溢れる雫

五嶋樒榴

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番外編・今宵満ちる月

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重厚なドアを開けるとそこはもう異世界のようだった。
深淵な雰囲気を醸し出しながら、ジャズが静かに流れる隠れ家的バー。
妖しいマスターが、美しい笑顔で私を迎えてくれる。
19時。
オープン直後だったせいか、平日のせいか、客はまだ私1人だった。
カウンターの中には、妖しく美しいマスターと、モデルかと見紛う若くイケメンなバーテンダーが、素敵な笑みで並んで立っていた。
絵になりすぎるふたりに、羨望の眼差しを送りながら私も笑顔を向ける。
「お久しぶりですね、いつ日本に?」
私はカウンターの椅子に腰掛ける。
「一週間前に戻ったんだよ。つい、マスターの顔が浮かんで、今夜はこちらに脚が向いてしまった」
これは本音。
日本で過ごす最後の夜を、素敵な夜にしたかったからだ。
「日本を発つ前にご来店いただけて、誠に嬉しい限りです」
私の背後に置かれたトランクを見て、今夜日本を発つのがマスターも分かったらしい。
「……今夜は、月が綺麗な夜だよ。この街がいつも以上に美しかった」
マスターが長い指で、コースターを私の前に置いた。
「今夜は中秋の名月ですからね。満ちていく月に合わせて、ビルの谷間のこの街も、月明かりの下で煌めいていたのでしょうか」
私はフッと笑って、久しぶりの大都会の日本を感じた。
まだ日本にいた頃の、懐かしい夏の喧騒と灼熱の夜を思い出していた。
「お飲み物は?いかがなさいますか?」
マスターの声に現実に戻される。
「オーソドックスに水割りを貰うよ。シングルモルトで」
マスターが微笑んで長い指で、アイラのシングルモルトウイスキーをカウンターに置く。
グラスに氷を入れると、琥珀色のウイスキーを静かに注ぎ込んだ。
バースプーンでステアすると、氷の角が溶け美しき光を放つ。
水で満たして軽くまたステアすると、至極の一杯を私の前に静かに置いた。
耳障りの良いジャズの調べに聴き惚れながら、私はスモーキーな水割りを口に付けると喉を潤す。
「うん、美味しい。いくらでも飲めてしまいそうで怖い」
私が笑って言うと、マスターは満足そうに微笑んで頷く。
「彼女と会った。久しぶりに会った彼女は、まだ1人だった」
黙ってマスターは聞いてくれる。私の恋の経緯を全て知っているマスター。
「彼女は待つと言ってくれたのに。それなのに別れを告げてアフリカに行った私を責めることもなく、ただ笑って私の帰国を出迎えてくれたんだ」
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