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【第10話】あいしてる

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 どんなに手間と時間をかけて積み上げたものでも、崩れる時は一瞬だ。
 そうやって居なくなっていく人間をたくさん見てきた。誰よりも有能だった父親は、ある日突然病に倒れて会話すらできなくなった。

 物心ついた時から、正臣は会社のために生きてきた。だが、正臣は知っている。
 どれだけ心を尽くしても、会社が自分を守ってくれることはないのだ。


 東京丸の内。須藤グループホールディングス本社ビル。
 最上フロア。そこには、主に役員が使用するためだけに作られた会議室がある。
 ロの字型に並べられた机に、会社の重鎮たちが並んでいる。
 ロの字の下側。入り口のドアからほど近い場所に、正臣は腰を掛けていた。つい先日まで正臣の席は、もっと部屋の奥側の方にあったはずだけれど、そんなことを今ここで取り立てても仕方がない。

 部屋の時計が、10時を指した。予定されていた時刻だった。
 かろうじて聞こえていた、さざ波のような雑談が、一斉にして消える。

「正臣」

 真正面から、声がした。
 それは、父の弟、正臣の叔父にあたる人物のものだ。


「これより君の、専務取締役解任決議を行う」




 夏が過ぎて、季節は秋を迎えようとしていた。

「準備、出来たか?」
 マンションの部屋で、国近肇は問いかけた。
 午前8時。柔らかな陽の光が部屋の中には差し込んでいる。問いかけられた青年――美斗はコクリと頷いて、ソファーから立ち上がった。
 二人並んで、玄関先へ向かう。

 『One Week』に掲載された記事は、都築さんの言う通り、すぐに全国ニュースになった。須藤グループ側は、いったんは各方面に手を回し、事態を丸く収めようと努力したようだ。しかし、同時期ネット上で例の記事と同じ経験をしたというSubの声が複数見られるようになり、それは立ち行かなくなった。一転して批判に晒されるようになり、株価においては大暴落を続けているという。
 同じ頃に美斗が起こした民事裁判は、現在二回目の口頭弁論を控えている。須藤グループがこうした状況のため、書類の提出が遅れているらしい。詳しい期日はまだ決まっていない。
 そして、記事が掲載された少し後、美斗は警視庁に来庁し、須藤正臣氏とその父親・須藤忠臣氏を刑事告訴するための相談をした。それを元に国近は事情聴取を行っており、美斗の供述が整い次第、告訴状の作成と受理に移ろうと考えている。元々美斗が書面を用意していたということもあり、事情聴取は概ねスムーズに進んでいる。おそらくあと二回程度で、次のステップに移れるだろう。
 
 今日は、美斗の何回目かの事情聴取が予定されていた。国近はこのまま美斗を連れて出勤し、朝の捜査会議を終えた後、彼の聴取に移るという手筈になっている。

 玄関先で、国近が革靴に足を通す。美斗の道を作ろうと顔をあげた。
 美斗が一歩、こちら側へと踏み出す。

 その時だった。
 もう一歩と足を踏み出した彼の身体が、壁に向かってゆらり、と揺らいで。
 支えを失い、床へと倒れ込む。

「……っ! ハルト!」

 その身体を、国近は寸でのところで受け止めた。

「ぇ……あ」
 胡乱な目が、こちらを見上げる。
 彼の額に触れると、じんと、手のひらに温みが伝わった。

「君、熱があるんじゃないのか」



 ピピッ。電子音が鳴る。ベッドに横になった美斗が、脇に挟めた体温計を差し出した。
 縁に腰を掛けて、国近はそれを受け取る。表示板に視線を落とすと、デジタル数宇が37.6を示していた。
 そこまで高熱ではないけれど……。

「疲れているんだろう」
 つらい過去を振り返るのは、精神的な負担がかかる。
 事を急ぐ必要があったから、聴取も少し勇み足になっていた。その前だって、誹謗中傷に晒されて、かなりのストレスを貯め込んでいた。
 加えて、ここ二、三ヶ月、満足にPlayも出来てない。厳格に欲求の管理をしている国近よりは、美斗の限界の方が早いはずだった。
「気が付かなくてごめんな」
 そう、国近は詫びた。
 Subの健康管理はDomの役目だ。美斗の限界を把握しきれていなかったのなら、次から気をつけなければならない。
 今からPlayは無理だな。でも、午後までなら傍にいてやれるだろうか。そもそも正臣氏がどう動くか分からないから、美斗をなるべく一人にはしたくないのだ。
 今日も聴取のあと、大志に美斗を拾ってもらって家の番をしてもらう予定だった。彼に言えば、ここに直接来てもらうことは可能だろうが、それも午後は過ぎてしまうだろう。
 本来なら護衛をつけた方がいいのだけれど、人が増えれば、せっかく刑事部長が情報操作してくれているこちらの動きが、正臣氏に感づかれる恐れもある。中々難しい。


