上 下
2 / 7

第(2/7)話: コペルニクスの憂鬱

しおりを挟む
クロスボーンズグレイブヤード
CROSSBORNS-GRAVEYARD

第(2/7)話: コペルニクスの憂鬱

ある日、青紫色の綺麗な蝶々が家の中に入ってきて掴まえようとしたのを覚えている。

手を伸ばしてエイヤ!と跳躍しているこれがあたし。

でもねあいつら、空気みたいにすり抜けていくの。
窓の方へ逃げていってね、カーテンの隙間から外に出ていってしまう。

だからあたしも追い掛けて、裸足のまんまお庭に出た。

「ミーシャ!」

と、その時に限ってママンが言う。

「お菓子の時間ですよ!」

蝶々は塀を越えて禁断の森に消えてしまった。

出来ればその先に行きたかったけれど、あたしはまだ小さかったからママンに従うしかなかったのね。

「どう?出来たてのアップルパイ。砂糖は控えめだけどミーシャのお口に合うかしら」

パイ生地やクロワッサン、バームクーヘンやミルフィーユなど幾重もの地層を持った食べ物にロマンを感じる。

「おいしい!」

胃袋が満たされるとさっきまで感じていた自由や冒険に対する興味と渇望を忘れてしまう。

「あらやだオホホ!ほっぺに林檎が付いていてよ!」

比喩かと思ったら本当についていた。
ペロリと舐めて万事解決。

「シリウスとベテルギウス・・・そうしてこれがプロキオン」

夜は星空を見るのが好きだった。

パパは政府の役人でいつも帰りが遅かったから、これが殆んど唯一の団欒だったわけ。

「プロキオンは・・・子犬座ね」

広い胸板に頭を預けてあくびをする。

「ねえパパ、あたし、子犬飼いたい」

パパには夢を叶える魔法の力が備わっていた。
翌朝、あたしはペロペロとお鼻を舐められて起きることになる。

「ふふっ」

毛並みの良い子犬の顎を、もふもふ撫でた。
気持ちいーい!

だけど起きてみてビックリ。
あたしの部屋には何十匹ものワンちゃんたちが自由気ままに戯れていたの!

「気に入ったかいシンデレラ」

パパは時々あたしのことをそうやって呼ぶ。

「この国中にいる子犬たちを集めさせたんだ。どれも一級品さ。純血種だけを選び抜いたからな」

誇らしげに言った後、賛同と称賛を待っていたからあたしは応えたんだ。

「ありがとう。こんなことが出来るなんて、世界で一番のパパよ!」

だけど食事を終えて敷地の中を散歩していた時、あたしは一生忘れられない光景を目にすることになる。

「え・・・なにこれ」

大邸宅の裏の裏、焼却炉近くの敷地で澱む不穏な空気。

その場所だけに草花は生えず、死の煙が留まっていた。

「ひゃ!」

牙を剥き出しにして倒れ、舌をだらしなく垂らしている犬の死骸。
それらは幾重にも折り重なり、大量の蠅が居住地だと思い込んでいる。

パパの言葉が耳元で何度も谺した。

(純血種だけを選び抜いたからな)

それはあたしを喜ばせるためだけに用意された宝物の代償。
選ばれなかった子犬たちの呪いが、あたしに竜宮城の魔術をかけて心を千倍老けさせる。

「ミーシャ」

ドアをノックする音が次第に大きくなっていく。

「ミーシャ!」

神様は世間を知らない引き篭りのあたしにも14歳の肉体と思春期特有の疼くような悩みを与え、挙げ句の果てにほったらかしにした。

「ミーシャ!いい加減にしなさい!」

強引にドアが破られる。
レコードが超高速で回転しながら繰り出す爆音に耳を塞ぐママン。

「お願いだから悪魔の音楽を止めて!いますぐ!」

そう叫ぶママンの頭に白髪を見つけた。

続いて、階段を上がってくるパパ。

「このッ!親不孝者が!」

バシン!と一発平手打ち!あたしは反抗的な目でパパを睨み付け、左手の中指を突き立てて罵る。

「うぜえんだよ!暴力親父!」

これに激怒したパパがあたしに掴みかかり、揺すぶった拍子にレコードの針が飛ぶ。

辺りは無音に包まれた。

ママンは床に座ったまま泣いている。

「ごめん・・・」

親に泣かれたら、あたしの負けだ。

「ママン・・・パパ・・・出来の悪い子で本当にごめんなさい」

いつの間にかあたしの頬にも涙が伝っている。
パパは目頭を熱くさせていた。

レコードは音も出さずにシュルシュルと回り続けている。

「まあ、いい」

パパの一言で、修羅場はひとまず幕を下ろした。

不思議なもので、心が落ち着くと自分から外に出てみたいと思うようになる。
蝶々を追って素足で窓を抜けた幼少時代が懐かしい。

廊下はひんやりとした感触を足の裏に伝え、歩く度に節々が痛みを伝える。

(生きるってこういうことなんだ)

今思えばまだまだ甘い認識で、だけどもあたしは確かにこの時人生を自分の足で歩き始めたんだと思う。

「おはよう」

ソファーで寝ていたパパを起こした。
一瞬、すごく驚いた顔をしたけれどパパは笑って、これ以上はないくらいに優しい目であたしを見る。

「気持ちのいい朝だな、ミーシャ」

外の世界を知ることは同時に、自分だけの世界を失うことでもある。

自分を中心に回っていた世界が、実は預かり知らぬ原理によって動いていたと知る衝撃。

私たちの太陽は、誰だ。

化粧をする。
もっと美しく。

三面鏡に映るあたしの横顔が言っている。

それじゃ足りないわ、もっともっと!

