溢れる雫

五嶋樒榴

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ウヰスキー

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今日は法務部に用があり、比呂志は弥生の勤める会社にやって来ていた。
この会社は日本でも屈指の大手なので、社長と会う時は顧問の代表弁護士も来るが、それ以外は比呂志一人だった。
「今日は、常務が黒いネクタイしてましたね。これからお通夜かお葬式に行かれるんですか?」
比呂志が法務部長に尋ねると、部長は首を振った。
「今日は2年前に起きた事故の月命日なんです。社長が毎月18日は、弔いのため、取締役全員に社内にいる間は黒のネクタイをするように命を出しているんです」
あっ、と思って、比呂志は思い出した。
確か2年前の6月18日にタイのプラント建設で爆発事故が起こり、3人が亡くなったと当時ニュースが騒ぎ立てていた。
会社はその事故を真摯に受け止めて、遺族には充分な補償をしていた。
だが、それで故人が帰ってくるわけでもないが、社長は本社ビルの一角に慰霊碑を作り、取締役全員に月命日には黒のネクタイ着用を義務付けた。
二度と同じ過ちが起きないようにと。
帰り際、比呂志は慰霊碑に寄った。せめて亡くなった人達のために手を合わせようと。
慰霊碑の前に、ゆるふわのカールがかかった女性が、花を手向けていた。
よく見ると、その姿は弥生だった。
「中林さん?」
比呂志は声を掛けた。弥生はびっくりして振り返った。
「月島先生。なぜここに?」
「今日は法務部に来ていて、法務部長から2年前の事故の月命日と聞いて、せめて黙祷と思いまして」
よく見ると弥生は泣いていた。
「どなたか、この事故で亡くなったんですか?」
比呂志が尋ねると弥生は頷いた。
「恋人が亡くなりました。この仕事が終わったら、結婚しようと言って約束してました」
あまりに残酷な話に比呂志はびっくりした。
「社長はそのことを知って、私を専務秘書から社長秘書にしました。私が一度自殺未遂を起こして、放っておけないと、自身の目が届く場所に置いてくれているんです。もう、あの事故で悲しむ遺族を増やしたくないと」
ショッキングな話に比呂志は呆然とした。
弥生の過去にそんな悲劇があったと知る由もなかったからだ。
「私は彼を失って、もう何も要らないんです。こうして毎日ただ普通に時が過ぎていけば。私を大事にしてくれた社長のために働くのみです」
弥生の言葉に比呂志は首を振った。
「辛い気持ちは全部分からないよ。でも僕も、僕を可愛がってくれた祖父が亡くなった時、本当に辛くて悲しかった。中林さんの亡くなった彼と一緒にはできないけど、それでも……」
比呂志は言葉を止めた。
今俺に彼女の何が分かるのかと思い知らされたからだ。彼女は自分と違って、本気で愛した人を亡くしたのだから。
 「………すみません。分かりもしないのに、知った風に」
比呂志が謝ると弥生は笑った。
「先生みたいな人、初めてです。大抵、みんな同情して慰めてはくれます。分かってるんです。そうやって心配してくれてるって。でも所詮他人事でしょって思う、嫌な自分がいる。でも先生は違った。先生からは同情とは別のものを感じました。何かは分からないけど。ありがとうございます」
弥生は頭を下げ立ち去ろうとした。比呂志は慌てて声を掛けた。
「もし誰かに話したくなったら僕に電話してください!じゃない!僕に電話させて下さい!あなたと彼の話、聞かせてください!僕は何もできないけど、あなたが彼を一人で抱えるのは良くないと思う。嫌なら僕の電話拒否してください」
弥生はびっくりして比呂志を見る。
「なぜ、そんなに私と彼のこと気にかけてくれるんですか?」
弥生の問いに比呂志は笑顔で答えた。
「本気で人を愛しているあなたが眩しいから。僕は、臆病で今まで本気で、あなたみたいに人を愛したことがない。だから僕なら客観的に話を聞いてあげられる。それで、あなたの気持ちが軽くなるなら、僕も嬉しい」
ふう、と比呂志は息を吐いた。法廷でも、こんなに頭に血がのぼったことなどないのに。
「分かりました。では、また聞いてください」
にっこり笑った彼女はそう言ってその場を立ち去った。
比呂志はその場に崩れそうになった。
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