刑務所に住む女の子

さき

文字の大きさ
1 / 1

刑務所に住む女の子

しおりを挟む
令和XX年 法律第45号
改正刑事施設及び受刑者の処遇に関する法律


~略~


第66条(子の養育)

1項
 刑事施設の長は女子の受刑者が、その子を刑事施設内で養育したい旨の申し出をした場合、その子が一歳に達するまで、これを許すことができる。一歳に達した子については受刑者の親族等がこれを養育する。

2項
 受刑者に前項の子を養育する親族等が存在しない場合、一歳に達した子は原則として児童養護施設等に預けるものとする。ただし、親族等が存在しない受刑者が特に希望する場合には引き続き、その子を刑事施設の長の許可のもと、刑事施設内で養育することができる。

3項
 前項の規定により養育された子が小学校に入学する際、児童福祉司等の立ち会いのもと、子本人の意向の確認を行った上で、引き続き子を刑事施設内において受刑者が養育することが適当か、刑事施設の長が判断を行う。適当と認められた場合には、子が小学校を卒業するまで養育を行うことができる。

4項
 前三項の規定により、刑事施設内で養育される子には、その子の養育に必要な物品を貸与、又は支給する。養育される子の処遇は施設内の秩序維持の為、受刑者と同一とすることを原則とするが、刑事施設の長は、その子が健全に養育され、発育するために最大限の教育的配慮をしなければならない。


~以下略~


 





ピッィィィーーーーーーーーーー

 ホイッスルが大きく吹かれた。

「作業、止めっ!」

 工場の前方、周囲より一段高く作られた場所に立っている刑務官の指示が室内に響き渡る。急いでミシンを止めて、機器から手を離して両手を脇につけて気をつけの姿勢を取った。

 工場の中は一斉にミシンの音が止まり、急に静かになった。外のセミの鳴き声と工場内で動き回る刑務官の音、刑務官同士の確認の話し声だけが聞こえる。
 
 刑務官達が忙しそうに歩き回って受刑者の作業の進捗状況を確認していく。それが全部終わるとやっと片付けの指示が出された。受刑者が一斉に動き出す。

 片付けに取り掛かると、気をつけをしていた間に噴き出した額の汗が顔から滴った。夏でもクーラーさえ無い工場内はとても蒸し暑い。扇風機は何台か設置されているけれどすべて刑務官の方に向けられているのが常だった。
 
 ハサミなど使った道具をてきぱきと片付けていく。すべての備品に片付ける場所、置き方などの厳密なルールが決められている。場所が合っていても、決められた向きと反対向きに置いてしまっただけで刑務官の先生達から厳しい指導が行われる。ここはとても厳しい生活を強いられる場所だ。

 ここは女子刑務所。私は罪を償っている受刑者だ。毎日、縫製工場で刑務作業として衣料品を作っている。すべての片付けが終わると受刑者全員が2列に整列して刑務官の先導で工場を出た。

 工場の外に出ると、雲ひとつ無い青空が広がっていた。暑いわけだと思った。もうすぐ7月の半ば。梅雨も明けているのかもしれない。強い日差しが降り注いでいた。

 いつものルートで獄舎へ移動した。建物間の移動の時は行進みたいにしっかりと前を向いて胸を張り、手を振って移動しないといけない。入ったばかりの頃はそんな歩き方が恥ずかしくて、少しサボったところをよく刑務官に注意された。最近はもう当たり前のように無意識にできる。私がここに収監されてからもう8年。それだけ刑務所の生活に慣れたのだと思った。

 しばらく歩くと獄舎の玄関に着いた。この後、刑務所での受刑生活で一番惨めな瞬間が待っている。身体検査だ。工場衣から獄舎衣に着替える時に全裸になって工場から獄舎に何も持ち込んでいないことをチェックされる。

 建物の中に入ると、まず刑務作業時に着用する帽子を取って自分のロッカーに片付けた。次に工場衣として貸与されている灰色の作業着みたいな囚人服を脱いでハンガーにかけてロッカーに入れる。そして下着や靴下は洗濯かごに入れた。下着は受刑者全員の共有物品だ。回収されて洗濯工場の受刑者が洗濯をする。

 もちろん、囚人服を脱いでいる間もずっと刑務官に監視されている。全裸になって準備ができたのでゲートに移動して列に並んだ。しばらくして順番が来たのでゲートの横に座っている担当の刑務官の前に立ち、刑務官の方に体の正面を向けた。

「261番。検査願います」

 刑務官に自分の呼称番号を伝える。
 
「261番。始めなさい」
 
「はいっ」

 しっかりと返事をして、まず両手の指を2本ずつ口の中に入れ口を大きく押し広げた。舌も前に出して刑務官に口の中を見てもらう。次は両手を上げて左右の足の裏を刑務官に交互に見せる。それを3回繰り返した。最後に後ろを向いて腰を曲げた。自分で両手を使ってお尻を広げてお尻の穴も確認してもらった。

「261番。よしっ。進みなさい」

「ありがとうございます!」

 刑務官の許可をもらってゲートを通過した。靴箱から自分のスリッパを回収して棚から自分のサイズの下着を選ぶ。残っていたものは上の肌着も下のパンツも着古されて生地がブヨブヨに伸びたものばかりだった。仕方なく、なるべく状態の良いものを選んだ。そしてハンガーラックから自分の獄舎衣もとった。

 この時期の獄舎衣は淡いピンクのワンピースだ。下着を着てからそれを頭から被った。見た目はダサくて惨めな服だけど、それは仕方ないことだと分かっている。私はこんな惨めな生活を強いられることが当然の罪を犯したのだ。昔の私は本当に馬鹿だった。そして、そんな当たり前のことに気づくのに私は収監されてから1年以上を要した。

 全員の着替えが終わったので整列して房の方へ移動した。通路にたくさんの房が並んでいる。私以外の受刑者達は基本的には雑居房だ。数人ずつ生活している。でも私だけは事情があって単独房で生活をしている。移動の列が私の房の前にまで進んだ。