 不甲斐なさそうな目が、こちらを伺う。
 それを見て、国近は目まぐるしく動き回っていた思考を一旦全て停止させた。
「少し休んだらいい」
 優しくそう伝えて、薄く笑う。そっと美斗の頭を撫でた。
 
 美斗は、二、三言何かを言おうと唇を開いた。けれど、伝えたい言葉は上手く見つけ出せなかったようだ。
 そのままゆっくりと、瞼を閉じる。



 数時間後。
 モダン調のダブルベッドで、須藤美斗は瞼を開ける。
「おはよう」
 声に反応して、頭上を見上げる。
 ベッドサイドに座ったまま、国近が美斗の頭を撫でていた。その手はそのまま、額の方へと移動して。

「熱、少し下がったみたいだな」

 ぼんやりとした眼で、美斗は国近を見つめた。どうしてこんなことになったんだったけ。
 ああそうだ。朝から聴取を予定していたけれど、出かけに自分が倒れてしまったのだ。
 今日は目が覚めた時から、調子がおかしいような気はしていたけれど、まさか倒れてしまうとは思わなかった。
 身体に力が入らないし、頭もよく働かなかない。
 だけど、額に載せられた手はひんやりと心地よくて、それだけで、美斗は息をすることが出来るような気がした。
 なんだか、前にもこんなことがあったな。あれは、兄に連れ戻されたすぐあとだった。須藤の屋敷で痛めつけられていたところを、国近が救い出して、この場所に匿ってくれた。
 Sub dropで高熱にうなされて、とにかく辛くて、苦しくて、身体がバラバラになってしまうような気がして。
 そんな自分を、彼は懸命にケアしてくれた。自分を救いあげてくれるのは、いつだってこの骨ばった手だ。

 そっと、手のひらを重ねる。国近は薄く笑って、しばらくそのままでいてくれた。

「……今、何時?」
 少ししてから、問いかける。
「もうすぐ12時半になるところだよ」
「……仕事は?」
 出勤時間はとうに過ぎているはずだ。自分のためにその時間をずらしたのなら迷惑をかけてしまった。
 国近はなんてことないように笑って、
「もう少ししたら出る」
 と答えた。
「14時過ぎに、大志くんが来てくれるそうだ。それまでの間一人になってしまうけれど……」
「大丈夫だ」
 昨今テレビをつければ、朝も昼も、須藤グループの話題で持ち切りだ。本邸や本社ビルだけでなく、第二邸宅の前にもたくさんのマスコミが張っているのを見た。
 あんな状態なら、兄だって何も出来ないだろうと思う。
 ふいに、美斗は胸が痛む。随分と大事になってしまった。須藤グループは大きい会社だから、関係のない人にも影響が及んでいるかもしれない。
「……そうか」
 それでも、不安は拭えないといった様子で、国近は目を伏せる。
 美斗の枕元にスマートフォンを置いた。
「それ、置いていくから。大志くんが来たらかけてくれ」
「……ああ」

 国近の目線が、チラリと腕時計を見る。そろそろ時間なのだろう。
「すぐ戻る」
 それだけ言うと、国近は立ち上がって、部屋を出ていこうと背中を向けた。

「……なあ」
 ドアノブを掴んだ背中を、美斗は呼び止める。
「……ん?」
 そのまま、彼は振り向いて。
 落ち着いた様子で首を傾げた。

「お前は……」

 そこで、美斗は固まってしまった。
 口に出そうとしていた言葉の奇妙さに気が付いて、唇を閉じる。
「……ああ、いや……なんでもない。いってらっしゃい」
「……? そうか」
 国近は一瞬、怪訝そうにこちらを見つめた。けれど、深くは気に留めなかったようで、再び穏やかに笑うと部屋を出た。
 パタン、と部屋のドアが閉じる。少し経ってから、扉の向こうで国近が玄関を発つ音が聞こえた。
 一抹の寂しさを抱えながら、美斗は反対側へと寝返りを打つ。


