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第四章

4.策動

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 同時刻、暗殺者の数名は、幾何学大学に出入りする宅配会社の制服の手配をしてもらい、宇宙科学部の研究室を影から見ていた。
  暗殺者は、宇宙科学部のメンバー達の用事を知っていた。
  全て、学長代理の仕組んだ罠だったのだ。

  姿をあまり見せない亜樹も、この時ばかりは出て来るだろう。
  暗殺者の一人は、宅配業者を装って、研究室のインターフォンを押した。

 『はい』

――白石亜樹の声だ。

 『シロクマ宅急便です。お荷物をお届けに来ました』

  暗殺屋はワゴンの上に大きなダンボールを乗せ、研究室が開くのを待つ。
  勿論、ダンボールの中は空だ。

 『あの、シロクマさん、今日この研究室に荷物が届く予定はないようですよ』
 『ああ、これは急ぎの荷物で』
 『ごめんなさいね。白石先生に誰が来ても開けちゃいけないって言われてるの』

  亜樹はそれきり、インターフォンを切ってしまった。
  亜樹の前に暗殺者が現れる可能性は、亜樹自身が知らなくても、十樹と桂樹は知っている。
  そう簡単にいく相手ではない。

 「思ったよりガードが固いな、違う手でいこう」

  暗殺者の一人が目配せをすると、皆はこくりと頷いた。

                   ☆

 一方、白石桂樹は、化粧品のセールスのため、面会室に来ている。
  来客のためか、ソファのクッションはなかなかの物で、桂樹はその感触を楽しんでいると、面会者――ゴキブリ化粧品の商談相手が現れた。

  さぞかし綺麗な化粧品会社の女社長を想像していた桂樹だったのだが、その容姿を見て、がっくりと肩を落とす。

  筋肉むきむきのおっさんだったからだ。

  何故、この男が化粧品を必要としているのか、全く理解不能だ。

 「早速、ゴキブリ化粧品のサンプルを見せてもらおう」
 「はあ」

  気の乗らない返事を桂樹は返して、サンプルをバックの中から取り出すと、テーブルの上に並べ、商品の説明を始めた。

 「こちらが、私の開発したゴキブリ化粧品です。化粧水、保湿液、、乳液と、三点セットでの販売になります。この化粧品の効果は……」
 「分かった。その商品を百円で買い取ろう」

  筋肉むきむきのおっさんは、桂樹の説明を全部聞かないうちに、買い取りの話を切り出す。
  百円という金額に驚いた桂樹は、あわてて説明を付け加えた。

 「私共の化粧品は、一本三千円の研究費をかけてようやく商品化に辿り着いたもので、百円では販売しかねます」
 「それなら訊こう。そのゴキブリ化粧品は売れているのかね」

  桂樹は痛いところを突かれて、ぐっと息をつまらせた。
  確かに、研究室には売れなかったゴキブリ化粧品の在庫の山が積んであるからだ。

 「私は、この化粧品を自信を持って販売しております。お客様のご要望にはお答えできません」
 「そうかね。残念だ」

  そして、交渉はあっさりと決裂した。

  桂樹がとぼとぼと帰りの廊下を歩いていると、幾何学大学の中庭に、たんぽぽが咲いてるのを見つける。

(そういえば、亜樹が花を欲しいと言っていたな)

 大金が入るかもしれないと思い夢を馳せていた自分が、何だか可哀想に思えてきた。
  交渉は決裂したのだ。

                  ☆

 橘は、実の母に会う為に、幾何学大学の校門へと来ていた。
  待ち合わせの場所は、幾何学大学の玄関口にある門の前だ。

  橘は早めに来て母親を待っていたのだが、なかなか来ない。
  待ち合わせの時刻は十時であったのに、母親はそれから一時間も遅れてやってきた。
  母親は高級車に乗り、助手席から出て来た。

  橘家には、お抱えの運転手がいる。運転手にしばらく待つように告げると、母親は橘に向かい合った。

 「お母さん、お久しぶりです」
 「遅くなってごめんなさいね、サトル」

  母親は、派手な化粧や髪型が乱れていないかを鏡でチェックすると、橘に言った。

 「このところ、何か変わったことはない? 元気かしら」
 「それについて、お母さんに訊きたいことがあります」
 「あら、何かしら?」

  橘に仕込んだ盗聴器がバレたのだろうと気付いた母親は、息子の顔を直視することなく、目をそらした。

 「どこにもケガがないようで、安心したわ」
 「心は重症ですけどね……盗聴……」
 「きゃあ、サトル! そういえば、沢山あなたにあげたい物があったの」

  橘の母親は早口で言葉を遮り、執事に合図した。
  執事は後頭部席を開けると、車の中から沢山のお土産が橘の前に並べられ、一山を築いた。

 「サトルが幾何学大学で不自由してないかって、お母さん気掛かりで気掛かりで仕方なかったわ」
 「あの……」
 「ねっ! サトル、足りないものがあったら、すぐに言って頂戴……それと」

