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第二章
6.桂樹のお仕事
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「いつ見ても、この部屋は想像を絶するな」
「そうかぁ?」
第二研究室に入って最初に目にするのは、強化ガラスで四方囲まれた天井まで伸びる水槽である。
その中で、蠢いているのは無数のゴキブリだ。
「ここのゴキブリは、菌を除去したゴキブリだ。害はねーよ」
「そういう問題ではないと思うが」
桂樹はこのゴキブリから、不老長寿を歌っている漢方薬や、美肌クリームなどの化粧品を作っている。
しかし、原材料がゴキブリの為なのか、売り上げは決して良くない。
ここにいるゴキブリは、仲間の死骸を食べながら生きているため、特別なエサは一切いらないと言う。
「ここなら、誰にも話を聞かれる心配はないだろ?」
「そうだな。よっぽどの物好きでなければ、見に来ることはないだろうが――…」
「オレが話したいのはその事じゃなく、ゼンの父親のことだ」
桂樹はゼンの父親の事、神崎亨の動向など諸々を話した。
「何だ、調べたのか……」
「このタイミングで、橘を研究室に呼び込んだのかもしれない。橘には気をつけろ」
「そうは言うが、むやみに橘君がスパイだと疑うのは良くないんじゃないか? 彼がこの研究室に入る前に、盗聴器は全て私が潰した」
それに――と十樹は続けた。
「見たところ、いかにも善良そうな青年じゃないか。彼が人を騙せるような人間には見えないよ」
「神崎が言っていたことは、まず間違いなくオレ達のことだ。お前は甘いんだよ!」
十樹の背にある壁をだんと叩くと、桂樹はそう言い放った。
神崎のあの勝ち誇ったような物言いが気になって仕方がない桂樹だった。
十樹と桂樹の間に、そんな会話があったことをゴキブリ以外は誰も知らない。
☆
十樹と桂樹は、散々話し合った結果。
「ゼン、君の父親は生きている。ただ、ちょっと病気で入院しているんだ」
半分は真実を、半分は嘘を言う事しか出来なかった。
「えっ、じゃ、じゃあ、オレ見舞いに行くよ! 父ちゃんはどこに――」
「ゼン」
生存を知り、嬉しそうなゼンの言葉を十樹が遮る。
「お父さんは、重い病気で面会謝絶なんだ。すまないが、会わせてやることは出来ない」
「えっ、何の病気なんだよ」
「今日、明日で死ぬ病気じゃないから大丈夫だ。ただ、人にうつる病気だから、会わせられないだけだよ」
特別病棟にいる父親の息子が、この研究室に来ている事が神崎に知れたら、子供達の記憶まで操作されかねない。十樹はそれを危惧していた。
「そんなに落ち込むなよ、ゼン。ここにいればいつか会えるだろ」
「そうだよ。リル、ゼンのお父さんが良くなるようにお祈りする!」
リルはそう言って、両手を前に組んで、お祈りのポーズをした。
「リルちゃんは優しいなぁ、ゼン、きっといつか会えるよ」
桂樹は、リルの頭をくしゃりと撫でると、ゼンにとって気休めにしかならない事を口にした。
☆
その夜、三人は十樹が持って来た子供用の服に着替えた。
この研究所には、子供がいないので、大学病院の患者の服を用意した。
子供達に散々文句を言われたが、他に着替えがないことを告げると、仕方なくその服に袖を通した。
「だっせーっ、何、この服」
「全員おそろいか……」
「リル……もうちょっと可愛いのがいいなあ……」
それぞれの文句を聞き流して、十樹は言う。
「君達の村の服は、洗濯をしておくから、これから外へ出る時は、その服でいてくれないか? そして、決して目立つ行動はしないように」
「え――」
「十樹、面倒な言い方をするな。その服じゃないと、ここは危険なんだとはっきり言え」
「君達を、この研究室に閉じ込めておくつもりはないんだ。ただ、くれぐれも気をつけて」
「わかった――!」
深刻に語る十樹の言葉とは裏腹に、三人の返事はあまりにも軽かった。
「橘君、すまないが、この三人の面倒を見てやってくれないか?」
「構いませんが」
「宜しく頼む」
十樹は、そう言い残すと、三人の服を持ち出掛けてしまった。
