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第七章 闇の中に溶ける
記憶の代償
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目が覚めたとき、頬にはまだ涙の跡が残っていた。
胸が痛む。けれど、その痛みさえも、たしかに現実の証のようだった。
薄紫の煙が、闇の中で溶けそうに揺れていた。
「……夢……?」
正面の椅子には、魔女が変わらず座っていた。
静かに、こちらを見ていた。
「幻覚よ。……でも、あなたの中から出てきたもの。自分か、誰かの、過去かもしれないし、未来かもしれない。真実か、願望か……」
魔女はそう言って微笑んだが、その声には試すような響きがあった。
シルヴィアは身を起こし、しばし黙ったまま、夢の余韻を噛み締める。
そして、低く、しかしはっきりと告げた。
「わたし、やっぱり……記憶は、渡せません……」
「そう」
「苦しくても、あの子を……わたしの中から消したくないんです。わたしにとっては、生きていた子なんです」
その言葉に、魔女は目を細める。
紫の煙がふわりと宙を漂った。
「……その子の記憶を抱えたまま、ずっと泣くことになるわ」
シルヴィアは唇を噛む。
けれど、それでも――諦めきれなかった。
「記憶ではなく……何か、別の代価ではいけませんか……」
魔女はシルヴィアの首元に手を伸ばした。
シルヴィアが目印に着けていた、黒い宝石のネックレスを掌の上に載せた。
代理戦争で、ギリアンが実姉のリナリーから取り戻してくれた、あの『王妃の証』。
「これは?」
魔女はその石にちらりと視線をやった。
くすりと笑いながら、石から手を離す。
シルヴィアは躊躇った後、胸元に手をやる。
静かに、オニキスのネックレスを掌に包んだ。
黒の石が、淡く光を反射する。
「これを……代わりに? これは、ギリアンが、ヴィンセント卿が、命がけで奪還してくれたもの。昔のヴァロニア王妃に贈られ、代々……」
シルヴィアの手が、わずかに震えた。
これは黒髪の正当性を示すものではなく、『王妃の信念を示すもの』だとギリアンは言ってくれた。
シルヴィアの喉が鳴る。
「……わたしは、彼の子を……もう一度、宿したい。この命を、未来に繋げるためなら……その覚悟は、あります。……子どもを授かるためなら、わたしは、差し出しても構いません」
シルヴィアは、ネックレスを外し、魔女に差し出した。
差し出されたネックレスを、魔女はじっと見つめた。
その顔に、何かの感情が影のように走る。
そして――くす、と笑った。
「ふふ……ちょっと意地悪しちゃった。本当に渡すなんて思わなかった。それを受け取ったら、わたくし、あの方に怒られてしまうわ。『余計なことをするな』って」
「あの方……?」
シルヴィアは戸惑い、ネックレスを引っ込めかけた。
だが魔女は、優しくその手を押し戻しながら言った。
「でも、残念だけど、それを差し出されても、妊娠できるようにはしてあげられないわ。記憶を消す以外に、わたくしが手助けできることはないの」
「そんな……。魔女様は嘘をつかないと聞いていたのに……」
「わたくし、嘘なんか言ったかしら? でも、あなたが羨ましかったの。魔女になったら、もう子どもは産めないから」
シルヴィアの手の中で、オニキスが冷たく沈黙する。
肩を落としかけたシルヴィアに、魔女はふと、柔らかな声で言った。
「……わたくしも、子を産んだことがあるの」
魔女の声は、意外なほど穏やかだった。
けれど、その言葉の奥には、誰にも見せぬ傷がひそんでいるようだった。
「その子は、わたくしを必要としなかった。血が繋がっていても、親子になれないことってあるのね」
シルヴィアは言葉を失い、美しい魔女の横顔を見つめる。
「でも逆に、血が繋がっていなくても、親を求めてくれる子もいる。……親子って、不思議ね。選ぶものなのかもしれないわ」
それはまるで、自分自身に語りかけるような声音だった。
「愛したくても愛せない親がいて、愛されたいのに届かない子がいる。育てたくても育てられない、手放すしかない親も……この世界には、選ばれなかった命がたくさんいるの。
人間を生めるのは、人間だけ。だから余計に、親子と言うのは、難しいわ」
魔女はゆっくりとシルヴィアに視線を戻す。
火の揺らめきがその瞳に宿っていた。
「でも……あなたは『炎の女』でしょう? 誰の『血』かじゃなくて、誰の『想い』を選べる女」
その言葉に、部屋の空気がふっと沈黙に包まれる。
紫の香煙が、やさしく夜をなぞるように揺れていた。
「……魔女様がそんな、人間みたいなことを言うなんて」
小さく呟いたシルヴィアに、魔女はくすりと微笑んだ。
「だって、悪魔は、そういう人間のエゴが、大好きなのよ」
ぱち、と焚き火が鳴った。
その音だけが、二人の間に、変わらぬ時間を刻んでいた。
やがて、魔女が立ち上がり、小さな瓶を手に取る。
黒曜石のような光沢のあるガラスには、薄紫の封蝋が施されていた。
「ひとつ、置いておくわ。妊娠というのは、女だけの問題じゃない。これは男の方に働きかける薬。あの方の為に作っているところなのだけど、先にあなたにあげる」
冗談めかすように微笑みながら、テーブルにそっとそれを置く。
「飲ませるかどうかは、あなた次第。選ぶのは、『炎の女』の特権よ。王妃様?」
魔女はそれ以上は何も言わず、ゆっくりと部屋を後にした。
