嘘と失恋と缶コーヒー

けろり。

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嘘と失恋と缶コーヒー

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 カシュッ、とプルタブを開ける音がする。
 冬の夜空に立ち上る湯気と、安っぽい豆の香りを感じながら、一口飲んだ。

「……はぁ」

 出てくるのは白い吐息と、黒い溜息。

 腕元のスマートウォッチを見ると時刻は現在8時15分。
 吹き抜ける風は冷たく、スーツの裏地まで容易く貫通してくる。

 ここはオフィス街の裏手にある小さな公園。
 そこの自販機で買った缶コーヒーを煽りつつ、ベンチで項垂れているのが俺、藤代隆ふじしろたかしだ。

「……、……はぁ」

 二度目の溜息が出る。
 その原因は今日も会社で部長に「入社して3年も経つのに未だに仕事も覚えられんのか」とイビられたり、自分のミスを同僚がカバーしてくれて己の情けなさに嫌気が差した、からではない。

『隆くんってさ、いつも真面目だよね』

 三日前。ファミレスの向かいの席で彼女から言われた言葉。

『いい事だと思うよ? でも一緒にいて息が詰まるっていうか…私はそこまで真面目じゃないし、もっと楽しいことをしたいの』

 ……反論できなかった。
 彼女のためにと無理して高い店を予約したり、少しでも見栄を張ろうとしていた努力がすべて、裏目に出ていたと知った絶望感。

 結果、別れ話は淡々と進み、俺は独りになった。
 仕事もダメ、恋愛もダメ。

 手に持った飲みかけの缶コーヒーの暖かさだけが、今の俺の傷ついた心を癒やしてくれる。

「……俺、何のために生きてんだろうな…」

 誰に届くでもない独り言が、真っ暗なアスファルトに落ちていく。
 やがて飲み終えた缶コーヒーを手に、ゴミ箱へと歩き出そうとした。

 その時だった。

「……あれ」

 背後から、女性の声がした。

「もしかして……タカちゃん?」

 心臓が、ドクリと跳ねる。

 タカちゃん。
 そんな子供染みたあだ名で俺を呼ぶ人間なんて、今の周りには一人もいない。

 俺はゆっくりと、恐れ半分興味半分で振り返る。
 そこに立っていたのは、自分と同じくらいの年齢と思しき女性だった。

 毛先がカールした茶色い髪と、少し濃い目のメイク。
 バッグらしい物は持たず、代わりにスマホを吊り下げたストラップが肩越しに掛かっていた。

 知らない顔だ。最初はそう思った。
 けれど街灯に照らされたその顔の泣きぼくろと、口端だけを上げる特徴的な笑い方を見て、昔の――チョークの粉の匂いがする遠い記憶の引き出しが開く。

「……え、十坂?」
「うわ、やっぱり! 久しぶりだね、タカちゃん!」

 十坂岬とさかみさき。俺の中学時代の同級生だ。
 といっても、積極的に学校行事に参加するクラスのムードメーカー的な彼女とは対照的に、俺は何事にも消極的なまるで空気のような存在だった。本来交わることも無い関係だったが、たまたま席が前後になったことで、他愛ない話や漫画の貸し借りなどを休み時間にしていた。

 お互い、恋愛感情も沸かない「良き話し相手」程度の距離感。
 それ故卒業以来、一度も会うことはなかった。

「すごい偶然じゃん。こんなとこで何してんの? あ、もしかして仕事帰り?」
「あぁ、うん……まぁ、そんなとこ」
「にしては何だか訳ありな顔してるね。せっかくだし、ちょっとだけ話さない?」

 十坂は俺の返事も待たずに自販機へと駆け寄ると、スマホをかざしてカフェオレのボタンを押した。その強引なペースは、中学の頃とまるで変わらない。

 少し懐かしさを覚えつつ、俺達は公園のベンチで並んで座った。

「で、タカちゃんは今何の仕事してるの? 立派なスーツなんか着ちゃってさぁ」
「立派じゃないよ……ただのしがないリーマンだって。雑務に追われて、毎日必死なだけ」
「ふーん。でも、ちゃんと働いてるだけ偉いね」