「261番。入りなさい」

 私の房の扉を刑務官が開く。扉は電子式のオートロックで刑務官が外側から生体認証をする方法でしか開かないようになっている。

 スリッパを靴箱に置いて室内に入った。4畳半の畳の部屋。洗面台と下半身が隠れるだけの目隠しがついた便器。採光用の外が見えない曇りガラスの小さな窓。もちろん窓には鉄格子が付いている。ここが私が8年間過ごしてきた部屋だ。後ろでオートロックが作動して扉に鍵がかかる音がした。

「お母さん、おかえりなさい」

 室内には私の娘がいた。娘は私の姿を見て屈託のない嬉しそうな顔で笑った。その笑顔を見るだけで心が安らいだ。惨めな気持ちだった感情が温かい気持ちに包まれて幸せな気持ちを感じた。彼女は私の唯一の肉親で、かけがえのない宝物だ。私が生まれてから初めて持つ事ができた家族でもある。

「ただいま、紗季。宿題?」

「うん」

 紗季はいつもと同じくクーラーの無い暑い部屋の端に座卓を広げて足を伸ばして学校の宿題をしていた。内容はいつもの計算ドリルと漢字ドリルだろう。娘の横に座って宿題を見る。筆算の足し算の問題をノートに写して解いているようだった。
 
 彼女は受刑者と同じ獄舎衣を着ている。もちろん、サイズは子供サイズだけど大人が着るとダサいだけのピンクのワンピースが子供が着ると可愛く見えるのだから不思議だ。

 紗季の獄舎衣に私たちの物と違いがあるとしたら胸に縫い付けられている呼称番号が無いことだろう。娘は受刑者じゃないから呼称番号は割り当てられていない。番号で呼ばれて管理されるのは罪を犯してそれを償っている私たちみたいな受刑者だけで十分だ。

 それでも彼女が囚人服を着ているのはここの規則による。私が受刑者だからこの単独房に持ち込める物品は厳しく制限されている。彼女はここで私服を着ることはできないのだ。実際、私は紗季の私服姿を見たことがない。彼女が小学校へ着ていく私服はランドセルや体操着などのその他の私物とともに別の場所で保管されているらしい。

 少し暗い気持ちになった。後ろめたさを感じてしまう。私が受刑者であるせいで娘に負担をかけてしまっている。そして、本当は毎日、先にここに戻って学校から帰ってくる彼女を暖かく迎えてあげたい。でも、それができるのは2週間に一度だけなのだ。

 一応、彼女の門限は夏場は5時。冬場は4時半というということになっている。刑務官と話してそう決めた。娘のことだから母親の私にも刑務官から相談があった。小学校の低学年の門限だから私もその時間が適切だと思って刑務官が伝えてきた時間を了承した。でもその時間を彼女がフルで使える日は実はほとんどなかったのだ。

 よく考えたら当たり前の話なのだけど、普通の小学生は学校が終わると一度自宅に帰宅してランドセルを置いてから公園や友達の家に遊びに行く。帰宅せずに遊んでしまったら学校のルールで寄り道になってしまう。でも紗季は刑務所に帰ってきたら再外出はできないのだ。色々な保安上の理由などでそう決まっている。

 結局、彼女は2週間に一度、水曜日に学校の校庭が放課後に開放される日だけ門限の時間を全部使って遊んでいる。その日だけは私のほうが少しだけ先にここに戻ることができるのだ。

「点検よーい!」

 通路から大きな刑務官の声が聞こえた。夕方の点呼だ。急いで扉の前に正座をして姿勢を整えた。宿題をやっていた紗季も神妙な顔で私の左隣に正座をした。通路から刑務官が順番に雑居房の点呼をとっている声が聞こえてくる。

 本当は紗季が点呼に参加する必要はない。受刑者の私が在室しているかを確認するのが刑務官にとって重要なのだ。なので紗季は極端な話、私が点呼を受けている間に後ろでゴロゴロ寝転がっていても何の問題もない。
 
 それが5歳の頃から紗季は私が点呼を受ける時に隣に正座をして座るようになった。最初は母親の真似をしているだけだと思った。だから、やんわりとあなたはやらなくていいんだよと伝えた。刑務官の人達もしなくていいんだよと紗季に伝えてくれていた。
 
 でも、紗季はこの行動を止めようとしなかった。そして、ある時期から刑務官は一切この話を紗季にしなくなった。理由は分からない。私は今も時々しなくていいんだよと伝えているけど紗季は相変わらず私の隣に座り続けている。正面の扉が開いた。

「261番。1名です。異常ありません」

 大きな声で点呼を受けた。

「261番。1名。異常なし。点呼終了」

 点呼にやって来たのは私がここに収監されて4年目くらいにやって来た若い刑務官だ。彼女は手に茶色の紙袋を持っていた。中身を取り出し紗季の方に差し出す。

「はい、紗季ちゃん。この間、頼んでいたスケッチブックと折り紙だよ。渡しとくね」

「わぁ!ありがとうございます」

 紗季はスケッチブックと折り紙を受け取ると嬉しそうに自分の棚の方にそれを持っていった。私も母親として刑務官にお礼を言って頭を下げた。

「いつも、ありがとうございます」

 刑務官は少しだけ頷いて何も言わずに房から出ていった。オートロックがかかる音がする。紗季の方を見ると、紗季はさっき貰ったものを棚に片付けてルンルン気分で宿題の続きをしていた。鼻歌を歌っていて上機嫌なのがわかる。

 さっき、刑務官が紗季に与えた物は刑務所の予算で購入してもらったものだ。紗季には最低限の子供らしい生活ができるように、例えば衣服で年間何円、文房具で何円、玩具で何円というような購入権が与えられている。購入できる物品の種類などに制限はあるけれど、母親からすると本当に有り難い。

 私にも刑務作業の作業報奨金があるけれど、時給にして数十円。月に数千円程度のものだ。収監されたばかりの頃は等級が低くて1ヶ月に千円にもならなかった。当時の私は、こんな金額で働かせて馬鹿にしているのかと思って惨めな気持ちで反発していたけれど、今は罪を犯したことに対する罰として刑務作業をしているのに報奨金まで頂くことができて本当にありがたいと思っている。