十樹は、必要最低限な事しか桂樹に話さない。それが元で、いつもケンカになってしまうのだ。昔は、こうじゃなかったのにな、と桂樹は思う。
あの頃、亜樹が生きていた頃は、今よりもっと楽しかったと、桂樹は想い巡らせる。
この大学に入る十年前、特待生として、ここに入る前に、妹の亜樹は、まだ生きていたのだから。
亜樹を交通事故で失うまでは、ずっといい関係を保っていられたのだから。
十樹と桂樹は、十歳の頃に行われた全国テストで、前例のない好成績をとった。それが元で、「その頭脳を大学で生かして欲しい」と多額の金銭との交換で、幾何学大学へ入学した特待生である。
その際、両親は、十樹と桂樹を泣く泣く手放したのだが、妹の亜樹は、その時八歳で、十樹と桂樹は妹との別れを惜しんだ。
二人が幾何学大学で生活することになって、僅か一ヶ月後、亜樹はエア・カーにはねられ死亡した。
その葬儀で、母親は泣きながら言った。
「亜樹は、幾何学大学へ行こうと、慣れない道を歩いてエア・カーに引かれたのよ」と。
現場は、幾何学大学からたった三百メートルの距離だった。
亜樹をはねたエア・カーを運転していたのは誰だか不明で、大学警察内では、ひき逃げした犯人は、幾何学大学の研究者ではないか、との噂もあった。
「亜樹、いつか必ず犯人を見つけてやる」
二人は、亜樹の遺体の前でそう誓った。十樹は葬儀の際、何も語らなくなった亜樹の髪を人知れず抜いていた。
十樹が、亜樹のクローンを造ると言うと、桂樹は最初、猛反対をした。
いくつもの法の壁を越えても十樹が成し遂げたかった事は、明らかに倫理上タブーとされている。
一歩間違えば、犯罪者になってしまう可能性があった。
十樹が捕まれば、協力者の桂樹も捕まるだろう。
――神崎はもう勘付いている。
亜樹をひき逃げした犯人は、未だ捕まらず、のうのうとした顔で大学内をうろいているかも知れない。
十樹は、それを確かめるために、妹、亜樹のクローンを造った。
十樹の造る亜樹のクローンは、記憶をそのままに人工頭脳で成長した、亜樹そのものなのだ。
当然、記憶を持った亜樹の生存を喜ばない者もいるだろう。
亜樹は、誰かの手によって、必ず命を狙われることになる。そのリスクを考えても、亜樹のクローンは造られるべきではなかったと、桂樹はずっと思っていたのだった。
☆
三人分の服を持った十樹は、クリーニングルームにいた。
三人の服を別々にエア・シャワーに放り込むと、十樹はため息をつく。
これから三人を、どこの研究室で暮らしていけるようにするか、それが問題だ。亜樹のように、メインコンピューターへ不正にアクセスし、住民登録をすることが不可能だからだ。
あの三人が特待生になれるだけの能力を持っていたなら、また別の話だが。
――この際、この大学を抜け出して、両親の元へ送り育てて貰うか――いや、両親とは、亜樹の葬儀以来、顔を合わせていない。
もはや他人同然に思っているのではないか。
今更、かつて子供だった自分達が甘えていい訳はないのだ。
☆
白い壁にむかって考え事をしていると、背後から聞きなれた声が聞こえた。
「何か、悩み事でもあるのかな? 白石十樹」
「神崎……」
ここの所、十樹の現れる場所には、度々神崎が付きまとう。
神崎が、一番の悩みの種だと言うのに、本人がそれに気付いているのかどうか。
「何なら、相談にのろうか? あの三人の事で困っているのだろう?」
「別に、何も心配は要りませんよ」
十樹は、造り笑いをした。
「君達が、何を考えているかは知らないが、あの子供達は不法侵入者だろう? 僕の手を頼った方がいいんじゃないかな?」
「それは、私達が考える事です。それに子供達は、私達が呼んだお客様ですから」
「そう言っていられるのも今の内だ……まぁ、君達の行動は大体把握している。覚悟しておけ」
神崎は、一冊の本を手に持って、クリーニングルームから出て行く際に、こう言った。
「亜樹ちゃんによろしく」
「――…」
十樹は、瞬間凍りついた。
妹のクローン、亜樹のことは、あの研究室に入っている者しか知らないことだからだ。
桂樹の言う通り、橘は神崎グループと繋がっているのか。
――それとも、何か別の方法で。
