

 目の前で繰り広げられる虐殺行為に、震えが止まらない。今私の身に起きている全てが、ただただ恐ろしい。

 私はその場から一歩ずつ下がり、細い路地に入り込んで、その場から逃げ出した。
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