それで白粉を塗り過ぎて、気付いたママンが慌てて落とす。

「いいこと、ミーシャ。大事なのは素顔を隠して作ることじゃないの。元々持っているあなたの美しさを引き立てる為のお化粧よ」

薄く伸ばして肌の上にコーティングを施す。
最後に口紅を塗ると、随分と大人びた印象になった。

「これでパーティに行けるわね。誰もがあなたに釘付けになる」

褐色の肌の召し使いたちが扉を開けてあたしたちは外に出る。

パパが運転するのは黒塗りのピカピカ高級車。
内装は赤で統一されていた。

「ねえ、パーティで何をするの?」

ハンドバッグの取っ手に汗がじんわりと染みる。
あたしに迫りくる極度の緊張。

パパは慣れた手つきでハンドルを回し、砂埃のたつ荒野に車を繰り出した。

「商談だよ。パパがお金をもらって、然るべき事業に投資する。そうすると汚れたお金が綺麗になって、みんなハッピーになれるんだ」

暫くすると、遠くに市街地が見えてくる。

入り口には、そう、自動小銃を抱えた迷彩服の兵士が数人立っていた。
検問所があって、男が一人近付いてきたわ。

「待て。ンドゥールの客だ。ゲートを開けろ!」

もうひとりが号令を下すと、兵士たちは直立不動の姿勢になって敬礼のポーズを取ったの。
それも、あたしたちに向けてよ!

「すごいね、パパ」

誰も返事をしないまま、白い宮殿に乗り入れる。
あちこちに彫刻付きの噴水があって優美に飛沫を散らしていた。

「着いたわ」

まるで熱に魘されたかのようなパーティ会場、寝ても覚めても終わらない酔狂。

パパが商談を進める間、あたしは無尽蔵に提供されるキャビアのカナッペを食べ続けた。

「やあ、お嬢ちゃん」

額に傷のあるアルビノに声を掛けられる。

「誕生日祝いに何でも言うことを訊く奴隷はどうだい?」

見ると、壁一列に繋がれた奴隷の一団が横並びに虚空を見つめている。
それぞれ番号の書かれた木札を首からかけていた。

「うちの娘をからかうなよ、ケルビン。だが・・・そろそろ奴隷の一人も必要な年頃か」

あたしの目が泳ぐ。

筋肉隆々、何でも運んでくれる奴隷がよいか。
細かいところによく気付く小間使いが必要か。

「あたし、あれがいい」

ドアの近くで鎖に繋がれた、白いスーツ姿の少年を指差してあたしは選ぶ。

小さいのに、ポマードで髪をオールバックにした薄幸そうな少年。

無害で、頼りなくて、まるで捨てられた子犬のように佇んでいる。

「ん・・・ああ、あれは、売り物ではないんでさあ」

パパはケルビンと呼ばれた男を睨み付ける。

「この外道め・・・さては商品に手を付けたな」

ピクピクとひきつる唇の端。

「い、いやあ旦那!聞き分けが悪かったもんで、ちっくとお灸を据えてやっただけですわ」

この男、強面の癖してパパの前では妙に腰が低い。

「娘が、あれを欲しいと言っているんだ」

ケルビンはポリポリと頭を掻いた後、憂いを振り払うようにして判断を下した。

「手付金、それも現ナマが必要なんで。先刻、博打で大金をすっちまってね、情けねえや。幾らか元手さえあれば、もう一山稼げるんだが・・・なにせ金が」

パパが懐から小切手を取り出してササッと数字を書く。
ミシン目で切ってケルビンの胸に押し付けた。

「お前みたいな下品な輩は、見ているだけで吐き気がする」

男は金額を指折り確かめて、それから酷く横暴な態度で少年を呼んだ。

「来い」

ポマードの少年が前に出てくる。

「そこのお嬢ちゃんがお前をご所望だとよ!」

鎖が伸びきって、ジャリッと冷たい音を立てる。

あたしは訊いた。

「あなた、名前は?」

聞き取れぬほど小さな声で、少年は答える。

「ユスフ」

【つづく】

次回予告!

禁じられた遊びに講じるユスフとミーシャ。

市民の目から隠された阿鼻叫喚の収容所。
癒着する貿易会社と政府関係者。そして・・・

次回『赤い砂漠とレジスタンス』

反撃開始!
しおりを挟む

処理中です...