 報奨金で購入できるものは、本来は刑務所で生活するのに必要な最低限の私物のみだ。例えば肌荒れ用のハンドクリームや書籍などだ。だけど、紗季に関するものであれば特別にそれ以外の物の購入が認められることがある。

 例えば紗季の8歳の誕生日に、私の報奨金から紗季の夕食にだけショートケーキを追加してもらった。私が自分で食べることはできないけれど、紗季に関することなら認められるのだ。

 報奨金は自分のためには全く使わずすべて貯めている。紗季のためだけに使うと決めている。だけど、それだけで学用品などをすべて揃えることは到底できない。刑務所側が用意してくれるのは本当にありがたかった。最低限の物品を用意してくれるから私は報奨金でプラスの部分を買うことができる。

 突然、紗季の鼻歌が止まった。紗季の方を見ると難しい顔をして漢字ドリルを眺めていた。すぐに失敗したという顔になった。

「どうかした?」

 紗季が悩んでいるドリルのページを見た。すぐに紗季が困っている理由を理解することができた。漢字ドリルの問題の指示は国語の教科書から該当する漢字を見つけて書き出せというものだった。

 今日、紗季が房に持ち込んだのは算数と漢字のそれぞれドリルとノート。後は文房具と学校の図書館で借りた本だけだった。教科書は持ち込んでいない。

「明日は休みなんだから明日にしたら?」

 今日は金曜日だ。明日と明後日は休日。宿題をする時間はたくさんある。そうアドバイスをしたら嫌だと言われた。

「あのね。お母さん。こういうのは早めに終わらせるんだよ」

 思わず苦笑してしまった。まったく。誰に似たのだろう。こういうことは本当にしっかりしている子だ。面倒くさいことは後回しにする私とは大違いだと思った。

「先生!すいません」

 紗季は通路を定期的に巡回して受刑者を監視している刑務官に監視窓を使って話しかけた。ドリルの問題を刑務官に見せて説明をしている。刑務官も話を理解したのか扉を開けた。そして紗季は刑務官と一緒に房を出ていった。多分、しばらくは戻ってこないだろう。

 紗季の私物をどこで保管しているのか私は知らない。同じ建物内らしいから、そこまで距離は離れていないはずだ。でもこういう場合はかなりの時間がかかる。刑務官は紗季が房に持ち込むものをすべて検査しないといけないのだ。

 特に教科書やノート、書籍はかなりの時間がかかる。すべてのページを1ページずつめくって確認しなければならない。確かに理論上は、外の人間が紗季の教科書などに私へのメッセージを書いたり、手紙を挟んだりすれば、私と自由に文通ができてしまう。

 実際は、刑務所の外に私と手紙のやり取りをしたいと思う人間はいないはずだから、その心配は必要ないし刑務官もその事は知っている。でも刑務官も規則として決まっている以上、仕事としてそれをしないわけにはいかない。とても大変だと思う。
 
 私は、外の世界に家族もいなければ親族さえ存在しない。私は児童養護施設で育った。両親はいなかった。なぜそうなのかは施設の職員は教えてくれなかった。今でも分からない。物心がついた時にはもう1人で施設にいた。

 施設は高校卒業まで私を育ててくれた。今から思えば、施設の職員の人達は限られた環境の中で愛情をもって私を育ててくれたと思う。でも当時の私はそれが理解できなかった。どうして私には他の子みたいに両親がいないんだろうってずっと思っていた。

 そして高校卒業後、18歳で就職して施設を出た。だけど、すぐに仕事は辞めてしまった。正直社会を舐めていた。なんとでもなるだろうと思っていた。すぐにお金に困った私は、夜の仕事で自分の身体を売るようになった。

 当時の稼ぎはそれなりに良かった。でも今から思うとまったくもって不思議なことに、それを貯めようという考えは当時の私にはなかった。欲しい物を買ってもらえない施設時代の反動が出たのかもしれない。稼いだお金はブランド物の購入に消えていった。

 当時の私は本当に馬鹿だった。そういった仕事をしているのにまともな避妊さえしていなかったのだ。そして妊娠した。気がついた時はもう中絶できる時期は過ぎていた。身体がおかしいと思って病院に行ったときにはもう手遅れだったのだ。

 妊娠して夜の仕事ができなくなった私はパニックになった。今月の家賃を払わないと借りている家からも追い出されてしまう。追い詰められた私が手っ取り早く現金を得るためにやってしまったのは、高齢者を狙った金融詐欺事件の受け子だった。いわゆるオレオレ詐欺というやつだ。

 私が高齢者の家を訪問して騙し取った金額は200万円程度だったらしい。後日、私を取り調べた刑事さんが教えてくれた。そして、その事件で逮捕されたのは私だけだった。高齢者の家を訪問する私の姿はマンションの監視カメラにしっかりと映っていたのだ。

 今なら末端の私はいいように使われて、簡単に使い捨てられたのだと理解できる。でも実際に、詐欺事件に加担して報酬をもらったのは事実だった。

 まずかったのは私を逮捕しに自宅にやってきた警察官の人。何人かいたのだけど、警察官がやって来て逮捕されるわけがないと思っていた私は気が動転して逃げようとしてしまい、女性警察官の1人を押し倒して怪我をさせてしまったのだ。

 当然、逃げられるはずもなく、私は何人かの男性警察官に取り押さえられて手錠をかけられて逮捕された。女性警察官の怪我はそこまで重くなかったけれど、私は傷害罪にも問われることになってしまった。

 更にまずかったのは、その後、私の家が家宅捜索された時に数日前に私が万引きしたバッグが出てきたことだ。お金がなくなってもブランド物が欲しかった私は万引きもしてしまっていた。

 詐欺、傷害、窃盗、公務執行妨害。完全に役満だった。

 それでも、当時の私は初犯だし18歳は越えていたけれど、未成年なのでいきなり刑務所に行くことはないのではないかと甘い考えをしていた。どこかで世の中を甘く見ていた。他人を逆恨みして周りの環境が全部悪いのだとも思っていた。裁判でもあまり反省した態度は示さなかった。結果、すべて合わせて懲役14年の実刑判決だった。そして女子刑務所に収監された。当たり前だ。

