【完結】氷の王と炎の王妃

藤井 紫

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第七章 闇の中に溶ける

母と子 ※センシティブ(被虐待)

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・゜゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*:.。..。:*・゜゜・*:.

 ──霧の中にいた。

 辺り一面、濃密な紫の靄に包まれていた。
 それでも、シルヴィアにはすぐにわかった。ここは、ヴァロニア王宮の廊下――シルヴィアが何度も歩いた場所だ。
 静まり返る中、後ろから声をかけられた。

「……母上」

 胸の奥に届くような、澄んだ男の子の声だった。
 振り返ると、少年が立っていた。
 そこにいたのは──黒髪の少年。八歳位の、あどけなさと影を併せ持つ顔立ち。
 その瞳は、どこまでも透きとおるような青。夜の湖面に浮かぶ月光のようだった。
 けれど、衣服は王族のもので、立ち方には品がある。

「ごめんなさい、母上。僕……」

 少年は、少し俯いたが、勇気を出すように顔を上げて言った。

「僕のせいで……。僕がいなければ、母上は……」

 その声が、あまりにも優しくて、痛かった。
 ──あなたは、生まれてくるはずだった命?
 流れてしまった、あの子なの?

「……あなたは……だれ……?」

 震える声が漏れる。シルヴィアの喉が引き攣った。

「母上、ギルです……」
「……ギル?」

 シルヴィアがその子に手を伸ばそうとした瞬間──



 そこは廊下ではなく、重々しい石造りの広間だった。
 天井は高く、黒い鉄の燭台が冷たい光を放っていた。
 窓はなく、壁の隙間から差す曇天の光が薄く床を照らしている。

 その床に、少年が押し倒されていた。

 先ほどの黒髪の少年。
 その上に、厳しい眼差しをした男が何かを構えて立っている。
 その手には、大きな鋏が握られていた。

 金の王冠をいただき、黒の外套をまとったその男の顔は──ギリアンそのものだった。
 けれど、その瞳には冷たい怒りと猜疑、そして容赦ない断罪の光が宿っていた。

「やめて!! やめてください!! 陛下!!!」

 シルヴィアは思わず叫び、駆け出す。

「イザベラ。お前が……悪魔と、不貞を働いた。悪魔の子を産んだ、お前は、魔女だ……」

 その声は、空気を裂く刃のようだった。

 ──イザベラ。
 それは、ギリアンの母の名。
 けれど今、その名は、シルヴィアに向けられていた。

 シルヴィアは立ちすくむ。
 幻であるとわかっていても、胸の奥がずしりと沈む。
 その声は、現実とも幻ともつかず、重く胸に突き刺さった。

 思わず後ずさった足元が崩れそうになる。
 幻の王は、冷たく笑ったまま、黒髪の少年の髪を鋏で切り落とす。

「王家の血に、黒髪など存在しない」

 ばさり、と髪が落ちる音。
 その音が、心臓を裂いた。

 少年は、俯いたまま、細い声で呟いた。

「ごめんなさい……母上」

 そして、ぽたりと涙を落とすと、その小さな体を震わせながら、シルヴィアの胸に飛び込んできた。

「やめて! ……彼は、悪魔の子ではありません……!」
 シルヴィアの叫びは、石壁に虚しく反響するだけだった。

 うずくまる少年が、肩を震わせている。

「母上……」

 弱々しい声が、床から響いた。
 その小さな肩が揺れる。やがて、顔を上げた少年は、涙に濡れた瞳でシルヴィアを見つめた。



 明るい日差し。
 庭園のベンチ。そこに、少年のギリアンが座っていた。
 短く刈られた髪に、やせ細った肩。それでもその顔には、微笑みがあった。
 その隣に、金の髪の女性が黒いドレスを着て座っている。

「母上」

 その声は、隣の女性にかけられた。恐らく、イザベラ王妃。
 静かに微笑んで、髪を切り落とされた息子の頭を撫でる。

 彼女の瞳には優しさが宿っていた。

「母上、ごめんなさい……僕、王様になれそうにありません。だって、髪の色が黒いから……皆が言うんです、僕は悪魔の子だって」

 震える手で、自分の切られた髪に触れながら、少年は続けた。

「母上は、僕が黒髪で、嫌だと思ったこと……ありませんか?」

 その目には、幼さの奥にある絶望が滲んでいた。
 シルヴィアは一歩、少年に歩み寄る。

「そんなこと……ないわ。あなたは、大切な──」

 イザベラ王妃は答えようとしたが、少年はそれを遮るように言った。

「母上が髪を撫でてくれた夜のこと、今でも……夢で見ます。でも、目が覚めると……いつも、怖い。僕のせいで、母上が泣いてる気がするから……」

 そして、ぽつりと続けた。

「だから、母上が幸せになれるなら、僕は……いなかったことにしてくれませんか」

 シルヴィアは、胸を押さえて立ち尽くす。

「どうして、そんなことを……」
 イザベラの声。

「……どうして……そんな……」
 イザベラと重なるシルヴィアの声。

 それに気づいた少年はベンチから立ち上がり、よろめくように歩いてきた。
 涙で濡れた頬をそのままに、シルヴィアの腰に抱きつく。

 その小さな手は、震えていた。
 幻なのに、あまりにも温かくて、現実のようだった。

「……わたしは、あなたをいなかったことにはしたくないの」

 シルヴィアは、涙を流しながらその子の背を抱いた。

 ──この子を、忘れない。痛みも悲しみも、全部、わたしのもの。

「母上……会いたいです」

 その細い腕が、必死にシルヴィアにしがみついてくる。
 小さな体の震えが、直に伝わる。

 涙が、止まらなかった。
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