【完結】氷の王と炎の王妃

藤井 紫

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第八章 王は王妃を寵愛している

無自覚な偏見

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「――お好きですか? この香り」

 柔らかな声が背後からかけられた。
 振り返ると、修道服に身を包んだ一人の中年の修道女が立っていた。

 五十歳ほどの年頃だろうか。
 白い肌、蒼の瞳。加齢で色が淡くなった金の髪は丁寧に隠されている。
 顔には薄く皺が浮いていたが、落ち着いた佇まいは気品を帯びていた。

「こちらは、当修道院で奉仕しておられる、リズというシスターです。主に、小さな子どもたちと関わって下さっております」
 院長が紹介すると、リズと名乗る修道女は、静かに一礼した。

 院長は、リズに果樹園の案内を任せると、自身の仕事へと戻っていった。

「初めまして。子どもたちと花摘みの仕事を任されております」

「お目にかかれて光栄です、シスター・リズ」
 シルヴィアも丁寧に微笑みを返した。

 リズは子どもたちの方を見て、優しい目を細める。

「……黒髪の子どもたちにとっては、金髪は恐ろしく見えるのでしょうか。なかなか心を開いてくれません。髪の色一つで、追われ、恐れられ、時に捨てられ……。それでも、花の香りだけは、彼らの心に穏やかなものを残してくれると良いのですけど……」

「もしかして、支援要請は、彼らのことですか?」
「……おっしゃる通りです。どうしても、黒髪を恐れる者がいて……」

「……それでも、貴女は分け隔てなく接しておられるのですね」

「子どもには、罪はございません」

 優しそうに言うが、その言葉に、シルヴィアは小さな違和感を覚えた。
 考えすぎかもしれない――。
 しかし、優しげな口調の奥に、無意識の断絶を感じた。

 誰かが罪を持ち、罰されるべきだとでもいうような響き。
 それが、黒髪の子どもたちや、その親を指しているのだとしたら――

 その一言に滲む、この国に長く染みついた偏見の残り香。

 たとえ悪意がなくとも、その言葉がこの国の根深い差別の一端であることを、シルヴィアは痛いほど知っている。

 シルヴィアは、怒りを悟られぬよう、声を低く、落ち着いて返した。



「この国の王は、黒髪であらせられます」



「……失礼致しました……。決して黒髪が罪と言うわけではなく……」

 リズは顔を下げ、さりげなく、自身の頭巾を指先で整えた。
 シルヴィアはその仕草にふと目をとめ、彼女の顔を静かに見つめた。

「ええ、その通りです。黒髪の、大人にも罪はありませんし、産んだ親も同じです」

 シルヴィアの言葉に、リズはわずかに瞠目した。


 風が、二人の間を通り過ぎる。

「――もし、子どもたちに必要なものがあれば、どうか遠慮なくお申し付けください」
 王妃の言葉は、凛としながらも、温かかった。

 リズはそっと微笑んだ。
「ありがとうございます。王妃様……いえ、貴女のお心に、天使の御加護がありますように」

 シルヴィアは、そう言ったリズの顔に、どこかで見覚えがある気がした。
 その祈りの言葉を聞きながら、彼女をどこで見たのか記憶をたどる。
 けれど思い出せない――。

 果樹園の一角を離れた小道を、シルヴィアとリズの二人は並んで歩いていた。
 空は澄みわたり、遠くでは子どもたちの笑い声が風に乗って聞こえてくる。
 摘み取られた花々と若葉の香りが、春らしい陽気のなかにほんのりと混じっていた。

「……葡萄が有名だと聞いておりましたが、苦橙オレンジブロッサムも育てておられるのですね」

 シルヴィアがふと口にすると、リズは静かに頷いた。

「今は芽吹きの季節ですが……昨年の秋には、良い葡萄がたくさん採れました。あの葡萄からは、モンタルヴァンが作られます」

「――それは、あの、王家御用達のワインですか?」

「はい。もともと、この修道院の北の斜面は、ヴァロニアでも良質の葡萄が育つと有名なのですよ」

 リズは控えめに語りながらも、その声音にはどこか懐かしさが滲んでいた。

 シルヴィアは少し驚いた顔をした後、悪戯っぽく微笑む。

「……わたしはシーランドの生まれですので、渋めのワインは、まだ飲み慣れていなくて。……正直に言うと、苦手なんです。甘口のリセール修道院のワインはとても美味しかったのですけど。……お恥ずかしながら、飲みすぎて、悪酔いしてしまいました」

 すると、リズがふと足を止めて、柔らかく問いかける。

「――では、一度モンタルヴァンを沸かしてから、お試しください」

「ワインを、ですか?」

「ええ。小鍋に移して、少し火にかけるのです。そうすると、酸味も渋みも、ふわっと消えるのですよ。悪酔いもしませんし、香りはそのまま、甘くて濃い……まるで果実水を凝縮したような芳醇な味になります」

 リズの声は穏やかだった。
 まるで、遠い記憶のなかの風景を語るように、目を細めながら続けた。

「……味が濃厚ですので、子どもが風邪を引いた時、薬草を混ぜて飲ませるのにも適しています。湯気の向こうに浮かぶ葡萄の香りは、熱でうなされた子の目にも、安らぎを与えるようです」

 シルヴィアは、言葉を失ったまま立ち尽くした。


 子どもに、モンタルヴァンを?
 王家の宴席に供されるような銘酒を、わざわざ沸かして? 薬と一緒に飲ませる?

 そんなことを、誰がするというのだろう。

 王家の台所に関わった者でも、修道女でもなく――


 瞬間、シルヴィアの背筋に、ひやりとした感覚が走った。
 ストールの下に着けているオニキスのネックレスの感触が、妙に重たく感じられる。

「……あなたは、」

 声にならない声が、唇をかすめる。

 リズは微笑んだまま、何も言わなかった。
 ただ、シルヴィアを見つめて、優しく微笑んでいるだけだった。

「……王妃様。どうか、子どもたちに、温かな場所を。髪の色に関わらず、愛されて育って欲しいのです」

 その少し皺の浮いた顔から、シルヴィアは目を離すことが出来なかった。

 まるで王妃の肖像画から抜け出したような――
 だけど、もっと生きた、もっと強くて、もっと優しい光をまとった女性。

「……はい。約束します。わたしが、この国の王妃として、出来る限りのことを」

 シルヴィアは深く頷き、その場で静かに礼をした。
 リズは、何も言わずに受け止め、子どもたちの方へと歩き出した。
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