 収監されて、すぐに出産した。出産は刑務所の外の病院で行ったのだけど、手錠をかけられたままの出産だった。とても惨めだったことを覚えている。現在は、その方法は廃止されたらしくて私が出産した頃がその最後の時期だったようだ。

 生まれた赤ちゃんは女の子だった。紗季と名付けた。父親は誰か分からなかったけれど、可愛かった。私にとって初めての家族だった。嬉しかったけれど、犯罪者の烙印が押された私に赤ちゃんを育てられるのかとても不安だった。そして、生まれながらに犯罪者の子になってしまった紗季のことを考えると、とても複雑な気持ちだった。

 当時の法律では女性受刑者の子は新生児の間は受刑者が刑務所の中で育てることができることになっていた。現実的には、ほとんどの受刑者は刑務所の外の家族や親族に子供を任せていたけれど、私にはその親族がいなかった。だから服役しながら子育て経験のある刑務官の手助けをもらって子育てを始めた。

 それでも、紗季が1歳になったら引き離されて紗季は児童養護施設に預けるのだろうと思っていた。当時の法律はそうなっていたからだ。でも、ちょうどその直前に法律の改正が行われた。そうやって親と引き離される子供が可哀想だという意見や子供の人権が、とか色々な話があったらしい。

 結局、私は1歳を過ぎてからも紗季をここで育てることを許された。全国的に見ても新しい法律の適用第1号だったらしい。そして、子供が育つのはあっという間だ。私が服役している間に、あっという間に紗季はハイハイを始め、すぐに歩くようになった。さらに言葉も話すようになった。

 紗季が成長するとともに、当然、刑務所での子育ては色々な制約があることが分かってきた。ここは犯罪者が罪を償うところで子育てをする場所ではない。子供が適切に成長するのに理想的な環境ではないのだ。

 紗季が小学校に上がる時、私はすごく迷った。ここが紗季の成長にふさわしい環境でないことはよく分かっていた。でも私自身も経験した児童養護施設で寂しい思いをさせるのも不憫だった。どうすればいいのかよく分からなかった私は、とりあえず延長願いを刑務官に出してしまった。

 おそらく、刑務官もこれ以上のここでの子育ては認めないだろうという予想もあった。その時は、紗季も6歳ということで初めて紗季本人の意見の聴取も行われた。私は同席していないのでその時、どういうふうに紗季が答えたのかは知らない。でも結局、小学校入学後も延長が許された。その後も1年毎に延長願いは受理されている。

 今も毎日悩んでいる。何があの子にとって最もいい選択肢なのか分からない。私のせいで不自由な生活をさせるのは可哀想だけど児童養護施設に預けるのも躊躇する。

 通路で誰かの話し声が聞こえた。紗季と刑務官が話しているようだった。しばらくすると扉が解錠されて開いた。教科書を持った紗季が刑務官にお礼を言って入ってくる。
 
 紗季は宿題の続きをしようとしたけれど夕食の時間になってしまった。続きは後だ。紗季が宿題をしていた座卓を部屋の中央に移動させて布巾で拭いて夕食の準備をする。しばらくすると台車がやってきて食事の差し入れ口から2人分のトレイが差し入れられた。

 今日のメニューは焼き魚、ピーマンのおひたし、麦ご飯に味噌汁だった。典型的な刑務所の食事だけど美味しそうだ。ただし、あまり子供が好きそうなメニューではない。準備が整ったので紗季と手を合わせていただきますをして食べ始めた。

 紗季はピーマンが嫌いだ。そして彼女は嫌いな物は最初に処理してしまうタイプだ。細切りにされたピーマンを1切れずつ口に入れて悶絶していた。しっかりしていて大人びている子だけれど、こういう子供らしい面も持っているんだと少し安心してしまう。

「そんなに嫌なら残してもいいんだよ?」

 私は彼女にアドバイスをした。雑居房では食事中の私語は厳禁だけど私と紗季だけは教育上の配慮ということで大きな声でなければ話してもいいことになっている。

「だって、先生達が食べたほうがいいよって言うんだもん」

 先生というのは刑務官のことだ。私たち、女子受刑者も刑務官のことを先生と呼ぶことがあるけれど、紗季にとってはここの刑務官も学校の先生も同じような存在なのだろう。そして、私たち受刑者は食事を残すには刑務官に理由を言って許可をもらわないといけない。嫌いという理由では許されないことも多い。

 でも、紗季にはその規則は適用されない。基本的には本人の自由だ。あれは刑務官の人たちが純粋に彼女のことを心配して言ってくれているのだ。刑務所の食事はカロリー的にも栄養素的にも最低限のものだ。実際、私はいつも空腹だ。残した場合、必要カロリーに達しない場合がある。そこを心配して声掛けをしてくれることがあるのだ。

「頑張って半分食べたんだから、そんな事は言わないと思うよ。大丈夫だよ」

 私がそう言うと紗季はピーマンとのにらめっこを止めて焼き魚に箸をつけた。こちらは比較的、紗季が好きなメニューだ。学校の給食と刑務所の食事しか食べさせてやれないことに申し訳無さを感じてしまう。紗季はこれしか知らないから満足しているのかもしれないけれど、外の食事に比べれば味付けは薄いし雑だ。慣れの問題だけど、本来はあまり美味しく感じる物ではないのだ。

 焼き魚を食べて機嫌が良くなった紗季は、学校の話を始めた。

「あのね、ひまりちゃんがね、はるとくんのことが好きなんだって。休み時間にそう言ってたんだよ」

 最近の小学生はおませさんだ。2人とも紗季からよく聞く名前だ。他にもかえでちゃんやめいちゃん、ふうかちゃんとかの名前をよく聞く。何々をして遊んだとかよく話してくれる。紗季が小学校に入学した時、私が一番心配したことは学校で友達ができるかということだった。

