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第八章 王は王妃を寵愛している
オレンジの白い花
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五月。山間に吹く風には、まだ涼やかな名残があったが、ツンゲン領の谷には緑が満ち、陽光はやわらかに降り注いでいた。
標高の高い場所に建つモンドメーヌ修道院にも、春の息吹は確かに届いていた。葡萄の若木が芽吹き、柑橘の香りが風に乗って礼拝堂に届く。
王妃シルヴィアは、ラシェルと共に、視察を兼ねた静養にやってきた。
静かに祈りを捧げた後、院長に案内されて客間へと移った。
暖炉には小さく火が灯されていたが、室内には春の光が差し込み、炉の香ばしい匂いが漂っていた。
「遠方より、ようこそお越しくださいました、王妃様」
院長は年配の修道女で、茶色の衣の袖を静かに揃えて、深く一礼した。
「こちらこそ、温かく迎えてくださってありがとうございます。道中は少し肌寒いところもありましたが……とても穏やかな場所ですね」
「ええ……私たちにとっては、天に一番近い、祈りの地でございます」
院長は微笑んだが、その目元には、ふと翳りが差した。
その表情を見逃さず、シルヴィアが問いかける。
「院長様。もし、何かお困りのことがあれば、どうか遠慮なくお聞かせください」
「……まあ。殿下は、やはりお優しいお方ですね」
修道女は少しだけ目を伏せ、それから意を決したように語り出した。
「――近年、この修道院にも、事情を抱えた子どもたちが多く参っております」
「事情、とは……?」
「四年程前でしたか、南のヘーンブルグ領で魔女狩りの噂が立ちまして……。多くの黒髪の子どもたちが、聖地方面へ逃げる親に置き去りにされ、保護されたのです。今、院内には六人の黒髪の子が暮らしております」
「四年前……と言うと、陛下の戴冠の年ですね」
シルヴィアが、ヴァロニアに嫁した年であった。
「孤児はたいてい、空腹で、葡萄畑の葡萄や、柑橘の実を盗むところを保護するのです」
その言葉に、ラシェルが小さく息をのんだ。シルヴィアも表情を曇らせる。
「お父様もお母様もいないのですか?」
「はい……中には、姉弟で手を取り合ってここまで来た子もおりましたが……。皆、幼すぎて、出自や本名も定かではありません」
「……こちらでは、どのような生活を?」
「修道女と同じように、祈りと簡素な暮らしの中で育てております。ただ……」
院長の声が少しだけ低くなった。
「金髪の子どもたちとの間に、壁ができてしまっております。誰が悪いというわけではないのですが、子どもたち同士で、髪の色で線引きすることがあって……」
沈黙が流れる。
ラシェルが、シルヴィアの方に小さく目を向ける。
王妃は、唇を引き結びながら、穏やかな声で言った。
「……黒髪の子どもたちは、幸いです。こちらの修道院に辿り着くことができて。けれど……それだけでは、きっと十分ではありませんね」
「はい……。私どもも努力はしておりますが……言葉ではどうにもならないものも、あるようで……」
「それで、費用の面も苦しいと……?」
「ええ……。食事、衣服……必要なものが尽きません。それに、春は葡萄畑の手入れも忙しく、今年は柑橘も豊作でして。働き手は足りず、暖房費もかさんでおります。でも、それ以上に、やはり元々居た子どもたちとの間に、心の壁があって……」
院長はそれ以上言葉を慎んだ。深く頭を下げたが、それは施しを願う乞いの姿勢ではなく、あくまで誇りを保った一修道女としての礼だった。
シルヴィアは、その頭をそっと手で止め、微笑んだ。
「分かりました。王宮に戻りましたら、必要な支援ができるよう手配いたしましょう。……それと、子どもたちに会わせていただけませんか?」
「もちろん、喜んで――」
院長は目を見開き、深く頷いた。
午後の祈りを終えたあと、院長の案内でシルヴィアとラシェルは、修道院の裏庭へと足を運んだ。
空気は少し肌寒いものの、陽射しは柔らかく、季節の移ろいが肌に感じられる。
吹き抜ける風には、どこか甘く爽やかな香りが混じっていた。
「ここは……果樹園、ですか?」
ラシェルが問いかけると、院長は微笑んで頷いた。
「はい。ツンゲンでは春先の柑橘の香りが、神の癒やしになると信じられております。これは、苦橙ですのよ。今ちょうど、子どもたちが、摘花の作業をしているところです」
「摘花……?」
ラシェルは不思議そうに首を傾げる。
建物のすぐ横の庭では、数人の子どもたちが枝から摘み取った白い花を、小さな籠に入れていた。
枝には若葉が芽吹き始めており、陽に透けたその緑が、花の白をより引き立たせている。
子どもたちは皆、真剣な顔で数を数えながら、花を摘んでいた。
その中には、艶やかな黒髪の子どもたちの姿もあった。
金髪の子たちとは自然に距離を取りながら、少し離れた場所で花摘みに集中している。
「私、子どもたちとお話ししてきても良いでしょうか?」
ラシェルの好奇心に、院長は微笑みで返事をした。
それを確認すると、ラシェルは子どもたちの近くへと小走りに走っていった。
「……黒髪の子どもたちですね」
シルヴィアがそっと目を細めた。
「ええ……。皆、事情があってこの修道院に辿り着きました」
院長の声には、静かな憐れみと祈りが込められていた。
風が一筋、枝を揺らし、甘い香りがふわりと鼻先をくすぐった。
