1 / 1
死の間際で思い出した、私は乙女ゲームのヒロインだった
しおりを挟む
息が、浅い。
天蓋の向こうの光がにじんで、世界の輪郭が少しずつ遠くなる。
白い布の匂い。薬草の苦くて甘い香り。
遠くで誰かが静かに水を替える音がした。
私の手を握っている人の指先だけがやけに温かい。
「……行かないでくれ。君がいなくなったら、俺は……」
夫の声が震える。泣いている。
この人がこんなふうに泣くのを見るのは――初めてかもしれない。
泣かないで、と言いたい。
大丈夫よ、と言いたい。
五十年分、言ってきた言葉のはずなのに、
喉がもう動かない。
指先も、返事の形を作れない。
それでも目だけは夫の顔を追う。
皺だらけの頬。
白くなった髪。
昔と変わらない、静かな目。
――そのとき。
視界の端に半透明の四角がふわりと浮かんだ。
『期間限定 死後の世界で使える「前世の能力」選択キャンペーン開催中』
……は?
もう一つ、ぴょこんと現れる。
『人生を振り返って、次こそ“正解ルート”を選びませんか?』
意味は分からない。
ただひどく場違いだという感覚だけが先に来た。
うるさいわね。
今、夫との大事な時間なのよ。
必死に視線を動かすけれど、四角は消えない。
むしろ、増える。
『無念ですね!』
無念じゃないわよ。
最高に幸せだったわよ。
夫の手の温度がある。
部屋に花がある。
季節の匂いがする。
孫が昨日置いていった手紙が枕元にある。
これ以上何が要るのよ。
――また、ぴょこん。
『今なら特別な選択肢が開放されます。最後に“伝えたい言葉”を届けましょう』
心の中で何かが叫んだ気がしたけれど、声にはならなかった。
部屋の空気の温度が急に下品になる。
視界がぎゅんと引きずられた。
天蓋も、夫の顔も遠ざかる。
眩しい光が広がって世界が巻き戻る。
走馬灯――というよりもっと露骨でもっと嫌な感じ。
『PLAY LOG:薔薇と剣の舞踏会』
その文字を見た瞬間、思い出した。
前世。
日本。
夜中にコンビニのカフェラテを飲みながら、スマートフォンで乙女ゲームを周回していた私。
大好きだった――
『薔薇と剣の舞踏会』。
……まさか。
私、そのゲームの世界に転生してたの?
じゃあ、私って――。
『あなたのロール:ヒロイン』
……うわ。
やだ。
今さら。
⸻
◆イベント:王太子からの求婚
ログが開く。
音もなく、華やかな場面だけが流れ出す。
十八歳の社交界。
金髪碧眼の王太子が、片膝をついて巨大な宝石の指輪を差し出してくる。
人だかり。
祝福。
歓声。
拍手。
「君を妃に迎えたい」
『あなたの選択:丁重にお断りしました』
ああ、そうだった。
あんな成金趣味みたいに大きな指輪。
なんだか落ち着かなかったのよね。
――その後、王太子は何度も結婚していた。
断って正解だったわ。
今、私の指にあるのは夫がくれた細い銀の指輪。
派手じゃない。
けれど一度も外したことがない。
掃除もしやすい。
サイズ直しも一回で済んだ。
最高だった。
⸻
◆イベント:運命の夜会
ログが切り替わる。
きらびやかな舞踏会。
音楽。
シャンデリア。
ドレス。
香水。
『あなたの選択:途中で会場を抜け出しました』
ああ、あの夜。
頭が痛くなるほど煌びやかで、息が詰まって。
私はこっそり会場を抜け出した。
庭の暗がり。
そこに先客がいた。
黒い外套。
背の高い影。
一人で立っていてこちらを見ても慌てない。
「……君も疲れたのか?」
低くて静かな声。
「ええ。あの喧騒が苦手で」
「俺もだ」
そこにいたのは後に夫になる人だった。
当時は、ただの地味な遠縁の貴族。
目立たない人。
「……腹は減っていないか」
「え?」
「この城は、空腹に不親切だ」
そう言って彼は私を城下町へ連れ出した。
屋台の串焼き。
油の匂い。
庶民の笑い声。
湯気。
手の中の温度。
「美味しい!」
「……そうか」
彼の口元が、ほんの少しだけ上がる。
その“少し”が、誰よりも優しく見えた。
⸻また場面が変わる。
◆記録外ログ:保存された断片
「……大切にする。約束だ」
……やだ、恥ずかしい。
これいつの記憶?