 犯罪者の子供として虐められるのではないかと心配だった。実際、周りの保護者は入学式に保護者が参加しない紗季がどういう家の子供なのか疑問に思ったはずだ。紗季の入学式の学校への送迎は、行きは刑務官の人が付き添い、帰りは学校の先生が刑務所まで付いてきてくれたらしい。

 同級生の保護者達は、その後も保護者会にも授業参観にも運動会にも親がやってこないことに気がついただろう。そして、紗季が刑務所に帰っていることにもすぐに気がついたはずだ。

 さらに紗季は小学校入学まで外の世界を知らず、同年代の子と関わったこともなかった。普通の子でも小学校入学は大きな環境の変化だろう。それに紗季が耐えられるかは相当不安だった。

 でも、すぐに紗季の口から友達の名前が出るようになった。そして学校は楽しいとも話している。だから、一定程度上手くやっていけているのだろうと思っている。

 もちろん、世の中はそんなに甘くない事は分かっている。犯罪者の子だから一緒に遊ばないようにと子供に言っている保護者も確実にいるだろう。あるいは、紗季も面と向かって同級生にそういったことを言われたことがあるのかもしれない。でも、紗季はそういうことは一切話さない。
  
 そもそも、紗季が刑務所というところがどういうところなのかどこまで理解しているのかはよく分からない。私から直接話したことはない。紗季が5歳の頃に一度だけ、規則違反をしてしまって刑務官から注意されたのを見た紗季がどうしてあんなに厳しいことを言うのと聞いてきた時に少し話しただけだ。

 その時は、お母さんは悪いことをして捕まってここにいるんだよということだけ伝えた。それ以来そういった質問は一切ない。

 食べ終わったので2人でごちそうさまをした。結局紗季はピーマンのおひたしを半分残した。残したものは私が食べることはできない。食事のやり取りは厳しく禁止されている。紗季が好きな物だからと私が紗季に譲ってあげることもできない。

 食事の後はいつも通り房内の掃除の時間になった。備え付けの雑巾や箒を使って掃除をする。これも、本来は私にだけ課せられているものなのだけど紗季は手伝ってくれる。これに関しては掃除のやり方を覚える事もできるので私もいつもお礼を言ってやってもらっている。清掃が終わって刑務官の確認が終わると布団を敷くことが許された。

 ここから1時間ほどは房内のテレビに電気が通ってテレビを視聴することが許される。チャンネルの操作権は基本的に紗季にある。小学校入学で一気に世界が広がったとはいえ、まだまだ外の世界に疎い彼女にとっては貴重な情報源なのだ。テレビを見ていて分からないことがあると大量の質問が飛んでくるので私も気が抜けない。

 彼女は10分程で先程やり残した宿題を一気に終わらせるとバラエティ番組を見始めた。私にとっても刑務所の外のことを知ることが出来る貴重な情報源だ。でも本当は紗季だって例えばCMで流れているスマホのゲームなどがしたいのだろう。時々、羨ましそうに眺めていることがある。

 しばらく一緒にテレビを見ていると刑務官がやってきた。

「紗季ちゃん、お風呂の時間だよ」

 紗季が入口の方を見て頷く。急いで棚から入浴道具を取り出して扉の方へ歩いていった。

「よろしくお願いします」

 紗季のことを刑務官に任せる。受刑者の入浴は夏場でも週三回しか許されていない。工場ごとのローテーションで入浴日が決まっている。でも小学校入学後、紗季は毎日の入浴が許可されるようになった。子供で毎日入浴しなければ学校で臭いと言われてしまうだろう。そこに配慮してくれているのだ。

 私が入浴しない日は紗季は他の工場の受刑者と入浴する。基本的には全く心配していない。自分のことは自分でできる子だし、何か困ったことがあったら受刑者を監視している刑務官に相談することもできる。

 それに彼女はある意味で刑務所内ではアイドルなのだ。高齢の気難しい受刑者にも人気があるし、若い受刑者の中にもさり気なく彼女をフォローしてくれる人もいる。受刑者の入浴は15分だけで私語も禁止だけど、その厳しいルールの中で、さり気なく洗い場をあけて彼女に譲ってくれたりする人もいるのだ。多分、自分の孫や子供のように思えるのだろう。

 紗季がいなくなったので、テレビのチャンネルを順番に変えていった。でも面白い番組は見つからず結局、元のバラエティ番組の視聴を続けることにした。そこにまた刑務官がやってきて呼ばれた。

「261番。こちらに来なさい」

 急いでテレビを消して部屋の入り口に向かう。

「紗季ちゃんが下校した時に預かった、お便りと連絡帳です。確認が終わりました。見ますか?」

 どうやらいつもの連絡帳のやり取りだったようだ。

「はい。ありがとうございます」

 お便りと連絡帳を受け取ると刑務官がお便りの右端を指で指し示した。外の世界では最近は学校のお便りも電子化されているそうなのだけど、私は見れないので担任の先生が紙で印刷して用意してくれているのだ。

「ここに来週の月曜日に図工で使うので紙コップと割り箸を用意するようにと書いてあります。こちらで用意して紗季ちゃんに渡しますがそれでいいですね」

「はい。いつもありがとうございます」

 当然、私に拒否権はない。私が断ったら紗季は授業に参加できなくなってしまう。刑務官が出て行ってから連絡帳を読んだ。最近の紗季の学校の様子が書いてある。私が受刑者で授業参観などに参加できないので担任の先生は特に配慮して学校での様子をたくさん書いてくれる。

 連絡帳には紗季がプールで10m泳げたことや夏休み明けの9月にある運動会のダンスの練習を頑張っていることなどが書かれていた。水泳の授業で10m泳げたことは紗季も嬉しそうに話していた。でも、運動会のダンスのことは話していなかった。

 紗季は保護者が見学に行くことができる行事のことは私には話さない傾向がある。遠足のことは嬉しそうに話すのに運動会や学芸会などは練習のことも含めてあまり話したがらないといった感じだ。私が見に行けないことを知っているからなのだろう。私にはどうしようもないけれど可哀想だった。

