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第二章

10.橘の苦悩

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「リルは帰って来たか」

  研究室に十樹が帰ってきての第一声。
  橘が服を着なおしている時だった。

 「橘くん、なにしてるんだ?」
 「訊かないで下さい」

  半裸で服に腕を通している橘を見て、十樹は。

 「君……ストリップの趣味でも……」
 「ありません!」

  橘は十樹の台詞を大きく否定して、まるで傷ついた子犬のような瞳をした。
  隣にいる桂樹は、脳の写真を見ていった。

 「十樹、今、橘の全身をスキャンしたら……」
 「スキャン……?」
 「頭の中に何かあるんだ」

  桂樹は、橘の写真を見せた。

 「盗聴センサーを頭に向けてみたら、その中から微弱な盗聴器の反応が……」
 「これは――」

  見ると、脳の中に四角く、黒い影が映り込んでいた。
  腫瘍なら、こんな形にならないはずだ。

 「盗聴器が、頭の中にあるってこと……か」
 「あぁ」

  十樹はふと思い出す。そう言えば、神崎との関係を問い尋ねた時、幾何学大学病院で五歳の頃に手術を行ったと言っていた。

――橘は、まさかその時に。

 「これ、オレ達でとってやるしかないだろう」
 「なるべく早急に処置しよう」

  十樹は、オペ室の予約を取るために、幾何学大学病院へコンピューターを接続し、忙しくパネルを打ち始めた。

 「なぁ、リルは?」
 「まだ見つからないが、リルがいるかもしれない場所は知っている」
 「じゃあ、早く迎えに行って下さい」

  カリムは酷く不機嫌に十樹を見た。

 「大丈夫、そこは安全な場所だ――ただ」
 「ただ?」
 「ああ、何でもない。何でもないよ」

  リルが神崎の手により、何らかの記憶操作をされている可能性があることを、十樹は伝えられずにいた。

 「もういいです! 僕達、リルを捜しに行きます。ゼン、行くぞ」
  待ちきれない二人は、研究所から出て行ってしまった。
 「よろしかったんですか?」

  橘が問う。

 「取り合えず、橘君の事を優先する。あの二人なら、多分、大丈夫だろう」
 「あの……――僕は、五歳の頃からずっと盗聴されていたのでしょうか」

  不安げな様子の橘に、返せる言葉はないに等しかった。

 「大丈夫。それも今日で終わりだ」
 「思えば、僕の父さんは「いつも壁に目があると思って生きろ」と言うのが、口癖でした」

  橘は、くっと歯をくいしばって、泣くのをこらえていた。

 「神崎教授は、いつも僕が欲しがっている物を、クリスマスや誕生日に贈ってくれていたんです。神崎教授には、何も言っていないのに僕の欲しいものが分かっていて、不思議だな、と」
 「――……」
 「父さんもグルだったんでしょうか?」

  絶望的な環境の中で、幸せを信じていた橘にとっては、余程ショックなことだろう。大学ぐるみの犯行としか言い様がない。

 「君のことも、色々と調べてみることにしよう。誰が敵で、誰が味方なのかを知っておく権利はあるはずだ」

  倫理委員会に訴えたいのは、十樹達の方だった。
  まさか、人間を盗聴器として、研究室に送り込んでくるとは思わなかった。

 「――以降、筆談で話すように」
  十樹が言うと、橘は、こくりと頷いた。

                  ☆

「おや?気付いてしまったようだな……まぁ、いいさ」

  神崎は無音になったイヤホンを耳から外し、白衣のポケットへしまうと「軍事用クローン」の製造方法を考えた。
  十樹は既にクローンを造る術を知っている。
  クローンは違法だからと、今まで医学の道のトップである事を望んできたが、どうやら時代は流れ、新時代を迎えようとしている。

  ――しかし、あの白石十樹を、どう説得するか……それが問題だが。

  それさえ出来れば。

 「十樹が、クローン体を造り、僕が記憶操作する。完璧じゃないか」

  神崎は、実現不可能な夢を呟いて、軍事用クローンの計画をコンピューターに打ち込み始めた。

                   ☆

 「ちくしょー! リルどこ行ったんだ」
 「ゼン、二手に分かれて捜そう」

  長い廊下の先は行き止まり。左右に分かれており、カリムは左の廊下へ、ゼンは右の廊下へ走り出した。
  しかし、どこへ行っても大学の居住者である証明パスが必要で、それ以上捜しようがなかった。

――もしかしたら、大学の外にいるかもしれない

 そう思ったカリムは、廊下の窓を開けて大学内の中庭に出た。

  中庭はちょっとした公園のようになっていて、所々にベンチが設置されている。
 大学内の恋人達の憩いの場になっており、カリムは気恥ずかしさを覚えながらも、その恋人達に「僕と同じ年くらいの小さな女の子を見ませんでしたか?」と尋ねて回った。

 「あぁ、食堂で神崎先生と一緒にいる所を見たよ」

  最も、もうあれから三時間は経っているから、今はもう居ないだろうけど――そう言った。

――でも、神崎ってヤツ、十樹達が警戒している人物ではなかっただろうか?

  研究室内を盗聴していたのであれば、神崎ってヤツとリルが出会ったのは偶然ではなく、必然だ。
  十樹は大丈夫と言っていたが、思ったより事態は深刻なのか?
カリムは十樹の物言いに嫌な予感がした。

                      ☆

  一方ゼンは、証明パスが必要な場所でも、大学内の生徒が通りかかるたび、足並み揃えて難なく通過してしまっていた。

  ゼンは勿論リルを捜していたのだが、同時に父親をも捜しに出ていたので、ゼンの父親がいそうな中央棟の病院にまで入り込み、複雑な内部にまで到達している。
  辺りをキョロキョロと見渡していると、大人達が声をかけて来た。

 「君はどこへ行くつもりなんだ?」
 「人を捜しているんだよ」 

  濃紺の制服に、幾何学大学のワッペンが袖についている。大学警察だ。
  そんな存在を全く知らないゼンは、不信感を特別に抱くことなく警察に話しかけた。

 「ジム・カインって、どこの病院にいるか知らない? おじさん」
 「ジム・カイン……? さぁ、聞いた事ないな」

  言いながら、大学警察はゼンにガチャリと手錠をかけた。

 「へ?」

 手首にかけられた手錠を見て、ゼンは呆然とした。

 「先刻から、中央センターのアラームが鳴りっぱなしでね……どうやらパスエラーの原因は君らしい」
 「はぁ!?」
 「君は、どこの患者だ?」



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