氷の王と炎の王妃

藤井 紫

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第四章 わたし、子を、授かりました

敗北の理由

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 その夜、王妃の寝室には柔らかな灯りだけが灯っていた。
 窓際の卓上に置かれた〈アストラクス〉の盤上には、白と黒の駒がいくつか並べられている。

 シルヴィアは、絹の上掛けを羽織りながら、椅子に腰かけていた。目元にはまだ疲れの色が残っているが、それでも彼女は楽しげに小首をかしげる。

「これで、わたしの星角が……陛下の主格を取れるのですね?」

 ギリアンは椅子の向かい側に座り、細い指で盤を見やる。
 そして小さく笑って、頷いた。

「……見事です、王妃殿下。完全な包囲です」

 シルヴィアは息をのんだ後、そっと駒を動かす。
 白の星角が、黒の主格を囲い落とす。
 それは〈アストラクス〉における、ほとんど詰みに等しい手筋だった。

「勝ちました……? わたしが?」
「ええ。初勝利ですね」

 顔を上げたシルヴィアの頬に、ほんのわずか紅が差す。
 心なしか、シルヴィアの瞳が生き生きと輝いて見えた。

「うれしいです。陛下に教えていただいて、勝てたなんて……」

 その言葉に、ギリアンは少しだけ目を伏せる。
 シルヴィアの小さな幸福が、自分のほんの小さな犠牲で叶うならそれでいいと、思った。

 だが――

「……ふふっ」

 小さな笑い声が、部屋の端から漏れた。
 控えていたラシェルが、口元を手で隠して可愛らしく笑っている。

「ラシェル?」
「申し訳ありません、妃殿下。陛下が、あまりにもお手柔らかだったものですから」

 ラシェルはくすくすと笑いながら、シルヴィアに軽く礼をした。

「おやすみなさいませ、王妃様。陛下も……良い夢を」

 そう言って、静かに部屋を後にする。
 扉が閉まる音が、まるで風のように淡かった。

 二人きりになった部屋。
 盤の上に、勝利の形が静かに残っている。

 ギリアンは、ふっと目を細めて呟いた。

「……次は、少し本気を出してもいいかもしれませんね」

 シルヴィアは微笑みながら視線を落とした。が、次の瞬間、ふと真顔に戻る。

「そういえば……今日、バルダレクでの戦は……?」

 ギリアンの表情が、少しだけ静かになる。
 けれど、重々しさではなく、あくまで説明するような落ち着いた声音で言った。

「……魔女王軍は、神聖ヴァロニア軍に敗れました」

 シルヴィアは目を見開きかけたが、その続きを待った。

「ですが、それは計画された敗退です。ヴィンセントが、敵軍リナリー陣営に潜入するための布石です。彼は、ファールークの第二皇子を取り戻すため、あえて敗れる戦場を選びました。ですから、心配はいりません」

 言葉は静かだが、信念があった。
 それは、シルヴィアにも伝わる。

「……ヴィンセント卿は、あの『ヴァンデの悪魔』だったのですよね。……今は『魔女王の剣』ですが。……やはり、強い方なのですね。ラシェルが、あの方は絶対に失敗しないと言ってました」
「そうです」

 ギリアンは頷き、そして〈アストラクス〉の盤の向こう側から、じっとシルヴィアを見つめた。

「僕は、彼が負けるところを、今まで一度も見たことがありません。……だから、彼が『王妃を選んだ』とき、僕はその選択を疑いませんでした」

 その瞳は穏やかで、どこか誇らしげだった。
 シルヴィアは、不意に言葉を失ったまま、ギリアンの視線を受け止めるしかなかった。
 不思議と、胸の奥が、温かくなるのを感じながら。
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