 紗季にとって今年が2回目の運動会だ。1年生の時の運動会で他の子は親が見に来て応援をしてくれるということを知ったのだろう。この惨めさは私も両親がいなかったから知っている。

 そして、私は運動会どころか紗季の小学校生活は一切見ることができない。卒業式も。もっと言えばその先の中学校の入学式にも行くことはできない。それはもう決まっていることだ。

 実は私も先日、刑期14年のうち8年が経過したことで仮釈放の申請資格を得た。他の受刑者達によると仮釈放の審査はとても厳しく、資格を得ても何度も落ちる人が多いらしい。でも私はそもそも仮釈放の申請を出すことができないのだ。

 仮釈放の申請には身元引受人が必要になる。仮釈放後の生活を安定させ、社会の中での更生を指導、監督する立場の人が必要なのだ。大抵の場合、家族などが身元引受人になる。でも私には頼れる家族も親族も居ない。身元引受人になってくれるような知り合いは一切いない。

 だから刑期満了まで服役するしか選択肢はないのだ。釈放されるのは、私が33歳の時。私は19歳で収監されたから20代はすべて刑務所で過ごすことになる。すべて私の自業自得なんだけれど惨めだった。

 釈放される頃には紗季は14歳になっている。中学校の卒業式が私が参加できる初めての紗季の学校行事になるだろう。でも、中学生になった紗季がこんな母親失格の人間に卒業式に来て欲しいと思ってくれるかは分からない。その頃には、もしかしたら来ないで欲しいと思うようになっているかもしれない。

 私が犯罪を犯して収監されたのは完全に私の自業自得だけど、失われた時間はもう戻ってこない。紗季の学校生活を見てあげることができないことに対して、どうしようもない虚無感に襲われた。一度この気持ちになると、もうどうすることもできない。

 しばらくして紗季が入浴から帰ってきた。

「ふぅー、暑い」

 頬が紅潮している。そのまま9時の就寝時間になった。室内が消灯される。すぐに隣りからスースーという紗季の寝息が聞こえてきた。

 私はいつもなかなか寝付けない。9時という就寝時間は小学生には丁度いいのだろう。でも大人には早すぎる。起床時間も6時半と早いけれどそれでも早すぎるのだ。紗季が寝てしまった後、いつもあれこれ考えてしまう。考えるのは紗季の将来のことだ。そしていつも考えがまとまらず、答えを得ないまま眠ってしまう。

 やはり、ここは紗季がいるべき場所じゃないと思う。児童養護施設はたしかに寂しいかもしれない。でも不器用で人間関係を築くことが苦手だった私と違って器用で要領のいいこの子なら児童養護施設でも上手くやっていけるかもしれない。

 それに、今はまだいいけれど、ここでの生活はこれから大変なことも増えるはずだ。例えば身体検査。さすがに刑務官も紗季を裸にしてカンカン踊りをさせるなどということはさせていないらしい。だけど、学校から帰ってきて私服から獄舎衣に着替える時に獄舎衣の上から形だけ触って検査はしているらしい。紗季がそれらしいことを話していた。

 後はトイレもある。房内のトイレの目隠しは下半身しか隠してくれない。大人では上半身は丸見えなのだ。身長の低い紗季は今は全身が隠れているから気にならないだろう。でも成長とともに隠せなくなる。身体検査もトイレも今は良くても思春期が近づいてくるとともに酷く惨めさと屈辱感を感じるだろう。そんな思いはさせたくなかった。

 どのみち、ここで一緒に暮らせるのは小学校卒業までだ。法律が変わらない限り、中学生になったら紗季は児童養護施設で預かってもらうしかない。早いか遅いかの違いでしかないのだ。珍しく考えがまとまった。

 でも、他にも心配事はたくさんある。私が釈放されたら紗季は私が引き取ることになると思う。その時、紗季は14歳。翌年には高校受験が待っている。たった1年で彼女を高校に行かせられるだけの収入を確保しないといけない。33歳になった私にそれができるかと考えると相当な疑問だった。

 世の中はそんなに甘くない。前科者でまともな職についたこともない33歳を雇ってくれるところがあるとは思えない。もしかしたら紗季には中卒で働いてもらわないといけないかもしれない。すべてが袋小路だった。

 多分、馬鹿で要領の良くなかった私は人生の大事なところで全部、選択肢を間違えてしまったのだろう。できることなら過去に戻ってやり直したい。でもそれは叶わない夢だ。そんな事を考えながら硬い布団の中で惨めな気持ちのまま眠りについた。









 次の日、朝の点呼を終えて配られた朝食はパン食だった。コッペパンに牛乳、サラダが付いていた。ジャムが付いているのではないかと少しだけ期待したけれど、甘いものは付いていなかった。パンは私には1つ。紗季は半分だった。味がしなかったので牛乳でパンを流し込んだ。

 食べ終わって食器を返却した。平日であればこの後、身支度をして紗季は学校へ、私は刑務作業へ行く。でも今日は土曜日だ。休日は刑務作業もない。房内でゆっくり過ごすことができる。

 紗季は午前中は、学校で借りてきた本を読んだり、昨日もらった折り紙をして過ごしていた。どこで習ったのか分からないけれどすごく難易度の高い作品を作っていた。作り方を含めて私にはちんぷんかんぷんだ。

 私も午前中は刑務所の図書館から借りてきた本を読んで過ごした。一応、休日の紗季はかなりの行動の自由が保証されている。刑務官の手が空いていれば運動場や図書館に行くこともできる。でもあまりどちらにも行きたがらない。

 刑務所の図書館は大人向けの本しかないし、運動場は1人で行っても面白くないと思っているのだ。紗季は縄跳びが大好きで色々な技に挑戦したりするのだけど、1人では大技を成功させても誰も褒めてくれないから張り合いがないのだろう。

 昼食が終わって午後になると、受刑者の運動の時間になった。運動場に出て体を動かすことができる時間だ。紗季も嬉しそうだった。

 運動場に出ると、昨日と同じく強い日差しが降り注ぐとても暑い日だった。さすがにこれでは体を動かしたいとは思わない。私は建物の日陰に座って休憩することにした。これだけでも1日中、狭い単独房の中にいるのでいい気分転換になる。

