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第四章 わたし、子を、授かりました
父になること
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夜の帳がすっかり落ちた王宮の回廊を、ギリアンはひとり歩いていた。
誰の目にも留まらぬよう、重い外套をまとい、足音すら押し殺しながら。
向かう先は、王妃の私室だった。
侍女の詰める前室には、夜勤の侍女がひとりだけ残されていた。
ギリアンの姿を認めると、何も言わず深く頭を下げ、静かに扉を開けた。
部屋には、かすかな香の気配と、しおれかけたミュゲの甘い香りが漂っていた。
蝋燭の灯だけが静かに揺れている。
寝台の上に、シルヴィアはいた。
浅い眠りの中にいるのか、それとも、ただ目を閉じているだけなのかはわからない。
顔色はまだ青く、唇の血の気も薄かった。
その傍には、ラシェルが膝を抱え、俯いたまま寄り添っていた。
眠ってはいないが、声をかける気配もなかった。
ギリアンとラシェルの目が合う。
ラシェルの目は、泣き腫らして赤く染まっていた。
短く頷くと、ラシェルはそっと立ち上がり、無言のまま部屋を後にした。
扉が閉じる音すら、遠く、霞んで聞こえた。
静けさの中、ギリアンは寝台のそばに腰を下ろした。
そして、迷うように、けれどゆっくりと、そっとシルヴィアの手を取った。
それは氷のように冷たかった。
言葉をかけるべきか迷ったが、どんな言葉も空虚に思えて、しばし黙して座りつづけた。
やがて、シルヴィアがわずかに瞼を開ける。
ラシェルの気配が離れたこと、そして手のぬくもりで、ギリアンの存在に気づいたようだった。
「……陛下……」
掠れたその声には涙がなかった。だが、深い哀しみが滲んでいた。
「申し訳ございません……。陛下の子を、……失ってしまいました……」
ギリアンは、シルヴィアの手を静かに、けれど強く握り返した。
「……『王』として申し上げます。まず、身体を休めてください。ヴァロニアで最も高貴な貴女を、誰も責めることはありません。……よくある事です。……僕の母も、二人、子を失っています。子は、また授かればいい……。療養が必要ならば、しばらく実家へ戻られても良いし、母国の乳母や乳姉妹をこちらに呼んでも構いません」
その言葉は、どこか台本のようだった。
聞き慣れた理性と義務の仮面が、ギリアンの声に重なっていた。
「……優等生の……答え、ですね……」
シルヴィアは、微笑もうとしたのかもしれない。
けれど、その口元は震えていた。
ギリアンは彼女の手を包み込んだまま、うつむく。
「……本当は……僕のせいです」
その言葉は、誰にも聞かれたくないように、小さく、苦しげだった。
「……あなたを、遠ざけたままにしていた。話すことも、触れることも……避けてばかりだった」
ぽと、ぽとと、涙が落ちる音がした。
シーツの上に染みていくその音に、シルヴィアは目を見開いた。
「……あなたの身体のことも、心のことも、何ひとつ知らなかった。知ろうともしなかった。それでも、父になれると……思っていた」
ギリアンの声は震え、抑えきれぬ悔いがにじんでいた。
「僕は……父親として、失格です。夫としても……あなたの傍にいる資格もない。こんな僕が、王になって良かったのか……今でも答えが出ない……」
それは、かつて父に否定され続けた少年が、心の底で抱えていた痛みの告白だった。
長い沈黙が、ふたりの間に落ちる。
やがて――
シルヴィアはそっと手を伸ばし、ギリアンの頬に触れた。
流れ落ちた涙の跡を、指先でそっとぬぐう。
そして、ギリアンの手に、自分の手を重ねた。
「……わかっているんです。誰のせいでもない。あなたのせいでも……わたしのせいでもない。ただ……わたしの中に確かにいた命と、あまりに突然の別れが……悲しくて……」
弱々しい声だったが、その瞳には、確かな意志が宿っていた。
「……婚礼の夜、わたしは誓いました。王妃になると。あなたを王にすると。王に、子を授けると」
ギリアンは目を伏せ、静かに耳を傾ける。
「わたしは、あなたを――」
そこまで言いかけて、シルヴィアは口をつぐんだ。
その続きを告げるには、まだ少しだけ時間が必要だった。
だが、ギリアンには、それで十分だった。
シルヴィアが自分の手を取ってくれたこと、それがすべてだった。
「……シルヴィア。王と王妃としてではなく、……僕の伴侶として、僕と一緒に、生きてもらえますか……?」
その問いに、シルヴィアは小さく、けれどはっきりと頷いた。
ふたりの間を隔てていた冷たい壁が、そっと溶けはじめた瞬間だった。
