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あの夏

第236話

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 いつからだったかな。

 蝉の声が、近くで聴こえるようになったのは。

 駆け足で街に出かけた午後。

 雨上がりの街の上で、空が透けて見えた。

 埃のかぶってた運動靴。

 ヘンテコなロゴの入った帽子を、ぶっきらぼうに被り。


 いつからか、日差しが眩しく見えるようになったんだ。

 いつも閉め切ってた部屋のカーテンが全開になり、網戸から抜けてくる外の風が、心地よく感じるようになった。


 飲みさしのポカリスエット。

 遮断機の降りた踏切。

 ——夏。


 頬に伝う汗がシャツに染みて、干上がるような気温が、丘を降る坂道の下まで続いていた。

 真っ青な海のそばに聳える街。

 その景色の隣で、「レッツゴー」と叫ぶ声。


 誰かを凄いと思うことなんてなかった。

 今まで。

 外の世界に、何かがあるなんて思いもしなかった。

 全部教えてくれたんだ。

 ——千冬が。

 自分の顔よりも大きいグローブを手に持った、ショートヘアーの女の子が。



 ザァァァ…

  ザザザ…

   ザァァ………



 海。

 明石海峡大橋。

 それから、入道雲。


 ハーバーランドを抜けて、ひたすら海沿いを走った。

 無我夢中でペダルを漕いだ。

 俺だけが知ってる特等席があるんだ。

 夏が来るたびに蘇る、思い出の場所が。


 遊歩道の砂利道を走り、線路沿いのフェンスを伝っていく。

 高松線の中央市場を過ぎて、遠ざかっていくポートタワーの明かり。

 おかんのバイクに乗って、よくここら辺を走ってた。

 4車線の広い道を突っ走って、物流センターのある埠頭まで。

 ポートアイランドの明かりが、遠くに見えてた。

 貨物船も、街の明かりが反射する神戸湾も、すごく綺麗だった。

 街中の喧騒が少しずつ遠ざかる住宅地の道なりを進んで、ヴィッセル神戸の旗のついた街灯が、和田岬駅の近くまで続いていく。

 ノエビアスタジアム。

 工業地帯。

 埠頭の上に立つ、背の高いクレーン。

 この場所、神戸の夜景が一望できる海沿いのこの道を、自転車で走ることは今までなかった。

 おかんと来た時は、毎回橋の近くのファミマに寄ってた。

 いつも星が綺麗なんだ。

 不思議と。

 ヘルメットを脱いで、広い駐車場のブロックに座る。

 バニラ味のアイスを頬張りながら、ふと空を見上げたら、たくさんの星が…

 まじで綺麗だった。

 まるで、街の明かりを全部、空に移したかのように。



 海の見えるこの街で育った俺は、波の音をいつも隣に感じてた。

 おかんに連れられ、いろんなところを走り回った。

 ヘルメット越しに響く350ccの排気音が、どこか心地良くて。

 西宮を過ぎた先の大阪湾と、古びた鐵工所のトタン屋根。

 広い海と空を見るのが好きで、よくバイクを止めてもらってたっけ。

 それなのにだんだん外に出るのが怖くなって、誰にも会いたくなくなって。
 
 須磨駅の向こうにある海岸線の通りに自転車を停めた。

 松の木の並ぶ石垣と、今はもう誰も使ってない電話ボックス。

 この場所は、何も変わってない。

 初めて野球ボールを持った、あの時と。
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