 自分は何を言おうとしていたのだろう。

――お前は、いなくなったりしないよな。

 なんて。

 子どもみたいな不安だ。今日は具合が悪いから、少し気が弱くなっているのかもしれない。
 小さく笑って、美斗は毛布を手繰り寄せた。




 頭が痛い。

「だから私は反対だったんです。いくら代表が危篤とは言え、まだ若い正臣さんに会社を任せるなんて」
「不当支配の事実は本当なのか」
「就活生の間では弊社を避ける動きも出ています。このままでは今年度の新卒採用は見込めないかと」
「責任をどう取るおつもりなのか」
 目の前で繰り広げられる論争に眉根を寄せて、須藤正臣はこめかみに指を置く。
 机に視線を落とし、深く息を吐いた。

 責任、とはよく言えたものだ。
 そもそも正臣が責任を問われるとすれば、それはあの子のことだけだ。
 人事の件は、自分が生まれるよりも前から続いている。
 ここにいる全員、平等に責任があるはずなのに、そのことには誰一人触れやしない。自分一人を切り捨てて、本当に事が丸く収まるとでも思っているのだろうか。
 この歪みは後を引く。きっと十年後も、二十年後も。

「みなさん、一度落ち着きましょう」
 そう言ったのは叔父だった。柔らかな微笑を浮かべて、わざとらしく周囲に呼びかける。
「彼の言い分も聞かなければいけません。これはそのための会でもあるのですから」
 温厚な顔を装って、この男の中に魔物が住んでいるのを、正臣は知っていた。

「正臣」
 と叔父が自分を呼ぶ。

「私は君に弟がいるなんて、つい最近まで知らなかったよ」
「はっ……」
 あまりにもおかしくて、正臣は笑ってしまった。
 随分今さらな指摘だ。本当にそう思っていたのなら、初めの報道が出た時点で言うはずだ。
 自分を庇う気など端からない。巧妙に詰める時期を伺っていただけのくせに、堂々としたものだ。

「楽しそうですね」
 誰よりも自分が邪魔だったはずだ。
 だって……。
「過日の脅迫の件は貴方が――」


「正臣様」


 後ろから声が飛んで、正臣の言葉は遮られた。従順に控えていた桐野の声だった。
 そこで、はた、と気が付いた。
 ああ。しまった。今のミスは随分と自分らしくない。
 あの時の証拠は、自分が全て消してしまった。会社のためを思っての判断だったけれど、こんなことになるなら、早めに叔父を潰しておくべきだったかもしれない。
 自分は重要な判断をいくつか間違えた。


 顔を上げる。冷ややかな瞳が正臣を囲んでいた。


 頭の右側が、ガンガンと警鐘を鳴らす。
 頭が痛い。もう、ずっと長いこと眠れていないのだ。
 
 正臣、だなんて、父はどうしてこんな名前を自分に付けたのだろう。
 この場所に、この玉座に、正しさなどない。

 その時だった。
 正臣の中で、プツン、と何かが切れる音がした。



 午後1時過ぎ。警視庁。
 国近が向き合っていたのは、先週まで一課が追っていた事件の被疑者だった。
 美斗の告訴状を受理するまでは、こうして他の事件の補佐をすることになっていた。


 国近は順に事情を聞き、情報を整理していく。


 聴取が始まって、二十分程度過ぎた時だった。
 ふいに入り口の方から、ノックの音がした。目線をそちらの方へと向ける。
「国近、ちょっと」
 そこに立っていたのは柏木で、手招きをして国近を呼んでいた。

「……すいません。少し外します」
 記録係を担当していた同僚にそう言い置いて、パイプ椅子から立ち上がる。
 取調室を出た。

 そっと扉を閉めて、柏木と向かい合う。
「どうかしましたか?」
 と聞くと、柏木はスマートフォンを取り出し、画面を向けた。
 ライブニュースの動画のようだ。再生ボタンを押す。

 テロップに映っていたのは、こんな文字だった。

――【速報】須藤正臣氏、退任。

 その言葉が意味することに気が付いて、国近は目を伏せる。いずれこの日が来ると思っていたけれど、それは国近が想像していたよりも早かったようだ。
 廊下に、キャスターの声が響いていく。

『須藤グループホールディングスは、本日、正臣氏の専務取締役解任決議を行い、全員可決で正臣氏の解任が決まりました』

 映像に、本社を出る正臣氏の姿が映っていた。
 報道陣の前を無言で通り過ぎ、硬い表情で車へと乗り込む。

『今回の退任ついて、一連の週刊誌騒動については触れられていませんが、関係者によれば経営面での責任を取る形だと……』

 そこで、柏木が映像を止めた。
 胸元にスマートフォンをしまいながら、国近の方を見る。
「ひとまず、外部からの圧力はもう警戒しなくてもいいはずだ」

 事態が収束に向かっている。
 告訴状を無事に受理し、容疑が固まれば誤魔化すことは難しくなるだろう。こちらの思惑通り、美斗の請求を受け入れるしかなくなる。
 王手まであと少しだった。