 でも、こんな天気でも運動をしたいと思う人は一定程度いるようで、その人達は集まってバレーのトス回しを始めた。紗季はその集団に声をかけられて参加している。有り難かった。その人達に紗季のことをお願いすることにした。

 もちろん、小学2年生の紗季に、トスなんて事はできない。だから自分の所にボールが来たらそれを一度キャッチする。そして、次の人がトスをしやすいようにそれを投げる。そういう形で参加している。紗季にとってはキャッチボールに近い遊びだ。

「子供は元気だねぇ」

 私の隣に受刑者が1人座った。収監された時期が近く年齢も近いのでよく話す人だ。彼女と他愛もないことを話して過ごした。いい気分転換だった。

 気が付くと私たちの近くに刑務官が2人立っていた。1人は比較的高齢の刑務官。とても厳しい人で収監されたばかりの頃はよくこの人に怒られた。もう1人は昨日、紗季に折り紙を渡してくれた若い刑務官だ。

「261番。少し話したいことがあります。ついてきなさい」

 突然のことで驚いた。運動の時間に呼び出される事は滅多に無い。急いで立ち上がった。刑務官について歩きだすと、紗季が走って私たちのところにやってきた。珍しいことだから何かあったんじゃないかと思って不安になったのだろう。

「ごめんね、紗季ちゃん。おばちゃんたちね、少しお母さんとお話したいことがあるの。紗季ちゃんはここで遊んでいて大丈夫だよ。それともお部屋に戻る?」

 高齢の刑務官が話すと紗季は首を振った。私も遊びに戻るように促すと紗季はバレーをしている人たちの中へ戻っていった。

 刑務官に連れて行かれた部屋は面談室だった。規則違反をしてしまった時に怒られたり反省文を書かされる部屋だ。不安になった。

「そこに掛けなさい」

「はい、失礼します」

 刑務官2人は私の正面に座った。若い刑務官が話し始めた。

「261番。話したいことというのは仮釈放のことです。先日、あなたが仮釈放の申請資格を得たことは伝えたはずです。そして、申請の提出期限が昨日であることも伝えました。どうして提出しなかったのですか?」

 正直困惑した。必ず出さないといけない類の書類だったのだろうか。提出しなかったことを責められるとは思っていなかった。

「何も言わずに提出しなかったことは申し訳ありませんでした。一度確認するべきでした。すいません」

 まず謝罪した。刑務官に注意されたら一切抗弁をせず、まず謝罪する。長年の刑務所生活で染み付いた癖のようなものだ。

「提出しなかったのは、ご存知のように私には身元引受人になってくれるような家族や親族が一切いないからです。あと、ようやく申請資格を得た私のような人間が申請しても仮釈放の許可はおりないだろうと考えたこともあります」

 私の返答に2人の刑務官は互いに顔を見合わせた。そしてしばらく間があいた。しばらくして高齢の刑務官が長い溜息を吐いた。

「大森さん」

 突然、刑務官に呼称番号でなく、名前を呼ばれてびっくりした。高齢の刑務官はいつもと違って、とても優しそうな表情と口調で話しだした。

「これは私の個人的な考えだけど、あなたが仮釈放に値しないとは思わないかな。もう何年も小さな規則違反さえまったくしていないでしょ。とても頑張ってると思いますよ」

 隣の若い刑務官も頷いている。刑務官が私のことをそんなふうに見ているとは全く思っていなかった。

「あなたが入ってきた時の事はよく覚えています。規則は一切守らない。指示も聞かない。これは罪を犯すのもしょうがないなと思いました。でも今のあなたは違う。過去に犯した罪が消えるわけでは無いけれど、悪いことをしてしまったとしっかり分かっているし、そのことを後悔もしている。立派に更生したんだと思いますよ」

 長い間、褒められるなんて経験はしてなかったから、褒められているんだと理解するのに少し時間がかかった。頑張っていたことを認められたのがとても嬉しかった。目頭が熱くなった。

「それは、当時はご迷惑をおかけしました」

 そう答えるのが精一杯だった。

「あとは、娘さんのこともあります。あの子はとても優しい子です。真っ直ぐに育っている。でも、あなたもここが彼女の居場所として最適ではないのは理解しているでしょう。でも、彼女はお母さんと離れるのは強く拒否する」

 その後、刑務官が話してくれたことは私が知らない話だった。紗季は私がここで罪を償っているということをはっきりと理解しているらしい。そのうえで、小学校進学の時、お母さんと離れるのは絶対に嫌だ。お母さんがここを出る時、一緒に出るんだと集まった関係者の前で話したらしい。

 もちろん、法律的にそれは不可能だ。中学生になったら一緒にはいられない。でも法律を知らない彼女はそう答えたのだろう。我慢できなくなって視界が滲みだした。

 さらに刑務官は点呼の時に彼女が私の横に座る理由も教えてくれた。刑務官も私がいない時に理由を聞いたことがあったらしい。彼女の答えはお母さんが正座をする時に私が遊んでいたらお母さんが可哀想だからというものだったそうだ。私だけ惨めな思いをさせないように毎日頑張ってくれていたのだと思うと涙が止まらなかった。

「娘さんのためにも、一刻も早く外に出るべきだと思います。あと、身元引受人の問題はそういった受刑者を支援するNPO団体があります。必要であれば連絡を取って身元引受人を依頼することも可能です」

 そうだったのかと思った。そんな人達がいることは知らなかった。そこまで話すと刑務官はいつもの厳しい顔に戻った。

「261番。もう一度確認します。仮釈放の申請をしますか」

「はい…お願いしたいです」

 私が答えると刑務官は満足そうに頷いた。横にいる若い刑務官が書類を渡してくる。

「特別に1日だけ待ちます。今日中に提出しなさい。もちろん、先程話したことは私の個人的な想いであって実際に仮釈放が認められるかは分かりません。それまで頑張りなさい」