新婚じゃないわね、少し経った頃だわ。
そう言って私を押し倒した彼の腕は、
まだ硬さばかりが目立っていて。
重なった瞬間、
普段の静けさが嘘みたいに、
私たちはどちらも必死だった。
吸い付くような肌の熱。
喉を震わせる、低い喘ぎ。
シーツに広がる私の髪。
へその辺りに落ちる熱。
逃げ場のない距離。
「あ……あなた……」
それ以上は、
なぜか思い出せない。
⸻
あの夜が特別だったのかどうかは、正直よく分からない。
ただ気づいたらあの人はそこにいた。
私は派手な言葉じゃなく、
屋台の煙と人の声を選んだ。
その選択の先に、夫がいた。
無口で地味で、でも誰よりも優しい人。
子どもを産んで。
孫の顔を見て。
平凡で騒がしくて、愛おしい五十年。
それだけでよかった。
ログが最後まで走りきる。
画面の隅に小さな文字が浮かんだ。
『“名前の残らない伴侶END” 到達』
『報酬:安堵(小)/後悔(少)/幸福(多)』
……ほら。
幸福(多)って書いてあるじゃない。
それで十分よ。
視界がゆっくりと寝室に戻る。
夫の顔が近い。
涙で赤くなった目。
私の手を握る力が少しだけ強い。
その上に、また余計な表示が出かけて――
目線を外す。
私は夫を見る。
皺だらけの顔。
白くなった髪。
でも、目だけは五十年前と同じだ。
言いたいことは、たくさんある。
ありがとう。
ごめんね。
一緒に過ごせて楽しかった。
だから、
最後はこの一つでいい。
私は最後の力で声を作った。
「……あなた」
夫が顔を上げる。
「大好きよ」
それだけでいい。
夫の口元が少しだけ笑った。
視界が暗くなる。
最後に残ったのは手の温度だけ。
――ありがとう。
私、幸せだったわ。
彼女は静かに息を引き取った。
苦しそうな顔はしていなかった。
眠るようでどこか満足そうだった。
彼は、その手をずっと握ったまま動かなかった。
泣いて、笑って静かに息を吐く。
「……最期まで君らしいな」
誰にも聞こえない声でそう呟く。
五十年。
長かったはずなのに振り返ると短い。
舞踏会の夜。
庭の暗がり。
屋台の煙。
串焼きの油の匂い。
それから、ふと思い出す。
「……箱、か」
クローゼットの奥。
「絶対開けないでよ?そのまま捨ててね」
そう言っていたのを思い出す。
約束は守るつもりだ。
中身は見ずにきちんと処分しよう。
長年連れ添った夫としての勘が、
あれは見てはいけないものだと告げている。
彼は立ち上がり、
部屋の空気を整えるようにカーテンを少し引いた。
「本当に……退屈しない人生だったよ」
そう呟いて、
もう一度彼女の手をそっと握った。
天蓋の向こうの光がにじんで、世界の輪郭が少しずつ遠くなる。
白い布の匂い。薬草の苦くて甘い香り。
遠くで誰かが静かに水を替える音がした。
私の手を握っている人の指先だけがやけに温かい。
「……行かないでくれ。君がいなくなったら、俺は……」
夫の声が震える。泣いている。
この人がこんなふうに泣くのを見るのは――初めてかもしれない。
泣かないで、と言いたい。
大丈夫よ、と言いたい。
五十年分、言ってきた言葉のはずなのに、
喉がもう動かない。
指先も、返事の形を作れない。
それでも目だけは夫の顔を追う。
皺だらけの頬。
白くなった髪。
昔と変わらない、静かな目。
――そのとき。
視界の端に半透明の四角がふわりと浮かんだ。
『期間限定 死後の世界で使える「前世の能力」選択キャンペーン開催中』
……は?