この夜、ギリアンは初めて、王妃ではなく、たったひとりの女性としてのシルヴィアの手を握った。
父になることの痛みも、希望も、その手のぬくもりと共に。
誰の目にも留まらぬよう、重い外套をまとい、足音すら押し殺しながら。
向かう先は、王妃の私室だった。
侍女の詰める前室には、夜勤の侍女がひとりだけ残されていた。
ギリアンの姿を認めると、何も言わず深く頭を下げ、静かに扉を開けた。
部屋には、かすかな香の気配と、しおれかけたミュゲの甘い香りが漂っていた。
蝋燭の灯だけが静かに揺れている。
寝台の上に、シルヴィアはいた。
浅い眠りの中にいるのか、それとも、ただ目を閉じているだけなのかはわからない。
顔色はまだ青く、唇の血の気も薄かった。
その傍には、ラシェルが膝を抱え、俯いたまま寄り添っていた。
眠ってはいないが、声をかける気配もなかった。
ギリアンとラシェルの目が合う。
ラシェルの目は、泣き腫らして赤く染まっていた。
短く頷くと、ラシェルはそっと立ち上がり、無言のまま部屋を後にした。
扉が閉じる音すら、遠く、霞んで聞こえた。
静けさの中、ギリアンは寝台のそばに腰を下ろした。
そして、迷うように、けれどゆっくりと、そっとシルヴィアの手を取った。
それは氷のように冷たかった。
言葉をかけるべきか迷ったが、どんな言葉も空虚に思えて、しばし黙して座りつづけた。
やがて、シルヴィアがわずかに瞼を開ける。
ラシェルの気配が離れたこと、そして手のぬくもりで、ギリアンの存在に気づいたようだった。
「……陛下……」
掠れたその声には涙がなかった。だが、深い哀しみが滲んでいた。
「申し訳ございません……。陛下の子を、……失ってしまいました……」
ギリアンは、シルヴィアの手を静かに、けれど強く握り返した。
「……『王』として申し上げます。まず、身体を休めてください。ヴァロニアで最も高貴な貴女を、誰も責めることはありません。……よくある事です。……僕の母も、二人、子を失っています。子は、また授かればいい……。療養が必要ならば、しばらく実家へ戻られても良いし、母国の乳母や乳姉妹をこちらに呼んでも構いません」
その言葉は、どこか台本のようだった。
聞き慣れた理性と義務の仮面が、ギリアンの声に重なっていた。
「……優等生の……答え、ですね……」
シルヴィアは、微笑もうとしたのかもしれない。
けれど、その口元は震えていた。
ギリアンは彼女の手を包み込んだまま、うつむく。
「……本当は……僕のせいです」
その言葉は、誰にも聞かれたくないように、小さく、苦しげだった。
「……あなたを、遠ざけたままにしていた。話すことも、触れることも……避けてばかりだった」
ぽと、ぽとと、涙が落ちる音がした。
シーツの上に染みていくその音に、シルヴィアは目を見開いた。
「……あなたの身体のことも、心のことも、何ひとつ知らなかった。知ろうともしなかった。それでも、父になれると……思っていた」
ギリアンの声は震え、抑えきれぬ悔いがにじんでいた。
「僕は……父親として、失格です。夫としても……あなたの傍にいる資格もない。こんな僕が、王になって良かったのか……今でも答えが出ない……」
それは、かつて父に否定され続けた少年が、心の底で抱えていた痛みの告白だった。
長い沈黙が、ふたりの間に落ちる。
やがて――
シルヴィアはそっと手を伸ばし、ギリアンの頬に触れた。
流れ落ちた涙の跡を、指先でそっとぬぐう。
そして、ギリアンの手に、自分の手を重ねた。
「……わかっているんです。誰のせいでもない。あなたのせいでも……わたしのせいでもない。ただ……わたしの中に確かにいた命と、あまりに突然の別れが……悲しくて……」
弱々しい声だったが、その瞳には、確かな意志が宿っていた。
「……婚礼の夜、わたしは誓いました。王妃になると。あなたを王にすると。王に、子を授けると」
ギリアンは目を伏せ、静かに耳を傾ける。
「わたしは、あなたを――」
そこまで言いかけて、シルヴィアは口をつぐんだ。
その続きを告げるには、まだ少しだけ時間が必要だった。
だが、ギリアンには、それで十分だった。
シルヴィアが自分の手を取ってくれたこと、それがすべてだった。
「……シルヴィア。王と王妃としてではなく、……僕の伴侶として、僕と一緒に、生きてもらえますか……?」
その問いに、シルヴィアは小さく、けれどはっきりと頷いた。
ふたりの間を隔てていた冷たい壁が、そっと溶けはじめた瞬間だった。
この夜、ギリアンは初めて、王妃ではなく、たったひとりの女性としてのシルヴィアの手を握った。
父になることの痛みも、希望も、その手のぬくもりと共に。
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