十樹は、エア・シャワーが終わったことを確認して、服を取り出すと慌てて研究室に戻った。
「そうかぁ?」
第二研究室に入って最初に目にするのは、強化ガラスで四方囲まれた天井まで伸びる水槽である。
その中で、蠢いているのは無数のゴキブリだ。
「ここのゴキブリは、菌を除去したゴキブリだ。害はねーよ」
「そういう問題ではないと思うが」
桂樹はこのゴキブリから、不老長寿を歌っている漢方薬や、美肌クリームなどの化粧品を作っている。
しかし、原材料がゴキブリの為なのか、売り上げは決して良くない。
ここにいるゴキブリは、仲間の死骸を食べながら生きているため、特別なエサは一切いらないと言う。
「ここなら、誰にも話を聞かれる心配はないだろ?」
「そうだな。よっぽどの物好きでなければ、見に来ることはないだろうが――…」
「オレが話したいのはその事じゃなく、ゼンの父親のことだ」
桂樹はゼンの父親の事、神崎亨の動向など諸々を話した。
「何だ、調べたのか……」
「このタイミングで、橘を研究室に呼び込んだのかもしれない。橘には気をつけろ」
「そうは言うが、むやみに橘君がスパイだと疑うのは良くないんじゃないか? 彼がこの研究室に入る前に、盗聴器は全て私が潰した」
それに――と十樹は続けた。
「見たところ、いかにも善良そうな青年じゃないか。彼が人を騙せるような人間には見えないよ」
「神崎が言っていたことは、まず間違いなくオレ達のことだ。お前は甘いんだよ!」
十樹の背にある壁をだんと叩くと、桂樹はそう言い放った。
神崎のあの勝ち誇ったような物言いが気になって仕方がない桂樹だった。
十樹と桂樹の間に、そんな会話があったことをゴキブリ以外は誰も知らない。
☆
十樹と桂樹は、散々話し合った結果。
「ゼン、君の父親は生きている。ただ、ちょっと病気で入院しているんだ」
半分は真実を、半分は嘘を言う事しか出来なかった。
「えっ、じゃ、じゃあ、オレ見舞いに行くよ! 父ちゃんはどこに――」
「ゼン」
生存を知り、嬉しそうなゼンの言葉を十樹が遮る。
「お父さんは、重い病気で面会謝絶なんだ。すまないが、会わせてやることは出来ない」
「えっ、何の病気なんだよ」
「今日、明日で死ぬ病気じゃないから大丈夫だ。ただ、人にうつる病気だから、会わせられないだけだよ」
特別病棟にいる父親の息子が、この研究室に来ている事が神崎に知れたら、子供達の記憶まで操作されかねない。十樹はそれを危惧していた。
「そんなに落ち込むなよ、ゼン。ここにいればいつか会えるだろ」
「そうだよ。リル、ゼンのお父さんが良くなるようにお祈りする!」
リルはそう言って、両手を前に組んで、お祈りのポーズをした。
「リルちゃんは優しいなぁ、ゼン、きっといつか会えるよ」
桂樹は、リルの頭をくしゃりと撫でると、ゼンにとって気休めにしかならない事を口にした。
☆
その夜、三人は十樹が持って来た子供用の服に着替えた。
この研究所には、子供がいないので、大学病院の患者の服を用意した。
子供達に散々文句を言われたが、他に着替えがないことを告げると、仕方なくその服に袖を通した。
「だっせーっ、何、この服」
「全員おそろいか……」
「リル……もうちょっと可愛いのがいいなあ……」
それぞれの文句を聞き流して、十樹は言う。
「君達の村の服は、洗濯をしておくから、これから外へ出る時は、その服でいてくれないか? そして、決して目立つ行動はしないように」
「え――」
「十樹、面倒な言い方をするな。その服じゃないと、ここは危険なんだとはっきり言え」
「君達を、この研究室に閉じ込めておくつもりはないんだ。ただ、くれぐれも気をつけて」
「わかった――!」
深刻に語る十樹の言葉とは裏腹に、三人の返事はあまりにも軽かった。
「橘君、すまないが、この三人の面倒を見てやってくれないか?」
「構いませんが」
「宜しく頼む」
十樹は、そう言い残すと、三人の服を持ち出掛けてしまった。
十樹は、必要最低限な事しか桂樹に話さない。それが元で、いつもケンカになってしまうのだ。昔は、こうじゃなかったのにな、と桂樹は思う。
あの頃、亜樹が生きていた頃は、今よりもっと楽しかったと、桂樹は想い巡らせる。