もう一つ、ぴょこんと現れる。
『人生を振り返って、次こそ“正解ルート”を選びませんか?』
意味は分からない。
ただひどく場違いだという感覚だけが先に来た。
うるさいわね。
今、夫との大事な時間なのよ。
必死に視線を動かすけれど、四角は消えない。
むしろ、増える。
『無念ですね!』
無念じゃないわよ。
最高に幸せだったわよ。
夫の手の温度がある。
部屋に花がある。
季節の匂いがする。
孫が昨日置いていった手紙が枕元にある。
これ以上何が要るのよ。
――また、ぴょこん。
『今なら特別な選択肢が開放されます。最後に“伝えたい言葉”を届けましょう』
心の中で何かが叫んだ気がしたけれど、声にはならなかった。
部屋の空気の温度が急に下品になる。
視界がぎゅんと引きずられた。
天蓋も、夫の顔も遠ざかる。
眩しい光が広がって世界が巻き戻る。
走馬灯――というよりもっと露骨でもっと嫌な感じ。
『PLAY LOG:薔薇と剣の舞踏会』
その文字を見た瞬間、思い出した。
前世。
日本。
夜中にコンビニのカフェラテを飲みながら、スマートフォンで乙女ゲームを周回していた私。
大好きだった――
『薔薇と剣の舞踏会』。
……まさか。
私、そのゲームの世界に転生してたの?
じゃあ、私って――。
『あなたのロール:ヒロイン』
……うわ。
やだ。
今さら。
⸻
◆イベント:王太子からの求婚
ログが開く。
音もなく、華やかな場面だけが流れ出す。
十八歳の社交界。
金髪碧眼の王太子が、片膝をついて巨大な宝石の指輪を差し出してくる。
人だかり。
祝福。
歓声。
拍手。
「君を妃に迎えたい」
『あなたの選択:丁重にお断りしました』
ああ、そうだった。
あんな成金趣味みたいに大きな指輪。
なんだか落ち着かなかったのよね。
――その後、王太子は何度も結婚していた。
断って正解だったわ。
今、私の指にあるのは夫がくれた細い銀の指輪。
派手じゃない。
けれど一度も外したことがない。
掃除もしやすい。
サイズ直しも一回で済んだ。
最高だった。
⸻
◆イベント:運命の夜会
ログが切り替わる。
きらびやかな舞踏会。
音楽。
シャンデリア。
ドレス。
香水。
『あなたの選択:途中で会場を抜け出しました』
ああ、あの夜。
頭が痛くなるほど煌びやかで、息が詰まって。
私はこっそり会場を抜け出した。
庭の暗がり。
そこに先客がいた。
黒い外套。
背の高い影。
一人で立っていてこちらを見ても慌てない。
「……君も疲れたのか?」
低くて静かな声。
「ええ。あの喧騒が苦手で」
「俺もだ」
そこにいたのは後に夫になる人だった。
当時は、ただの地味な遠縁の貴族。
目立たない人。
「……腹は減っていないか」
「え?」
「この城は、空腹に不親切だ」
そう言って彼は私を城下町へ連れ出した。
屋台の串焼き。
油の匂い。
庶民の笑い声。
湯気。
手の中の温度。
「美味しい!」
「……そうか」
彼の口元が、ほんの少しだけ上がる。
その“少し”が、誰よりも優しく見えた。
⸻また場面が変わる。
◆記録外ログ:保存された断片
「……大切にする。約束だ」
……やだ、恥ずかしい。
これいつの記憶?
