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プロローグ
しおりを挟む普段は見ないスマホの画面につい目を奪われてしまったのは、もう十年も連絡を取っていなかったある知り合いから、突然ラインメッセージが飛んできたからだった。“知り合い”というと変によそよそしい言い方で、聞く人によっては誤解を生んでしまうかもしれない。だけど僕にはその相手のことをそう言う以外になかった。特段仲が悪いわけではないし、かといって気軽に連絡を取り合うような仲でもない。知り合いと言うには“近く”、仲が良いというには遠い。
そんな関係だった。彼女と、僕は。
――そして、今。
枕元で静かな寝息を立てている彼女は、昨日までの世界がまるで嘘の出来事だったかのように嘯いて見える。月日の隔たりを一気に埋めてしまうような一夜を越えて、隣に横たわる彼女を眺めていると、どこか自分自身が仮想の幻影を覗き込んでいるような錯覚に陥る。
カーテンの隙間から射し込む淡い光が、彼女の髪の一筋を銀色に縁取っていた。規則正しい寝息は、長く張りつめていた糸がふっと緩んだようで、思わず僕まで肩の力を抜いてしまう。ほんの数時間前までの自分の行動を思い返すと、心臓の奥が冷たく痺れた。まさか本当に、一線を越えてしまうとは。憧れを憧れのままにしておくつもりだったのに。
「ねえ」
小さく声を出してみる。けれど彼女は目を覚まさなかった。微かに身じろぎをして、また深い呼吸のリズムへと戻っていく。その寝顔は十年前の記憶に残る彼女よりも幾分大人びていて、けれど笑ったときの柔らかい表情は、あの頃とまるで変わっていないように見えた。
昨夜、再会を喜び合ったときの空気がよみがえる。互いに言葉を探しながら、時折沈黙を笑いで埋めるようにして酒を重ねた。ビールから始まり、やがてワインに移り、グラスの縁に彼女の指が触れるのを僕は見逃さなかった。すべては偶然の積み重ねでしかなかったはずなのに、その偶然が導いた先に僕たちは立ち止まることができなかった。
彼女が先に身を寄せてきた。冗談のように肩を預け、そのまましばらく動かずにいた。僕の心は、古いオルゴールのゼンマイのように硬く巻かれていて、もう解放される瞬間を待つだけだった。気づけば僕は、その流れに逆らうこともなく、むしろ抗えないことに安堵していた。
だが、朝を迎えた今、胸の奥に残るのは陶酔ではなく、静かな罪悪感だった。義理の姉――その言葉を意識するだけで背筋にひやりとしたものが走る。関係が血縁ではないにせよ、越えてはいけない線は確かに存在していたはずだ。彼女は何を考えているのだろうか。あの誘いは本気だったのか、それとも一夜の戯れにすぎなかったのか。答えは彼女が目を覚ましたときにしか分からない。
窓の外では、街が朝を迎えつつあった。ビルの谷間を抜けてくる風がカーテンを揺らし、道路を走る車のエンジン音がかすかに響く。昨日と同じ朝が、何事もなかったかのように訪れていた。だが、その日常の中で、僕だけが取り返しのつかない境界を越えてしまったのだ。
胸の奥にひっかかる小さな違和感。それは決して言葉にできるほど明確なものではない。ただ、時折こうして窓の外を眺め、無意識に空を見上げてしまう瞬間がある。ビルの隙間から広がる空は、いつもどこか作り物めいて見えた。青が鮮やかすぎるのか、雲の形が整いすぎているのか。説明はできない。けれど僕はそのたびに心の中で問いを繰り返す。
――これは本当に僕の人生なのか?
自分の選んだ道を歩んでいるはずなのに、どこか決められた線路の上を走っているような感覚。昨夜の出来事でさえ、何者かの手によって用意されていた筋書きのひとつではないのかと、ふと疑ってしまう自分がいる。馬鹿げていると頭では分かっている。だが、感覚は消えない。
やがて彼女が小さく寝返りを打ち、目を細める。光に慣れない瞳が僕を見つけ、かすかな笑みを浮かべた。その瞬間、昨夜の出来事が夢ではなく現実だったことを、否応なしに突きつけられる。
「おはよう」
彼女の声は思ったよりも平然としていて、僕の胸をさらに締めつけた。
答えようとして、言葉が出てこない。
「おはよう」と返すだけでいいのに、その一言が喉に絡まりつき、吐き出すことができなかった。
外の街は動き始めていた。通勤を急ぐ人々、コンビニの自動ドアの開閉音、信号の切り替わり。すべては日常の延長にすぎないはずだ。それでも僕の心の奥底には、拭いきれない感覚が沈殿していた。
――なぜだろう。どうして僕は、こんなにも空を見上げたくなるのか。
窓から射し込む光は強くなり、部屋の中に新しい影をつくりはじめていた。
僕はその影を見つめながら、昨夜越えてしまった境界と、心の奥で燻り続ける小さな疑念を、重ね合わせるように意識していた。
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