 まるでカウンセラーのような十坂の言葉に、胸の奥が軋む。

 偉い、か。
 今の俺には最もふさわしくない言葉だ。

 彼女の屈託ない顔と声が、逆に自分の惨めさを浮き彫りにする。
 そういうお前はどうなんだ、と聞き返す気力も沸かない。ただ、かつての友人に会えたという事実が、張り詰めていた心の糸を少しだけ緩ませてしまったのだろう。

 俺はつい、口を滑らせてしまった。

「……偉くなんてないよ。今日だって、仕事でミスして怒られて、半泣きだった」
「え?」
「おまけに三日前に彼女に振られたばっかでさ。『重い』んだって、俺」

 言ってしまってから、後悔した。

 久しぶりに会った友人にする話じゃない。これじゃただの不幸自慢だ。十坂だって聞きたくないだろう。

 そう思いながらも薄目で彼女の顔を窺う。
 十坂は一瞬驚いた顔をしていたが、すぐにぶはっと噴き出すように笑い出した。

「あはは! マジで!?」
「……笑うなって」
「ごめんごめん。……いや、でも、あまりにタイミングが良すぎてさ」

 十坂は目尻に浮かんだ涙を指で拭いながら、可笑しそうに俺を見た。

「実は私もさ、先月彼氏と別れたばっかなんだよね」

 今度は俺が驚く番だった。

「えっ、十坂も?」
「そ。まぁ私の場合は『重い』じゃなくて、他に好きな女が出来たって言われただけなんだけどね。最悪じゃない?」
「うわ、それはキツイな…」
「でしょ? お陰で三日間くらいは家に帰って泣いて過ごしてたかな」

 辛いはずの経験をけろりとした顔で話す彼女を見て、俺の胸の内にあった鉛のような重い感覚が少しだけ軽くなるのを感じた。

 なんだ、俺だけじゃないのか。
 世界中で自分だけが不幸のどん底にいるような気でいたが、昔馴染みの彼女も同じような痛みを抱えていた事実に、不謹慎ながらも安堵を覚えてしまった。

 傷の舐め合い、というのだろうか。
 それでも共有できる相手がいるだけで孤独感が薄れた。

「そっか……大変だったな、お互い」
「ほんとだよ。人生、上手くいかないことばっかだよねぇ」

 深く頷いた十坂は、夜空を見上げる。
 その横顔は記憶の中の彼女よりも大人びていて、やけに凛々しく映った。辛い経験をした彼女も、今ではこうして笑っている。なら、俺だって――。

 だが、そんな俺の決意を台無しにするかのように、十坂は視線を戻してニカッと意地悪げに笑う。

「ま、でも今はもう新しい彼氏いるけどね」
「……は?」

 思わず、間抜けな声が漏れ出た。
 一方、十坂はVサインを作って見せる。

「いやー、ついこの前だったんだけどさ、友達に誘われて行った飲み会で出会った人が超ハイスペックで、しかも優しくてイケメンなの。前の彼氏のことなんてもう、秒で忘れたわ」
「……まじかよ」
「マジマジ。だからタカちゃんもさ、いつまでもウジウジしてないで次行きなよ! 男は星の数ほど……じゃないや、女も星の数ほどいるんだし、ね?」

 ガツン、と頭を殴られたような衝撃だった。
 さっきまで同志だと思っていた連帯感は、一瞬にして崩れ去った。
 
 先月別れて、もう新しい恋人?
 しかもハイスペックでイケメン?

 俺が三日間、ろくに飯も喉を通らないほど落ち込んでいる間に、彼女はとっくに次の幸せを掴んでいるというのか。

 胸の奥にどす黒い嫉妬と、情けなさが渦巻く。
 俺は一体、何をしているんだろう。

 過去に縋り付いて仕事も手につかず、自販機の前でため息をついているだけの男。対して彼女は傷つきながらも逞しく前を向き、新しい人生を歩んでいる。
 その差に、愕然とした。