この大学に入る十年前、特待生として、ここに入る前に、妹の亜樹は、まだ生きていたのだから。
亜樹を交通事故で失うまでは、ずっといい関係を保っていられたのだから。
十樹と桂樹は、十歳の頃に行われた全国テストで、前例のない好成績をとった。それが元で、「その頭脳を大学で生かして欲しい」と多額の金銭との交換で、幾何学大学へ入学した特待生である。
その際、両親は、十樹と桂樹を泣く泣く手放したのだが、妹の亜樹は、その時八歳で、十樹と桂樹は妹との別れを惜しんだ。
二人が幾何学大学で生活することになって、僅か一ヶ月後、亜樹はエア・カーにはねられ死亡した。
その葬儀で、母親は泣きながら言った。
「亜樹は、幾何学大学へ行こうと、慣れない道を歩いてエア・カーに引かれたのよ」と。
現場は、幾何学大学からたった三百メートルの距離だった。
亜樹をはねたエア・カーを運転していたのは誰だか不明で、大学警察内では、ひき逃げした犯人は、幾何学大学の研究者ではないか、との噂もあった。
「亜樹、いつか必ず犯人を見つけてやる」
二人は、亜樹の遺体の前でそう誓った。十樹は葬儀の際、何も語らなくなった亜樹の髪を人知れず抜いていた。
十樹が、亜樹のクローンを造ると言うと、桂樹は最初、猛反対をした。
いくつもの法の壁を越えても十樹が成し遂げたかった事は、明らかに倫理上タブーとされている。
一歩間違えば、犯罪者になってしまう可能性があった。
十樹が捕まれば、協力者の桂樹も捕まるだろう。
――神崎はもう勘付いている。
亜樹をひき逃げした犯人は、未だ捕まらず、のうのうとした顔で大学内をうろいているかも知れない。
十樹は、それを確かめるために、妹、亜樹のクローンを造った。
十樹の造る亜樹のクローンは、記憶をそのままに人工頭脳で成長した、亜樹そのものなのだ。
当然、記憶を持った亜樹の生存を喜ばない者もいるだろう。
亜樹は、誰かの手によって、必ず命を狙われることになる。そのリスクを考えても、亜樹のクローンは造られるべきではなかったと、桂樹はずっと思っていたのだった。
☆
三人分の服を持った十樹は、クリーニングルームにいた。
三人の服を別々にエア・シャワーに放り込むと、十樹はため息をつく。
これから三人を、どこの研究室で暮らしていけるようにするか、それが問題だ。亜樹のように、メインコンピューターへ不正にアクセスし、住民登録をすることが不可能だからだ。
あの三人が特待生になれるだけの能力を持っていたなら、また別の話だが。
――この際、この大学を抜け出して、両親の元へ送り育てて貰うか――いや、両親とは、亜樹の葬儀以来、顔を合わせていない。
もはや他人同然に思っているのではないか。
今更、かつて子供だった自分達が甘えていい訳はないのだ。
☆
白い壁にむかって考え事をしていると、背後から聞きなれた声が聞こえた。
「何か、悩み事でもあるのかな? 白石十樹」
「神崎……」
ここの所、十樹の現れる場所には、度々神崎が付きまとう。
神崎が、一番の悩みの種だと言うのに、本人がそれに気付いているのかどうか。
「何なら、相談にのろうか? あの三人の事で困っているのだろう?」
「別に、何も心配は要りませんよ」
十樹は、造り笑いをした。
「君達が、何を考えているかは知らないが、あの子供達は不法侵入者だろう? 僕の手を頼った方がいいんじゃないかな?」
「それは、私達が考える事です。それに子供達は、私達が呼んだお客様ですから」
「そう言っていられるのも今の内だ……まぁ、君達の行動は大体把握している。覚悟しておけ」
神崎は、一冊の本を手に持って、クリーニングルームから出て行く際に、こう言った。
「亜樹ちゃんによろしく」
「――…」
十樹は、瞬間凍りついた。
妹のクローン、亜樹のことは、あの研究室に入っている者しか知らないことだからだ。
桂樹の言う通り、橘は神崎グループと繋がっているのか。
――それとも、何か別の方法で。
十樹は、エア・シャワーが終わったことを確認して、服を取り出すと慌てて研究室に戻った。
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