「……」
 その時、国近は急に、妙な焦燥感に襲われた。
 硬く唇を結んだ正臣氏の表情が、やけに頭に染みついて離れなかった。

「柏木警部」

「一度マンションに戻ってもいいですか」
 あの場所で、美斗はいま一人きりだ。

「嫌な予感がします。杞憂だったらいいのですが……」




 雨が降っている。

 ベランダから響く、柔らかな雨音に気が付いて、美斗はうっすらと目を開けた。
 薄暗くなった部屋の中で、その音だけが響いている。どこか酸っぱい雨の匂いが部屋中に香っていた。
いつの間にかまた眠っていたらしい。
 枕元に手を伸ばして、スマートフォンを確認する。時刻はちょうど13時半になるところだった。天井に身体を向けて、はぁと深く息を吐く。
 本調子ではないけれど、今朝よりはだいぶ気分もいい。少しぐらいなら身体も言うことを聞いてくれるようになった。
 もう少し休んだら、食事を取ろう。朝から何も食べていないから、何か胃にいれた方がいいだろう。
 そんなことを考えながら、再び目を伏せる。

 ふいに、玄関の向こうで足音がした。堂々とした音は国近の奏でる足音と似ているけれど、歩幅の速さは少し異なる。
 続いて、カチャリと鍵穴に鍵を差し込む音が耳に届いた。
「……?」
 横になったまま、美斗は首を傾げた。
 大志が来るには、まだ早いはずだけれど……。

 上体をゆっくりと起こす。
 のろのろとベッドから降りる。寝室の扉を開けて、リビングへと向かった。そのまま玄関先を確認しようとして、気が付く。
 視線の先に、男の足先が見えた。
 光沢のある革靴と、見慣れたスーツの裾。
 仕立てのいい、黒のスーツ。――兄が好んで着ていたもの。
 それを見て、美斗の顔はさぁっと青ざめた。

 顔を上げる。

 絹糸のような黒髪が、その人の顔に翳りを落とす。
 薄暗い室内に、彫刻のような綺麗な顔が浮かび上がった。

「首輪、外しちゃったんだな。似合ってたのに」

――支配者が立っていた。



「なんで……」
 唇から零れたのは、そんな意味を持たない言葉だった。
 柔い笑みを浮かべた兄は、ゆっくりとこちらを見据える。その微笑みは、一見すれば誰もが魅了されるような華やかなものだった。けれど瞳の奥は、不思議なほど、なんの光も灯していない。兄のこういった顔を、美斗は何度か見たことがあった。こうなった時の兄は、どんなに残酷なことでもしてみせる。
 薄桃色の唇が、ゆっくりと開いて、言葉を紡ぐ。

「かくれんぼは楽しかったか?」

 それは、その色合いの唇から発せられているとは到底思えないほど、冷え切った声だった。
 隠しきれない苛立ちと、獲物を追い詰めてやったという興奮が、その声色に乗っている。
 ぞっと、美斗は背筋を凍らせた。

「座れよ。少し話をしよう」

 冷や汗が美斗の額から伝う。
 この場所から逃げ出さなければならない。けれど膝は、上手く力が入らなかった。体重を支えきれなくなった腰が落ちて、フローリングに尻もちをつく。
「あ……」
 そうやって怯えていると、兄は口角を上げた。やがて、じりじりと距離を詰めてくる。
 どうしよう。どうしたらいい。


 そこで、電話が震える。
 無意識にスマートフォンを握って寝室を出ていたらしい。
「あ……」
 はっと気が付いて、画面を見る。このスマートフォンに電話を掛けてくる人間はただ一人だけだ。
 手のひらだけを使い、一気に壁の近くまで離れる。
 震える指先を使って、どうにか通話ボタンとスピーカーボタンをタップした。
『美斗、そっちは』
 優し気な声が、部屋の中に響いた。
「ぁ……はじ、め」
 助けて、そう言おうとした時だ。

