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あの夏

第245話

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 ザザァ

 ザザザ…



 世界が変わってるとかどうでもよくて、何が起こってるのかさえ、追いかける気になれなくて。

 ずっと、探し求めていたもの、思い出そうとしていたこと、そんな気配の先端をつつくように訪れた彼女のピッチングフォームが、夜のとばりの下に映える。

 波風が横からさっと吹いた。

 さやさやと、長閑な海辺のそばを通り過ぎる。

 夏に鳴く虫が、ジーーーーという唸り声を上げている。

 夜はどこまでも深い。

 それは、穏やかな波打ち際の気配が教えてくれていた。

 ただ、それでも…

 

 視界に焼きついて離れなかった。

 頭の中でわかってても、何が起こってるのかわからなかった。

 千冬が目の前にいる。

 それはわかってる。

 だけどそれ以上に、体の底から込み上げてくる感情があった。

 …感情?

 いや、もっと素朴な、…もっと、唐突な。


 冷め上がるような涼しい夜のそばで、風の中に漂う波の音が、ずっと遠い場所まで続いている。

 耳を澄ましてそれを追っても、それがどこまで続いているのかは掴めない。

 今が何時で、何分なのか。

 よくわからなかった。

 それくらい、混濁してた。

 海と、月明かりと、何もかもが鮮明に感じられても、現実がどこにあるかの境界が、はっきりとした形や色の中には見えなかった。

 灯台の明かりが、茫漠とした水平線のそばを照らしている。

 無機質な音がどこかに響き渡って、その合間に、——海の匂い。

 目の前に立つ彼女の向こうには、雲ひとつない夜空が見えた。

 どこまでも広いその空の向こうの星々は、世界の全部の光を吸い取ったように綺麗だった。

 俺はただ、茫然としてた。

 今、自分が何をしていたのかも、忘れてしまうくらい。


 「はよせぇ」

 
 彼女の声にハッとなって、思わず立ち上がる。

 自転車に乗る彼女の後ろを追って、何も考えられない時間が少しあった。

 夢にまで見た千冬のストレートと、焼きついたオーバーハンドのシルエットを、時折、瞳の中に残したまま。
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