  橘の母親は、橘に一言も喋る隙も与えず、ロケットペンダントを差し出した。

 「サトルが大好きなソネットの写真よ。元気にしてるから、安心しなさい」

  ソネットというのは、橘家で飼っていた犬の名前である。
  わざわざ写真を切り抜いてペンダントを作ってくれたようだ。

 「ありがとう、お母さん」

  口ではそう言いながら、上滑りの言葉だった。
  橘がことの核心に触れる次の一言を口にしようとした瞬間、母親は慌てて車に乗った。

 「じゃあ、お母さんの用はこれだけだから。お母さんも忙しいのよ。ごめんね、サトル」
 「あ……」

  橘の母親は、執事と共に車に入り、運転手に「じゃあ行って」と言うと、笑顔を向けてその場から立ち去った。

  そして、山のような荷物を前にして、橘は呆然と立ち尽くす。
  橘の手には、盗聴センサーの赤く灯るソネットのロケットペンダントが残された。

                   ☆

 お昼になり、亜樹は幾何学大学に来て初めて食堂で昼食をとった。
 初めてであるのも関わらず、何故か亜樹は大学の食堂システムを知っていたことは、亜樹自身、不思議に思った。

  食堂システムの他、学内の地図のほとんどを亜樹は知っているのだ。
  この不思議な感覚に亜樹は慣れつつあったが、自身を取り巻く環境について慣れるのは、まだ先のように思えた。

 「あの、すっげえ可愛い子誰だよ」
 「オレ、声かけようかなぁ」
 「やめとけ、お前等。あの子はなぁ」

  白石兄弟の妹だと正体が知れると、三人は軽く手を振り返してそそくさと食堂を出て行く。
  亜樹はふぅっと軽く息をついて、食事をとり、紅茶を飲んで食堂を出た。

  窓の外を見ると、昼間のはずなのに四季との紛争の影響なのか外は暗い。
  そんな中を、歩いて亜樹は研究室に戻ろうとしていた。
  その時――

「痛い、痛いよぉ」

  まだ、三、四歳だろうか。
  小さな女の子が研究室の前で倒れていたのだ。
  亜樹は駆け寄って、少女を平らに寝かせた。

 「大丈夫? 今、救急隊を呼ぶから」
 「痛い、痛いよ、お姉ちゃん……」

  亜樹は、自分の携帯のロックを解いて救急隊に電話しようとしたが、背後にいる影に気付き、はっとして振り向いた。

 「うっ」

  途端、見知らぬ男に布越しに口を塞がれて、亜樹は呻く。
  薬品のにおい――。

――クロロフォルム?

  亜樹がそう思った次の瞬間に意識を失い、深い眠りに落ちた。

 「ごめんね。お姉ちゃん」

                 ☆

 交渉に失敗した桂樹は、中庭に咲いていた、たんぽぽを片手に研究室へ帰ろうとしていた。

 「貧乏なオレを許せ、亜樹」

 (たんぽぽでも、亜樹は喜んでくれるだろうか?)

  そんな心配をしながら、研究室へと続く通路を曲がる。
  その時、シロクマ宅急便の不審な行動に、目を見張った。

――――あれは、亜樹?

  男が二人。一人が亜樹の両脇を抱え、一人が足を持っている。
  シロクマ宅急便のダンボールの中に、亜樹の身体を押し込んでいた。

 「お前達! 亜樹に何してるんだ!」

  桂樹が研究室の方へ走った。

 「やべっ! もう帰ってきやがった」
 「急げっ」

  亜樹の入ったダンボール箱を荷台に乗せて、運ぼうとするその手を桂樹は掴んで、シロクマ宅急便に変装した男の一人を素手で殴った。
  男の一人が床に転がる。

 「てめぇ、何しやがる!」
 「それは、こっちの台詞だ!」

  桂樹は、もう一人の男に向かって、足を思い切り蹴った。
  急所を蹴られた男は、その場にうずくまりうめき声を挙げる。

 「亜樹」

  亜樹に被せられたダンボールの蓋を開けると、眠った姿でそこにいた。
  息があるのを確認して、桂樹は安堵の息をつく。

 「こいつら一体――――」

  見知らぬ男達を見て、辺りを見ると、小さな少女がダンボールの影にいた。

 「お嬢ちゃん、こんな所にいたら危ないぞ」
 「お兄ちゃん、ごめんなさい」

  少女がそう言ったのが先だったか、桂樹は背後からスタンガンを突きつけられ、そのまま気絶してしまった。

 「助かった! のえる」

  のえると呼ばれた少女は、えへへと無邪気に笑う。

 「しっかし、白石十樹がこんなに早く帰ってくるとはな」
 「急ごうぜ。こいつの身代金を請求しないとな」

  本来なら、亜樹を誘拐して、白石十樹に金を請求するはずだったが、予定が狂った。
  暗殺屋のメンバーは、シロクマ宅急便のダンボールに亜樹と桂樹を放り込むと、近くのエレベーターに乗り、その場から姿を消した。

  現場には、桂樹が中庭で摘んできた、たんぽぽが残されていた。


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