「美斗」
 
 正臣が冷たく、美斗の名前を呼んだ。

『……っ!』
 電話口の国近が小さく息を飲んだ。


「僕が話しているのに、よそ見なんて感心しないな」


 そこにはもう、さっきまでの微笑みはなかった。
 代わりに美斗に向けられたのは暴力的なまでの強いGlareだ。
「あ……あぁ」
 あまりの重圧に、美斗はスマートフォンを取りこぼす。
 コツン、と音が立って、器械が床へと転がった。
『やはりそこに、いるんだな』
 通話は、かろうじてまだ続いている。部屋の中に国近の声が反響した。
 でも美斗には、その器械をまた拾い上げることは出来なかった。
『美斗。そんな奴の言うことは聞かなくていい』
 兄の冷たい眼から目が離せない。
 その瞳が、冷淡に器械の方へと動いた。
『一人にしてすまない。すぐに行く。だから――……』

 次の瞬間。

「ひ……!」
 ガシャン! と大きな音がした。キン、とした金属の音が部屋に反響して、思わずびくっと身体が跳ねる。
 恐る恐る音のした方を見ると、革靴の下でスマートフォンが粉々に砕けていた。

「あ……」
 一縷の望みが切られてしまったような絶望が、美斗の心を支配する。
「これで、僕の話に集中できるかな」
 そう言って、正臣はまた口角を上げた。軽く器械を蹴りどかし、飛び散って裾についたガラスを優雅に払う。
「まあ僕の用件は一つだけ」

「戻って来いよ。このまま裁判が続いたって、負けるのは美斗だよ」

 美斗の指先は無意識に首筋の方へと伸びていた。息が、上手く出来なかった。
 とっくの昔に首輪は外したはずだけれど、それが、今、確かに美斗の首を絞めているような気がする。
 有無を言わさない正臣の視線が、美斗の身体には重くのしかかっていた。
 行きたくない。本心はそう言っている。でも、美斗の本能は降参を示し、正臣の言うことを叶えようとしていた。
 このまま帰ってもきっと、この人はRewardなんかくれやしないのに――。


 その時だった。


――そんな奴の言うことは聞かなくていい。


 ふいに、耳の奥でそんな声がした。
 それは、今まさに聞いた、電話口の国近の声だった。はっと、美斗は気が付く。もう一度、確かめるように心の中でその声を反芻した。

 ああ。肇の声がする。
 
 一度だけ、深く息を吐いて、美斗は乱れた呼吸を整える。
 大丈夫だ。自分はまだ息が出来る。
 自分を支配できるのは、この世でたった一人だけだ。
 目の前にいるこの人じゃない。

 きゅっと拳を握り直した。
 そうして、真っすぐに、美斗は正臣を見据えた。


「嘘だ」


 ピクリ、と兄の眉が動く。
「……嘘?」
「本当に勝算があるのなら、あんたは黙って裁判が終わるのを待つはずだ」
 肇はこちらに向かっていると言っていた。それなら、時間を稼げばきっと何とかなるはずだ。兄はきっと焦っている。
「それをしないのは、勝ち筋が見えなくなったからだろう?」


「俺はもう、あんたのコマンドには従わない」


 一瞬、正臣の顔から表情が消えた。
 部屋の空気が凍り付く。

「ははっ。随分言うようになったんだね」
 乾いた笑いが、正臣から零れた。


「今も固まって動けないSubのくせに!」

「い、ぁ!」
 美斗の頬を、鋭い衝撃が走った。
 体勢を崩した身体が、フローリングに転がる。
 何をされたのか理解するより先に、素早くみぞおちに重たい蹴りが数発入れられる。
 防衛のために丸まろうと膝を折ったところで、髪を乱暴に引っ張られて起こされた。
「い、痛っ……!」


「勘違いしているようだから教えてやる。僕はお願いをしているわけじゃない。『僕に従え』と命令しているんだ」


 続けて二発の平手が、美斗の頬を打った。
 そのまま乱暴に、フローリングへと捨てられる。
 生理的な涙が零れた。喉の奥から血の味がして、ごほっと数回咳き込む。
 それでも懸命に身体を起こそうとしたところで極めつけの蹴りがまた飛んで、美斗は動
けなくなった。

 視界が眩んでいく。

「首輪がないんじゃお仕置きできないな。そもそも、君はあの程度じゃ足りなかったみたいだ」

 言いながら、正臣はおもむろにキッチンの方へと向かった。
 戸棚を開き、何かを手に取って戻ってくる。

 霞む視界で見えたのは、木製の柄が付いた果物ナイフだった。

「ぇ……」
 それを見て、美斗の瞳は大きく見開かれた。
 去年の秋、一度だけ、国近が白桃を買ってきてくれたことがある。美味しそうなものが手に入ったからと言って。そのナイフを使って剥いてくれた。
 瑞々しくて蕩けるように甘い果実の味を、美斗はまだ覚えている。
 それを使ってなにを……。
 何をするつもりなのだろう。この人は。

