【完結】氷の王と炎の王妃

藤井 紫

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第六章 でも、もう少しだけ

僕の目指すべき理想は、彼とは行き先が違う

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 秋が深まり、夜の気配が重くなる。  
 王妃シルヴィアは静かに執務室の扉を叩いた。  
 机に向かうギリアンの姿が、暖炉の明かりに浮かび上がる。  
 その横の、いつもヴィンセント卿が座っていた椅子は、今は空いていた。

「……やっぱり、本当にいないのですね……」

 シルヴィアの声に、ギリアンは顔を上げた。手元の書類の手を止め、静かに言った。

「いなくなったのは、昨日の夜だ」
「何処へ行かれたのでしょう?」
「誰にも告げていない。ただ、一言だけ、僕宛ての文を残していった」

 ギリアンはその手紙を見せようとはしなかった。
 だがシルヴィアは、ギリアンの態度に怒りも困惑も見えないことに気付いた。

「……陛下は……こうなる事を、予想していたのですか?」
「うん。むしろ、長く留まってくれたと思ってる」

 ようやくギリアンは視線をシルヴィアに向けた。
 その瞳に宿るのは、諦念でも寂しさでもない。
 送り出した者の眼だった。

「ヴィンセント卿は……何かを見てしまったんでしょうか。まだ、わたしたちには見えていないものが」

 シルヴィアの言葉に、ギリアンは微かに笑った。

「そうだ。彼は、今のヴァロニアにはもう用はない。自分の計画が滞りなく進むところまで辿り着いたんだ」
「ヴィンセント卿は……失敗しない方ですよね?」
「……よく、覚えているね」

「……王政改革、でしょうか? それとも、『シュケム論』の実現、ですか?」

 その名を口にした瞬間、ギリアンの眉がぴくりと動いた。

「……あなたも、『シュケム論』を知っているのですか?」
「……いえ、内容までは存じませんが、リアナと、少し話したのです」

「……となると、リアナとレオナールも、『シュケム論』に触れている可能性があるのか」

 ギリアンは椅子から立ち上がり、暖炉の火を見つめ、何か思案しているようだった。
 その背中は、どこか孤独で、そして――王の背だった。

「……あれは、氷の王家や教会にとっては、焚書にされるべくしてされた論文です。神に選ばれし王家の血であることに、意味があるのかを問われる。今の僕の立場においては、とても危険な思想だ。だから、教会は『シュケム論』を、神殿を焼き尽くす『焔』だと恐れたのです」

 シルヴィアは、その言葉にどこか炎派の理論に近いものを感じた。
 そして、そう話すギリアンは『シュケム論』を危険だと思っていないことも。

「だが、僕には見えている。ヴィンセントが目指す理想が。彼は、聖地をただの象徴だと言った。けれど――」

 ギリアンは振り返り、真っ直ぐにシルヴィアを見つめた。

「――その象徴のために、生きて、闘ってきたのが僕だ。ヴィンセントのようにはなれないが、あいつが求めた『境界なき未来』に、僕も少しずつ手を伸ばしている」

 言葉がシルヴィアの胸にしみた。
 この人もまた、あの男に動かされた者なのだ。


 そして、ギリアンはポツリと呟いた。
「いずれ、また道は重なるかもしれない」


「……ヴィンセント卿の後任は、どなたが?」
「レオナール・フォン・グラディス。ヴィンセントの代わりはいないが、彼なら王宮の秩序は維持されるでしょう」

「ええ……わたしも、そう思います」

 ヴィンセントの不在。それは、何か大きなうねりの予兆だった。
 王妃の胸に、微かな不安と、それ以上に―― 王として歩む夫と共に、まだ見ぬ未来を切り開く覚悟の火が、静かに灯っていった。
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