 けれど――不思議と、嫌な気持ちばかりではなかった。
 彼女のそのあっけらかんとした強さが、眩しくもあったから。

「……すごいな、十坂は」
「え?」
「いや、俺なんて全然切り替えられなくてさ。でも、お前の話聞いてたら、なんか悩んでるのが馬鹿らしくなってきたわ」

 これは偽らざる本心だった。

 彼女のようにすぐに次へ行けるかは分からない。でも、ここで立ち止まっている自分が、急にちっぽけに見えてきたのだ。
 『次行きなよ』という無責任な励ましが、今の俺には妙に心地よかった。

「そうそう。タカちゃん昔から考えすぎなとこあるからさ。もっと適当でいいんだよ、人生なんて」
「はは、相変わらず適当だなあ」
「それが私の長所だからね」

 十坂は飲み干した缶をゴミ箱に投げ入れた。
 カラン、と乾いた音が響く。

「さて、そろそろ行くわ。彼氏待ってるし」
「ああ、引き止めて悪かったな」
「ううん、久しぶりにタカちゃんと話せて楽しかったよ」

 俺たちは駅まで並んで歩いた。
 他愛のない昔話をして、少しだけ笑った。

 改札の前で、俺は彼女に向き直った。

「ありがとな、十坂。なんか、元気出たよ」
「……ん? 私のノロケ話聞いて元気出たの? 変なの」
「いや、なんていうか……お前が変わってなくて安心したっていうかさ。俺も明日から、ちょっと頑張ってみるわ」

 そう伝えると、十坂は一瞬、何とも言えない表情をした。
 瞬きを二回繰り返し、それからふわりと柔らかく微笑んだ。

「そっか。……うん、頑張りなよ、タカちゃん」
「おう。お前も、彼氏とお幸せにな」
「ありがと。じゃあね」

 ひらひらと手を振り、俺は改札を通った。
 背筋が少し伸びているのが自分でも分かった。

 仕事のミスも失恋の痛みも、消えたわけじゃない。
 けれど、少なくとも「何のために生きてるのか」とは考えなくなっていた。

 中学時代の友人が、あんなに強く生きている。
 なら、俺も負けてられない。

 ホームへ向かう階段を上がりながら、俺は深く息を吸い込んだ。明日は早起きして、まずは部屋の掃除でもしようか。そんな前向きな計画が、頭の片隅に芽生えていた。

 ▼

 タカちゃんの背中が人混みに紛れて見えなくなった瞬間、私の表情から仮初の笑顔が消えた。

 ただただ呆然と、無表情で見つめる先。
 改札を行き交う人々の喧騒が、急に遠い世界の出来事のように感じられた。

「……嘘つき女」

 自分自身の唇から漏れた言葉は、冬の夜風よりも冷たく、乾いている。

 彼氏がいる? ハイスペック?
 なんだそれ。そんなもの、どこにもいやしない。

 先月別れたというのも嘘だ。
 そもそも、もう何年もまともな恋愛なんてしていない。

 暫く立ち止まっていた私は、思い出したように駅の出口へと踵を返した。
 向かうのは家ではない。

 ここから歩いて十分ほどの場所にある、八階建てのボロビルだ。
 あの廃墟じみたビルの屋上へ続く扉は無施錠で、誰でも簡単に入れてしまうらしい。

 貯金残高はたった数千円。来月の家賃も払えない。
 親とは何年も音信不通だし、今更頼れる友人もいない。

 ――もう、疲れた。

 何もかもリセットしたくて、ふらりとここまでやってきた。
 最期に温かいものでも飲もうと思って、コンビニではなくあの公園に寄ったのはただの気まぐれだった。
 そこで、偶然タカちゃんを見つけた。

 藤代隆。確かそんな名前だった気がする。
 中学時代のいつだったか、前の席だった地味な男子。

 懐かしかった。一丁前にスーツなんて着てたけど、その頼りない後姿を見てすぐにピンと来た。死ぬ前に知っている顔に会えたのは、かろうじて残った悪運の欠片なのかもしれない。