「次は脚の腱を切ろう。そうしたら、もう逃げようだなんて思わないだろう?」
 
 冷え切った眼差しは、それが一つの冗談でもないということを物語っていた。
 兄は本気なのだ。本気で、自分から自由を奪おうとしている。

「脚をこっちに向けろ」

「嫌だ……やめ」
 カタカタと震えながら、美斗はどうにか肉体を起こす。
 逃れようと身体の向きを変えた。

 しかし……。

「ほら。美斗」

「“present”は得意だっただろう?」

 コマンドが向けられて、美斗の身体が硬直した。
「ぁ……あ、あぁ……」
 気付けば兄の言う通り、足先を兄の方へと差し出している。
 嫌だ、嫌だ、嫌だ、

「や、やめ……」

 足首の裏に向かって、ナイフが振り下ろされる。
 衝撃に備えて、美斗はきつく目をつむった。

 その時だった。


「ハルト!」





 国近肇が部屋に着いたとき、一番初めに飛び込んで来たのはうずくまる美斗に向かって果物ナイフを振り上げる須藤正臣の姿だった。

「ハルト!」

 寸でのところで間に入り、美斗の身体を抱きとめる。

「…つ…ぁ」

 フローリングに、二、三滴ポタポタと血が落ちた。
 零れ落ちたナイフが、その場に転がって、金属音が反響する。
 刃先には、じっとりとした血が着いていた。

 安全を確認してから、そっと、美斗から手を離す。
 素早く向き直ると、美斗のことを守るような形で立ちはだかった。

「何をしている」
 国近を見つめる瞳は、ひどく冷めていた。
 返事は返ってこなかった。冷徹に、残忍に、彼はただそこに立っていた。
 もう一度、国近は同じ質問を繰り返す。

「何をするつもりだったのか、と聞いている」

「は……」
 そこで、ようやく無表情の顔に、嘲笑が浮かんだ。
「ちょっと痛めつけてやろうと思っただけだよ。もっとも、君が負傷してくれたのは僕にとっては僥倖だけれど……」
 あまりにも受け入れがたい言葉だ。国近はさらに表情を硬くした。

 ちょっと?

 背後のパートナーを伺う。
 乱れた髪の隙間から、色白の顔が見えた。
 頬は真っ赤に腫れて、唇の端からは血が沁み出ていた。
 そこにはありありとした暴行の痕が残っていた。今は見えないけれど、服の内側も、きっとたくさん殴られたに違いない。
 極めつけに刃物まで持ち出しておいて、それが『ちょっと』だと言うのか。

 腹の底に、冷え切った怒りが溜まっていく。

 この男は今何をしたのだ。
――俺のSubに!


 湧き出る怒りを抑え、深く、国近は息を吐く。
 茫然と座り込む美斗に向かって、薄く微笑んだ。
「怖かっただろう。もう大丈夫だ」
 美斗の視線は強張ったままだった。じっと、国近の脇腹を見つめている。
「は、はじめ……血が……」
 異常なまでに青ざめた顔色を見て、はた、と国近は自分が、結構な深手を負っていることに気が付いた。
 刃先が触れた感覚は、確かにあった。
 少し掠っただけかと思ったけれど、肉はそれなりに抉られているらしい。
 ぬかるんだ血がワイシャツを染め、スーツの内側から太ももを伝って落ちていく。

 ああ。これは……。まずいな。
 頭の中で、素早く状況を整理する。
 ここに来るまでに柏木に連絡をした。近場の交番に連絡をして、人を寄こしてくれるだろう。
 応援が来るまで少なくとも五分か。
 不思議と、痛みはなかった。けれど長引けばきっと動けなくなるのだろう。
 早めにカタをつけなければならない。

「こんなところに匿っていたなんてね。どおりで時間がかかるわけだ」

 ふ、と須藤正臣は不敵に笑った。

「ご苦労様なことだね。でも、もういいよ。この子は僕が連れ帰ろう」



 どうしてこんなことになったんだ。
 自分はただ、人並みに生きたいだけだった。平凡に仕事をして、平凡に外に出て。
 そうやって、人並みの人生を、一番大切な人と生きたかった。