静けさだけが残された室内で、シルヴィアは、光を反射する瓶を見つめながら、胸の奥で小さく何かがほどけていくのを感じていた。
胸が痛む。けれど、その痛みさえも、たしかに現実の証のようだった。
薄紫の煙が、闇の中で溶けそうに揺れていた。
「……夢……?」
正面の椅子には、魔女が変わらず座っていた。
静かに、こちらを見ていた。
「幻覚よ。……でも、あなたの中から出てきたもの。自分か、誰かの、過去かもしれないし、未来かもしれない。真実か、願望か……」
魔女はそう言って微笑んだが、その声には試すような響きがあった。
シルヴィアは身を起こし、しばし黙ったまま、夢の余韻を噛み締める。
そして、低く、しかしはっきりと告げた。
「わたし、やっぱり……記憶は、渡せません……」
「そう」
「苦しくても、あの子を……わたしの中から消したくないんです。わたしにとっては、生きていた子なんです」
その言葉に、魔女は目を細める。
紫の煙がふわりと宙を漂った。
「……その子の記憶を抱えたまま、ずっと泣くことになるわ」
シルヴィアは唇を噛む。
けれど、それでも――諦めきれなかった。
「記憶ではなく……何か、別の代価ではいけませんか……」
魔女はシルヴィアの首元に手を伸ばした。
シルヴィアが目印に着けていた、黒い宝石のネックレスを掌の上に載せた。
代理戦争で、ギリアンが実姉のリナリーから取り戻してくれた、あの『王妃の証』。
「これは?」
魔女はその石にちらりと視線をやった。
くすりと笑いながら、石から手を離す。
シルヴィアは躊躇った後、胸元に手をやる。
静かに、オニキスのネックレスを掌に包んだ。
黒の石が、淡く光を反射する。
「これを……代わりに? これは、ギリアンが、ヴィンセント卿が、命がけで奪還してくれたもの。昔のヴァロニア王妃に贈られ、代々……」
シルヴィアの手が、わずかに震えた。
これは黒髪の正当性を示すものではなく、『王妃の信念を示すもの』だとギリアンは言ってくれた。
シルヴィアの喉が鳴る。
「……わたしは、彼の子を……もう一度、宿したい。この命を、未来に繋げるためなら……その覚悟は、あります。……子どもを授かるためなら、わたしは、差し出しても構いません」
シルヴィアは、ネックレスを外し、魔女に差し出した。
差し出されたネックレスを、魔女はじっと見つめた。
その顔に、何かの感情が影のように走る。
そして――くす、と笑った。
「ふふ……ちょっと意地悪しちゃった。本当に渡すなんて思わなかった。それを受け取ったら、わたくし、あの方に怒られてしまうわ。『余計なことをするな』って」
「あの方……?」
シルヴィアは戸惑い、ネックレスを引っ込めかけた。
だが魔女は、優しくその手を押し戻しながら言った。
「でも、残念だけど、それを差し出されても、妊娠できるようにはしてあげられないわ。記憶を消す以外に、わたくしが手助けできることはないの」
「そんな……。魔女様は嘘をつかないと聞いていたのに……」
「わたくし、嘘なんか言ったかしら? でも、あなたが羨ましかったの。魔女になったら、もう子どもは産めないから」
シルヴィアの手の中で、オニキスが冷たく沈黙する。
肩を落としかけたシルヴィアに、魔女はふと、柔らかな声で言った。
「……わたくしも、子を産んだことがあるの」
魔女の声は、意外なほど穏やかだった。
けれど、その言葉の奥には、誰にも見せぬ傷がひそんでいるようだった。
「その子は、わたくしを必要としなかった。血が繋がっていても、親子になれないことってあるのね」
シルヴィアは言葉を失い、美しい魔女の横顔を見つめる。
「でも逆に、血が繋がっていなくても、親を求めてくれる子もいる。……親子って、不思議ね。選ぶものなのかもしれないわ」
それはまるで、自分自身に語りかけるような声音だった。
「愛したくても愛せない親がいて、愛されたいのに届かない子がいる。育てたくても育てられない、手放すしかない親も……この世界には、選ばれなかった命がたくさんいるの。
人間を生めるのは、人間だけ。だから余計に、親子と言うのは、難しいわ」
魔女はゆっくりとシルヴィアに視線を戻す。
火の揺らめきがその瞳に宿っていた。
「でも……あなたは『炎の女』でしょう? 誰の『血』かじゃなくて、誰の『想い』を選べる女」
その言葉に、部屋の空気がふっと沈黙に包まれる。
紫の香煙が、やさしく夜をなぞるように揺れていた。
「……魔女様がそんな、人間みたいなことを言うなんて」
小さく呟いたシルヴィアに、魔女はくすりと微笑んだ。
「だって、悪魔は、そういう人間のエゴが、大好きなのよ」
ぱち、と焚き火が鳴った。
その音だけが、二人の間に、変わらぬ時間を刻んでいた。
やがて、魔女が立ち上がり、小さな瓶を手に取る。
黒曜石のような光沢のあるガラスには、薄紫の封蝋が施されていた。
「ひとつ、置いておくわ。妊娠というのは、女だけの問題じゃない。これは男の方に働きかける薬。あの方の為に作っているところなのだけど、先にあなたにあげる」
冗談めかすように微笑みながら、テーブルにそっとそれを置く。
「飲ませるかどうかは、あなた次第。選ぶのは、『炎の女』の特権よ。王妃様?」
魔女はそれ以上は何も言わず、ゆっくりと部屋を後にした。
静けさだけが残された室内で、シルヴィアは、光を反射する瓶を見つめながら、胸の奥で小さく何かがほどけていくのを感じていた。
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