新婚じゃないわね、少し経った頃だわ。
そう言って私を押し倒した彼の腕は、
まだ硬さばかりが目立っていて。
重なった瞬間、
普段の静けさが嘘みたいに、
私たちはどちらも必死だった。
吸い付くような肌の熱。
喉を震わせる、低い喘ぎ。
シーツに広がる私の髪。
へその辺りに落ちる熱。
逃げ場のない距離。
「あ……あなた……」
それ以上は、
なぜか思い出せない。
⸻
あの夜が特別だったのかどうかは、正直よく分からない。
ただ気づいたらあの人はそこにいた。
私は派手な言葉じゃなく、
屋台の煙と人の声を選んだ。
その選択の先に、夫がいた。
無口で地味で、でも誰よりも優しい人。
子どもを産んで。
孫の顔を見て。
平凡で騒がしくて、愛おしい五十年。
それだけでよかった。
ログが最後まで走りきる。
画面の隅に小さな文字が浮かんだ。
『“名前の残らない伴侶END” 到達』
『報酬:安堵(小)/後悔(少)/幸福(多)』
……ほら。
幸福(多)って書いてあるじゃない。
それで十分よ。
視界がゆっくりと寝室に戻る。
夫の顔が近い。
涙で赤くなった目。
私の手を握る力が少しだけ強い。
その上に、また余計な表示が出かけて――
目線を外す。
私は夫を見る。
皺だらけの顔。
白くなった髪。
でも、目だけは五十年前と同じだ。
言いたいことは、たくさんある。
ありがとう。
ごめんね。
一緒に過ごせて楽しかった。
だから、
最後はこの一つでいい。
私は最後の力で声を作った。
「……あなた」
夫が顔を上げる。
「大好きよ」
それだけでいい。
夫の口元が少しだけ笑った。
視界が暗くなる。
最後に残ったのは手の温度だけ。
――ありがとう。
私、幸せだったわ。
彼女は静かに息を引き取った。
苦しそうな顔はしていなかった。
眠るようでどこか満足そうだった。
彼は、その手をずっと握ったまま動かなかった。
泣いて、笑って静かに息を吐く。
「……最期まで君らしいな」
誰にも聞こえない声でそう呟く。
五十年。
長かったはずなのに振り返ると短い。
舞踏会の夜。
庭の暗がり。
屋台の煙。
串焼きの油の匂い。
それから、ふと思い出す。
「……箱、か」
クローゼットの奥。
「絶対開けないでよ?そのまま捨ててね」
そう言っていたのを思い出す。
約束は守るつもりだ。
中身は見ずにきちんと処分しよう。
長年連れ添った夫としての勘が、
あれは見てはいけないものだと告げている。
彼は立ち上がり、
部屋の空気を整えるようにカーテンを少し引いた。
「本当に……退屈しない人生だったよ」
そう呟いて、
もう一度彼女の手をそっと握った。
0
この作品は感想を受け付けておりません。
あなたにおすすめの小説
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
愛していました。待っていました。でもさようなら。
彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。
やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。
【完結】あなたに知られたくなかった
ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。
5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。
そんなセレナに起きた奇跡とは?
【完結】精霊に選ばれなかった私は…
まりぃべる
ファンタジー
ここダロックフェイ国では、5歳になると精霊の森へ行く。精霊に選んでもらえれば、将来有望だ。
しかし、キャロル=マフェソン辺境伯爵令嬢は、精霊に選んでもらえなかった。
選ばれた者は、王立学院で将来国の為になるべく通う。
選ばれなかった者は、教会の学校で一般教養を学ぶ。
貴族なら、より高い地位を狙うのがステータスであるが…?
☆世界観は、緩いですのでそこのところご理解のうえ、お読み下さるとありがたいです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる