氷の王と炎の王妃

藤井 紫

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第五章 夜の海を揺蕩う舟のように

夜の営み

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 扉の奥から、ごく微かな声と、衣擦れの気配がした。
 ただそれだけで、意味を持ってしまう。
 この時間に、王が王妃を訪れるというだけで、すでに意味は十分だった。



「王が王妃様の私室へ来られるって、……なんだか、胸がどきどきしてしまいますわ」
 リアナが小さな声で囁いた。
 壁にもたれて椅子に座り、前室の灯の下で膝に手を重ねる。
 その表情は少女らしく、少し頬を赤らめてさえ見える。

「夜勤中に、王妃様のご様子が……少しでも聞こえてしまったりすること、ありませんの?」
 そう言って、冗談めかした微笑みを浮かべた。

 ラシェルは反応に迷い、少し目をそらした。
「……控室では何も聞こえません。夜勤の侍女は、王妃様の邪魔にならないように、静かにしていますから」

「まぁ、それは当然ですわね。でも……」
 リアナはいたずらっぽく微笑を深める。
「例えば、王妃様のお声が少しでも聞こえたら、どんな風にされているのか、気になって仕方ないと思いません?」

「り、リアナ様っ……!」
 ラシェルは真っ赤になって、声を抑えながら睨むように言った。
「それは、その……あまりお行儀の良い話ではありません」

「ごめんなさい。わたくし、少しおませだったようですね」
 けれど、その声音は悪びれるどころか、むしろ様子を伺うように滑らかだった。
「でも、夜に王が王妃様のお部屋を訪れるなんて、そう滅多にあることじゃないと思ってたんです。やっぱり、シルヴィア様は……特別なお方なのね」

 ラシェルは口を閉ざす。

 シルヴィア様は、特別――
 その言葉に込められた意味を、ラシェルは正面から受け止める。

 一瞬、扉の方に視線を向けたリアナは、ふと声の調子を変えた。
「そういえば、ラシェル様には、恋人がおられるんですってね」

「恋人……、ホープ様のことですか?」
「はい。結婚を前提に、もう夜のご関係もお有りだとか……?」
 ラシェルは目を丸くして、慌てて否定する。

「ち、違います! 私たちはそのような関係ではありませんし、結婚の予定もありません!」

「あら、違うんですか?」
 リアナは無邪気に首を傾げてみせる。
「とても仲が良いと聞きましたわ。わたくし、てっきり……」

「お互いに、それぞれの役目がありますから」
 ラシェルの声音が少しだけ硬くなる。
「私は王妃様にお仕えする身です。ホープ様は王のお側。……お互いに、それ以上を望むことはありません」

 リアナは、紅茶の入った銀のカップをくるりと回しながら、ふと目線を扉に向けた。

「でも……心が惹かれるのに、立場で線を引くなんて、少し悲しくありません?」
 そう言いながら、目線はラシェルの頬へと滑る。

「王妃様と陛下も、もしかしたら……最初はそんな線の外にいたかもしれませんのに」

「……それは……」
 ラシェルは言いかけて、言葉を飲んだ。

 ギリアンとシルヴィア。
 まして、シルヴィアは敵国の敵派閥の下級貴族だった。
 決して出会うはずのなかった二人が結ばれた奇跡。

 ……と、言いたいところだが。
 これは『奇跡』ではない。
 兄ヴィンセントに仕組まれた『計略』である。
 真実は知らない方がロマンチックだ。


 ラシェルの戸惑いに、リアナは気づかぬ様子で微笑を浮かべたまま、小さく囁いた。

「夜の営みって……やっぱり、大切なんですってね。母が言ってましたわ。男女関係は、そこが肝心だって」
 そして、わずかに首を傾げる。
「王妃様と陛下も……きっと、きちんとされていらっしゃるのですよね?」

 それは穏やかな声だったが、明らかに試すような一言だった。

 ラシェルは黙り込んだ。
 何を答えるのが正しいのかわからなかった。

 扉の奥から、ごく小さな笑い声がかすかに響いたような気がした。






(やっぱり、何かある)

 リアナの瞳の奥で、氷のように冷静な光がわずかに瞬いた。
 隣に座るラシェルの美しい横顔を見つめる。

 ラシェルという少女は、誠実で、正直だ。
 表情の変化も、声音の揺れも、そのまま情報として読み取れる。
 だからこそ、こちらが一歩踏み込むと、ラシェルの反応には微細な乱れが生まれる。

 ――夜の営み。
 それは、夫婦の証であり、妊娠の前提でもある。
 シルヴィアがヴァロニアに嫁して二年。
 今だに子が生まれていない。 

 王妃の『不妊説』は、リアナの心にまだ仮説としてしか存在しない。
 だが、確証が得られれば、自分の立場を大きく変える鍵にもなる。

(もし……夜の営みが無いなら、それはそれで先に進めば良い。有るのに、結果が出ないのなら――)

 そっと瞼を伏せ、リアナは唇に指を添えた。

(お兄様が言っていた。ルビ様は完璧な王妃だったと。……ならば、わたくしが探るしかない)

 完璧など、存在しない。
 見せかけの『理想』の裏には、必ずほころびがある。
 そして、それは、の方かもしれない。

(ラシェル様は知らないのね。けれど、知らないままでは済まさない)

 リアナはにこりと微笑んだ。
 柔らかく、あくまでも無邪気に。

(近いうちに、あなたの性の知識を補ってあげなくてはなりませんわね)

 カップの中の紅茶は冷めていた。
 けれど、リアナの胸の奥では、小さな火が静かに灯っていた。
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