 だから、兄と闘うことを決めたのに――。
 それは、分不相応な願いだったのだろうか。


 数本の拳が、美斗の前を通り過ぎる。それを、国近が腕の力で受け止めた。反動を使い、兄の拳を跳ね返す。
 美斗の目の前で、二人が殴り合っている。
 
 負傷をしている分、国近が押されているようだ。
 国近が一発拳を入れる度、正臣が二発の拳で応酬していた。
 フローリングに、赤い沁みが広がっていく。
 そのほとんどは、国近が流している血だった。

 次第に血の気を失っていく国近の顔を見ながら、美斗は彼を本当に失ってしまうような焦燥に襲われた。

 自分の大切な人は、みんないなくなってしまう。

 両親が死んだあの日から、美斗はずっと罰を受けているような気がする。
 けれど、これはいったいなんの罰だろう。もうずっと、心当たりがないのだ。



 頭がくらくらする。
 どれぐらい時間が経っただろうか。おそらく一分も経過していないはずだが、体感では三十分以上戦ったような気分だった。
 懸命に攻撃をいなしているが、打たれる拳の全ては避けきれない。
 拳が身体に当たれば、それはじんと、痛みを伴って国近にのしかかった。

 細身の身体のどこに、こんな力があるのだろう。この力でずっと、美斗を殴っていたのか。

――何年もの間。

 どれだけ痛かっただろう。どれだけ苦しかったことだろう。
 事情聴取を終えたあと、美斗はいつも首元に手を置いていた。そこにあった首輪が、もうないことを念入りに確かめている。
 夢も、希望も、未来も。この男が全て壊した。

 そこで、右頬に拳が飛ぶ。
 国近の身体は大きく飛んで、壁にぶつかった。
 起き上がろうとしたところで、力が入らないことに気が付く。背中がジンジンと痺れていた。

「あはっ」
 狂った笑い声を上げながら、彼が近づいてきた。
 国近のみぞおちに右脚をのせると、そのまま、ぐりぐりと踏みつけにする。
「い……!」
「目障りなんだよ、君」
 ナイフで出来た傷口を絶妙に避けたそれは、ただただ相手に苦痛を与えるためだけの攻撃だ。
「僕のものに手を出してさぁ……。躾にどれだけ時間がかかったと思ってんの?」

「……消えてもらおうかな」
 革靴が、身体から少しだけ浮く。虫けらを見るような目で、須藤正臣は脇腹の傷口を見た。
 傷を抉るため、つま先が触れたときだ。


「兄ちゃん!」


 部屋の片隅から声が飛んで、
 ピタリ、と彼の動きが止まった。

「もう……やめてくれ……!」
 悲痛な声で、美斗が訴えていた。
「俺が悪かった。屋敷に戻る。もう逃げたりしない」

「だから」

「肇をもう傷つけないでくれ!」

 沈黙がその場を支配する。
 しばらくすると、彼は一回だけ薄くため息吐いた。国近から足を退ける。
 冷淡な眼差しで国近を一瞥し、スーツの裾を翻すと、片隅にいる美斗の元へと向かった。

「帰るよ」
 乱暴に美斗の手を引き、無理やり立ち上がらせた。
「あ……」

 恐怖にひるんだ美斗の身体は、抵抗も出来ずに引きずられていく。
 揺らいだ瞳がこちらを見た。何かを言いかけて、それがきっと国近を追い詰めることに気が付いて、唇を噛み締める。

 淡くなった呼吸を整えて、国近は上体を、ゆっくりと壁から離す。大丈夫だ。まだ動くと思った。

「はる、と」
 踏みつけられたみぞおちを押さえ、彼の名前を呼ぶ。


「『座れ』」


「ぇ……?」
 言葉の意味を彼が理解するより先。従順に美斗の身体が止まった。
 その場でペタンと膝が落ちる。
「なんで……、はじめ!」
 だめだ。やめてくれ。そう言いたげに首を振る浅黄色に、極めつけのコマンドを下す。

 
「俺がいいって言うまで、絶対にそこを動いちゃだめだ」


 須藤正臣は、数回、乱暴に美斗の腕を引っ張った。相手の苦痛を一切考慮しないその動きに、美斗は唇を噛み締めて耐えていた。けれど忠実に国近のコマンドを叶えた肉体は、びくとも動かなかった。
 次第に正臣の、陶器のような肌に青筋が浮かんだ。
 自分以外のDomにパートナーが従っているという状況はDomにとって結構苛立つものだ。きっと美斗の身体を乱暴に持ち上げることはしないだろう。
 だからきっと……。

