溢れる雫

五嶋樒榴

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ウヰスキー

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桜の花が月夜の下で咲き乱れる。
弁護士月島比呂志は重厚なドアを開け、美しい人がいるバーに身を滑らせた。
「いらっしゃいませ」
同じ男とは思えないほど美しく、妖しい雰囲気のバーのマスターの、魅力的な声と笑顔に比呂志は見惚れた。
カウンターの椅子に腰掛けると、マスターは黙ってコースターとシングルモルトウイスキーのボウモアのボトルを比呂志の前に置いた。
比呂志の他にも数人の客がいたが、マスター以外のバーテンダーの旬が相手をしていた。
「ストレートで」
頬づえをついて比呂志は言った。
ウイスキーグラスに、トクトクと優雅な音を立て注がれる琥珀色のウイスキー。
比呂志はグラスに口を付けるとゆっくり喉に流し込んだ。
「何か良いことがありました?」
涼しい笑顔でマスターは比呂志に尋ねた。
「え?どうして?」
思いもよらぬマスターの言葉に比呂志は少し驚いた。
「お顔がなんだか嬉しそうに見えまして」
じっと見つめられ、吸い込まれそうなマスターの瞳に比呂志が映る。
「あはは。なんでもマスターはお見通しだね。うーん。良いことなのかなー」
自覚がないのか、比呂志自身分かっていない。
「もし良いことがあったのなら、それはこれから始まる予感なのかな」
良いこととは真逆の表情で、自信なさそうに比呂志は言った。
「気持ちが不安定ということですか?」
細く長い指を唇に触れさせ、腕組みしながらマスターは言った。比呂志はため息を吐いた。
「俺にもよく分からないんだよね。まともに恋愛してきてないから」
「司法試験一本の青春でしたか?」
あはは、と比呂志は笑った。
「マスターみたいなイケメンだったら、勉強一筋でもモテていただろうね。残念ながら、俺は頭も顔もフツーなもんで、たしかに司法試験一本だったね」
うーんと言って、腕組みしたままマスターは比呂志を見つめる。その眼差しに、同じ男だというのに比呂志はそそられドキリとした。
「謙遜と過小評価は違いますよ。ね、比呂志先生」
比呂志はグラスの縁を指で撫でる。
「信じないかもしれないけど、俺は今まで一度も女の子と付き合ったことないんだよね。33年間ゼロ」
おや、という顔でマスターは比呂志を見る。
「私、セクシャルマイノリティって人それぞれだと思いますよ」
マスターが勘違いしていると思って比呂志は顔の前で手を振る。
「違う違う!俺はノーマルだよ!」
赤面して必死に比呂志は否定した。
「比呂志先生が言ってるのはLGBTですよね。先生のはもっと深そうです。だって、未経験ではなさそうですから」
意外とズバリと踏み込んでくるマスターに比呂志は翻弄されっぱなしだった。
「どうして分かるの?」 
眉をひそめて比呂志は尋ねる。
マスターは微笑んで比呂志の問いには答えず、重厚なドアから客が入ってくると「少々お待ちください」と言いそっちの接客に移った。
しばらく1人で比呂志は飲んでいたがマスターが戻ってきた。
「お代わりなさいます?」
比呂志は頷くとウイスキーグラスをすっと前に出した。
マスターはグラスを下げながら言った。
「比呂志先生の琴線に触れる女性と、まだお会いできていないんですね」
比呂志の問いには答えず話題が変わった。比呂志はその切り返しに少しモヤモヤした。
「どうして経験はあるって思った?」
新しいグラスに、再びボウモアを注ぐとマスターは口を開いた。
「プライドの高い比呂志先生が、自ら33年間とわざわざ言うぐらいですから、お付き合いしたことがないイコール未経験とは思いませんでした」
完敗だと思いながら、比呂志は新しいボウモアをまた愉しみ始めた。
「実はね、担当しているクライアントの相談で今日その会社に伺った時、その相手がとても綺麗な人でね」
ふむ、という顔で、マスターは比呂志の話を黙って聞いた。
「俺は企業法務専門だから、いつも法務部の人間としか会わないんだけど、今日はその会社の社長秘書の相談に乗ったんだ」
思い出しながら、比呂志はグラスを口に付け啜る。
相談の女性は、先日車の後部を追突され今は通院中だった。その事故処理の依頼だった。
「責任割合は、彼女は過失ゼロだからこっちとしては楽な仕事なんだけど、俺はそれより彼女に目を奪われた」
「それは楽しいお仕事でしたね」
楽しそうにマスターが言うと比呂志は首を振る。
「それ以上は何もないよ」
比呂志はグラスを傾けて一気にあおった。
「愛なんて所詮幻想さ」
マスターに聞こえない声で比呂志は呟いた。
薄明かりのバーの中は、囁くような声の人達の会話。それがこのバーには本当によく似合う。
客を選んでいるわけではないが、このバーの客はレベルが高かった。
おそらくマスターの存在感により、そう言うハイレベルの人が集う場所になっているのだろうと比呂志は思っていた。
珍しくマスターがいつの間にか1人で来ている女性と、穏やかな笑顔で会話を愉しんでいた。
ショートボブの、カッコいい綺麗系な女性。
マスターもあんな顔ができるんだと、遠くから眺めながら比呂志は思い、ボウモアのグラスを空にした。
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