 だから声をかけた。他意はなかった。
 どうせ死ぬんだから、最後に旧知の人と話しても悪くないと思って。

 それなのに。
 彼は、弱りきっていた。

 彼女に振られただの、仕事が辛いだの。まるで世界の終わりのような顔をして、私の前で弱音を吐いた。
 それを見ていたら、なんだか無性に腹が立ってきたのだ。

 ――あんたはまだ、やり直せる場所にいるじゃない、って。
 スーツを着て、会社に所属して、誰かに必要とされたくて悩んでいる。それは、私がもう手に入れられない「真っ当な苦悩」だ。

 だから、嘘をついた。
 『私は幸せだよ』と。
 『人生なんてちょろいよ』と。

 これから死に行く人間が、苦労してなおも生きようとする人間の邪魔をしてどうする。どうせなら、ちっぽけな見栄くらい張って消えるほうがマシだという、私なりの矜持だった。

 駅を出て、薄暗い夜の街を歩く。
 目的のビルはもうすぐそこだ。

 あの屋上から飛べば、すべて終わる。
 家賃の心配も、孤独の寒さも、将来への不安も、全部消える。

 そのはずだった。

「……はぁ」

 ビルの入り口が見えたところで、私は立ち止まった。
 足取りが、重い。

 恐怖からではない。
 もっと厄介なものが、足首に絡みついている。

『ありがとう、十坂。なんか、元気出たよ』
『お前が変わってなくて安心した』
『俺も明日から、ちょっと頑張ってみるわ』

 別れ際の、タカちゃんの晴れやかな笑顔が脳裏に焼き付いて離れない。

 私の吐いた幸せな嘘を信じて、もう一度前を向く気になったと言った。
 昔と変わらない、騙されやすいお人好しの彼の顔が。

 ……もし。
 もしも今夜、私がここで飛び降りて死体になったら、どうなる?

 明日のニュースか、あるいはもっと後に同窓会の噂話とかで、彼は知るかもしれない。「中学時代の同級生、十坂岬が飛び降り自殺した」って。

 そしたら、彼はどう思うだろう?

 『あんなに明るく励ましてくれたのに』
 『彼氏がいるって言ってたのは嘘だったのか?』
 『俺を元気づけてくれた数時間後に、彼女は絶望して死んだのか?』

 ……想像するだけで、吐き気がした。

 やっと立ち直りかけた彼を、再び絶望の底へ突き落とすことになる。それどころか、「自分が気付いてやれなかった」という強烈なトラウマを、彼の人生に一生刻み込むことになるかもしれない。

 死ぬ人間が、生きる人間の足を引っ張っちゃいけない。

「……バカみたい」

 私はビルの前でうずくまるようにしゃがみ込んだ。
 ――本当に、間が悪すぎる。

 あと三十分、家を出るのが遅ければ。
 あるいは、あの場で声をかけずに通り過ぎていれば。
 私は誰にも迷惑をかけずに、ひっそりとこの世から退場できたのに。

 折角戻ったあの笑顔を守るためには、私の幸せな設定うそを、しばらくの間だけでも真実にしておかなければならないじゃないか。

「……死ねないじゃん、これじゃ」

 最悪だ。思い描いていた計画が全部台無しだ。
 死ぬ気満々だったから、冷蔵庫の中は空っぽだし、電気代も滞納している。

 生きるということは、金がかかるということ。
 今日も明日も腹は減るし、夜になれば眠くなる。

 生きるのをやめることはいつでもできるけれど、生き続けることは、死ぬことよりもずっと面倒くさくて……しんどい。

 私は首から下げたスマホを手に取る。
 バッテリー残量は残り15%。なんだかこれも余命の暗示に思えてきた。

「ま、とりあえず金でも稼ぐか」

 私はスマホを強く握ると、立ち上がった。

 見上げた夜空には、星なんて一つも見えない。
 街の明かりにかき消された、濁った都会の空だ。

 ぐぅ、と小さな悲鳴のようにお腹が鳴る。
 とりあえずコンビニでおにぎりでも買おう。
 スマホ決済で買える150円のツナマヨおにぎりが、今の私と明日を繋ぐ、唯一の命綱だ。

 私はビルの入り口に背を向けると、雑踏の中へと歩き出した。

 足取りは依然重い。
 けれど、ほんの数分前よりも確実に地面を踏みしめている感触がした――。
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