「はい…ありがとうございます」

 話が終わって立ち上がった。若い刑務官が私が送りますと高齢の刑務官に話している。そのまま書類を持って面談室を出た。若い刑務官について行く。このまま、房に戻るのだろうと思った。

 しばらく歩くと前を進む刑務官が歩調を落として私の右横に並んだ。歩きながら優しい声で話しかけられた。

「知ってる?私と大森さんは同い年なんだよ」

 驚いた。また名前で呼ばれた。受刑者が刑務官の個人情報を知る機会はない。私は首を振った。

「過去に過ちを犯したのかもしれないけれど、私は大森さんのことを尊敬してるよ。同い年でしっかりお母さんやってるのはすごいと思う」

 なんて答えればいいのか分からなかった。歩きながら黙って続きを聞いた。

「私には、逆に大森さんが犯罪を犯したって言うことのほうが信じられないかな。私が4年前にここに配属された時には、大森さんは子育てに奮闘しているお母さんにしか見えなかったから」

 確かにそうかも知れない。彼女は私が荒れていた時期を直接見ていない。4年前といえばもう自分がどれだけ馬鹿なことをしてしまったのかを理解できていた頃だ。

「でも、アドバイスと言うか伝えておきたいことがあってね。今回のこともそうだけど、大森さんは困った時に誰かに相談するのが苦手だと思うんだ。話せる人がいなかったのかもしれないけれど他の人に相談できていれば犯罪を犯すこともなかったんじゃないのかなって」

 言葉に詰まった。確かにそうだ。私は誰にも相談できなかった。

「今回のことも事前に相談してくれていたらNPO団体があるって紹介することも出来たんだよ。この間の紗季ちゃんの誕生日ケーキもそう。私たち、刑務官がそういうこともできるよと提案しなければ大森さんは、そのことを考えもしなかったでしょ」

 説教をしている訳じゃないからねと彼女は続けた。

「紗季ちゃんのことはお母さんが一番よく分かっているんだから本当はもっとこうしてあげたいとか私たち刑務官にこうして欲しいとかたくさんあるんじゃないの?」

 彼女の言うとおりだ。そう思うことはたくさんある。でも受刑者の私にそれを言うことは許されない。刑務所の規則に対して異議を唱えたり抗弁をすることは絶対にしてはならない。それは刑務所に収監されて最初に習ったことだ。

「言っておくけど、紗季ちゃんに関係する相談は規則への抗弁にはならないからね。もちろん、すべてが認められることはないと思うし、紗季ちゃんを使ってあなたが利益を得るような事は許されないけれど、今の大森さんがそういうことをするとは思えないし」

 衝撃的な言葉だった。強く後悔した。私は紗季のことをもっと刑務官に相談するべきだったのかもしれない。刑務官と一緒に少しでも紗季にとって過ごしやすい環境を作ってあげればよかった。

「1人で抱え込まないでね。相談することでいい方向に進むことも世の中にはたくさんあるんだから。結局、説教っぽくなっちゃった。ごめんね。入りなさい」

 房に到着し、刑務官が房の扉を開けた。

「はい。ありがとうございます」

 室内に入ると寝息が聞こえた。暑い中、たくさん体を動かして疲れたのだろう。紗季は畳の上に大の字に寝転がって昼寝をしていた。彼女はよく運動の後に昼寝をする。寒い時期であれば、見かねた刑務官が布団をかけるように私に指示することもある。

 でも、基本的に日中は布団を敷く事は禁止なので暖かい時期はそのまま放置だ。不憫に思った。

「すいません。薄い布団を掛けてもいいでしょうか」

 私が刑務官に聞くと彼女は私を見て嬉しそうな顔をした。

「いいよ。掛けて上げなさい」

 私は一番薄い布団を取り出してお腹が冷えないように紗季の下半身に掛けた。刑務官はそれを見届けると扉を静かに閉じていなくなった。そのまま紗季の横に座って先程もらった仮釈放の申請用紙を見た。

 あの刑務官の言い方なら、もしかしたら本当に申請すれば仮釈放が認められるかもしれないと思った。20代はすべて刑務所で過ごすのだと思っていた。

 仮に、今釈放されたら私は27歳。30代で仕事を探すよりも遥かに職を得られる可能性は高いだろう。今から少しずつ貯めれば、紗季を高校に行かせることも可能かもしれない。

 眠っている紗季の顔を見た。仮釈放が認められても今年の運動会には間に合わないだろう。でも、来年は紗季が頑張る姿を見れるかもしない。

 後悔しかない今までの人生だけど、もしかしたらやり直せるかもしれないと思った。急に真っ暗だった未来に一筋の光が射し込んだように感じた。

「お母さん。泣いてるの?」

 気が付いたら紗季がむっくりと起き上がっていた。私の顔を心配そうに見つめている。

「うん、ちょっといい事があってね」

 涙を拭って笑いながら答えた。

「えーなになに?教えて」

「内緒」

「えーずるい!お母さんだけいい事ずるい」

 紗季は私の胸をポカポカ叩いてきた。母親が何をしたのかとか、刑期のことはまったく聞いてこないのに、これは聞いても問題ないことだと判断したのだろう。

 そのまま私を叩く紗季を抱きかかえて久しぶりに抱っこした。ずっしりとした重さが両足にかかる。いつの間にかこんなに大きくなっていたのだと感じた。

「教えてよ!」

 顔を膨らませて怒る紗季が可愛かった。

「内緒」

 紗季のためにこれからも頑張ろう。そして仮釈放を認めてもらって一緒に外で暮らすんだ。そう強く思った。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

今更気付いてももう遅い。

ユウキ
恋愛
ある晴れた日、卒業の季節に集まる面々は、一様に暗く。 今更真相に気付いても、後悔してももう遅い。何もかも、取り戻せないのです。

妻の遺品を整理していたら

家紋武範
恋愛
妻の遺品整理。 片づけていくとそこには彼女の名前が記入済みの離婚届があった。

野球部の女の子

S.H.L
青春
中学に入り野球部に入ることを決意した美咲、それと同時に坊主になった。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

処理中です...