「……っ! このっ!」
 須藤正臣の身体が、再びこちらに向き直った。粗暴に美斗の腕を捨て、大股で国近の方へ近づく。

 その時だった。
 ふ、と国近は口角を上げた。


 負傷した身体は、応援が来るまでは持たない可能性があった。
 長時間、美斗を守りながらはきっと戦えない。
 現状を打破するためには、彼を完全制圧する以外に道はない。
 だから、無駄な攻撃はやめ、体力を温存することにした。
 チャンスはきっと一回きりだ。でも一発で制圧できれば勝算はある。勝利が目前になれば、大抵の人間は油断する。きっと隙が出来ると思った。
 急所を狙う拳をいなしながら、国近はその時が来るのをずっと待っていた。
 その隙を、たった今、美斗が作ってくれた。

 腕の力を使い、下半身を一気に浮かせる。身体を捻じって、彼の左耳を目掛けて思い切り蹴りを打つ。
 骨を打つ鈍い音が、その場に響き渡った。

「つ、あ……!」
 二、三歩、彼の身体が揺らいだ。
 ソファーに片腕を乗せて、どさりと倒れ込む。

 少しの間指先を痙攣させた後、その身体は全く動かなくなった。



「はぁ、はぁ……」
 荒くなった呼吸を整えながら、いつの間にか顔を濡らしていた血を手の甲で拭う。
 素早く正臣氏の身体に近づいて意識を確認した。瞼は閉じ、長い睫毛がただ揺れていた。ほっと、国近は息を吐く。完全に気を失っている。どうやら成功したようだ。
 国近は跪いて、彼の頸動脈に指を乗せた。良かった。強く蹴りすぎてしまったと思ったけれど、脈はある。
 懐から手錠を取り出す。彼のスーツの裾をまくり、それを掛けようとした時だった。

 はっと国近は息を飲んだ。

――それは、おおよそ成人男性のものとは思えないほど、やせ細った腕だった。

 先ほどまで国近に向かって、重たい拳を浴びせていたと思えない。
 思わず彼の顔を見ると、その顔は、まるで死人のように青白く染まっていた。
 興奮していた時には気が付かなかった。以前対峙した時は、もっと生気があったはずだ。


 国近の脳内に、ある記憶が浮かんだ。
 およそ一年前、同じような状態の男を見たことがある。
 それはまるで……。
 まるで……。
 出会った日の美斗のようで……。


 そこで、国近の思考が途切れる。
「はじ、はじめ……あ、ぅあ……」
 部屋の隅で、美斗がしゃくり上げて泣いていた。
 手早く正臣の片手に手錠を掛けて、テーブルの脚にもう片方を繋ぐ。

 立ち上がろうと腰を上げた。けれど……。
「ぐ……ぁ」
 腹部に鋭い痛みが走った。視界が大きく眩んで、ポタポタと続けざまに、数滴、大きな血の塊がフローリングに落ちる。再びその場に膝をついた。
「は、ぁっ……」
 見れば部屋の中には、結構な数の血だまりが出来ていた。正臣氏はほとんど血を流していないから、これは全て自分の血なのだろう。

 それでもどうにか力を振り絞って、国近は美斗の隣へと向かった。
 壁に背中を預けて、はっと深く息を吐いた。
「ごめ、ごめん、なさ……」
 溢れる涙をそのままに、ぐちゃぐちゃの顔で、美斗は国近を見ていた。

 顔、傷だらけになっちゃたな。せっかく綺麗に治ったのに。
 霞む視界に、美斗の顔が映って、国近はぼんやりと、そんなことを思った。

 真っ赤に染まったワイシャツと、みるみるうちにフローリングに溜まっていく血だまりを見つめて、美斗はさらに顔を強張らせた。
「俺の、俺のせいだ」
 そんなことないのに。
 負傷したのは自分の落ち度だ。危険が分かっていたのに一人にするしかなかった。
 自分にもっと力があれば、きっともっと上手く出来たはずなのに。
 こんなふうに、泣かせずに済んだはずなのに。
 そう言って宥めてやりたいのに、声は出てこない。
 国近の指先は小刻みに震えていた。体温が下がっているのが自分でも分かる。このままだと危険な状態だろう。
 最後の力を振り絞って、国近はそっと美斗に手を伸ばした。彼の後頭部に手を回し、優しく顔を、胸元に押し付ける。
「もう見るな」

「見なくていい」

 遠くでパトカーのサイレンが聞こえる。

 須藤正臣が目を覚ます前に、柏木たちが来てくれればいいと思った。
 もう二度と、この子が傷つけられることがないように――。


「美斗」



「あいしてる」
 そこで、国近肇の意識は途絶えた。

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