「……この香り」
シルヴィアはふと立ち止まり、空を仰いだ。
「どこかで、嗅いだことがある気がします……」
(どこだったかしら……)
懐かしいような、胸の奥を擽るような――
春の庭を閉じ込めたように、甘く、どこか切ない香りだ。
「もしかして、これはオレンジの花の香り……?」
「摘花した花弁は、乾かして香油にしたり、祈りや薬草浴に使います」
院長が説明する。
その時。
「――お好きですか? この香り」
標高の高い場所に建つモンドメーヌ修道院にも、春の息吹は確かに届いていた。葡萄の若木が芽吹き、柑橘の香りが風に乗って礼拝堂に届く。
王妃シルヴィアは、ラシェルと共に、視察を兼ねた静養にやってきた。
静かに祈りを捧げた後、院長に案内されて客間へと移った。
暖炉には小さく火が灯されていたが、室内には春の光が差し込み、炉の香ばしい匂いが漂っていた。
「遠方より、ようこそお越しくださいました、王妃様」
院長は年配の修道女で、茶色の衣の袖を静かに揃えて、深く一礼した。
「こちらこそ、温かく迎えてくださってありがとうございます。道中は少し肌寒いところもありましたが……とても穏やかな場所ですね」
「ええ……私たちにとっては、天に一番近い、祈りの地でございます」
院長は微笑んだが、その目元には、ふと翳りが差した。
その表情を見逃さず、シルヴィアが問いかける。
「院長様。もし、何かお困りのことがあれば、どうか遠慮なくお聞かせください」
「……まあ。殿下は、やはりお優しいお方ですね」
修道女は少しだけ目を伏せ、それから意を決したように語り出した。
「――近年、この修道院にも、事情を抱えた子どもたちが多く参っております」
「事情、とは……?」
「四年程前でしたか、南のヘーンブルグ領で魔女狩りの噂が立ちまして……。多くの黒髪の子どもたちが、聖地方面へ逃げる親に置き去りにされ、保護されたのです。今、院内には六人の黒髪の子が暮らしております」
「四年前……と言うと、陛下の戴冠の年ですね」
シルヴィアが、ヴァロニアに嫁した年であった。
「孤児はたいてい、空腹で、葡萄畑の葡萄や、柑橘の実を盗むところを保護するのです」
その言葉に、ラシェルが小さく息をのんだ。シルヴィアも表情を曇らせる。
「お父様もお母様もいないのですか?」
「はい……中には、姉弟で手を取り合ってここまで来た子もおりましたが……。皆、幼すぎて、出自や本名も定かではありません」
「……こちらでは、どのような生活を?」
「修道女と同じように、祈りと簡素な暮らしの中で育てております。ただ……」
院長の声が少しだけ低くなった。
「金髪の子どもたちとの間に、壁ができてしまっております。誰が悪いというわけではないのですが、子どもたち同士で、髪の色で線引きすることがあって……」
沈黙が流れる。
ラシェルが、シルヴィアの方に小さく目を向ける。
王妃は、唇を引き結びながら、穏やかな声で言った。
「……黒髪の子どもたちは、幸いです。こちらの修道院に辿り着くことができて。けれど……それだけでは、きっと十分ではありませんね」
「はい……。私どもも努力はしておりますが……言葉ではどうにもならないものも、あるようで……」
「それで、費用の面も苦しいと……?」
「ええ……。食事、衣服……必要なものが尽きません。それに、春は葡萄畑の手入れも忙しく、今年は柑橘も豊作でして。働き手は足りず、暖房費もかさんでおります。でも、それ以上に、やはり元々居た子どもたちとの間に、心の壁があって……」
院長はそれ以上言葉を慎んだ。深く頭を下げたが、それは施しを願う乞いの姿勢ではなく、あくまで誇りを保った一修道女としての礼だった。
シルヴィアは、その頭をそっと手で止め、微笑んだ。
「分かりました。王宮に戻りましたら、必要な支援ができるよう手配いたしましょう。……それと、子どもたちに会わせていただけませんか?」
「もちろん、喜んで――」
院長は目を見開き、深く頷いた。
午後の祈りを終えたあと、院長の案内でシルヴィアとラシェルは、修道院の裏庭へと足を運んだ。
空気は少し肌寒いものの、陽射しは柔らかく、季節の移ろいが肌に感じられる。
吹き抜ける風には、どこか甘く爽やかな香りが混じっていた。
「ここは……果樹園、ですか?」
ラシェルが問いかけると、院長は微笑んで頷いた。
「はい。ツンゲンでは春先の柑橘の香りが、神の癒やしになると信じられております。これは、苦橙ですのよ。今ちょうど、子どもたちが、摘花の作業をしているところです」
「摘花……?」
ラシェルは不思議そうに首を傾げる。
建物のすぐ横の庭では、数人の子どもたちが枝から摘み取った白い花を、小さな籠に入れていた。
枝には若葉が芽吹き始めており、陽に透けたその緑が、花の白をより引き立たせている。
子どもたちは皆、真剣な顔で数を数えながら、花を摘んでいた。
その中には、艶やかな黒髪の子どもたちの姿もあった。
金髪の子たちとは自然に距離を取りながら、少し離れた場所で花摘みに集中している。
「私、子どもたちとお話ししてきても良いでしょうか?」
ラシェルの好奇心に、院長は微笑みで返事をした。
それを確認すると、ラシェルは子どもたちの近くへと小走りに走っていった。
「……黒髪の子どもたちですね」
シルヴィアがそっと目を細めた。
「ええ……。皆、事情があってこの修道院に辿り着きました」
院長の声には、静かな憐れみと祈りが込められていた。
風が一筋、枝を揺らし、甘い香りがふわりと鼻先をくすぐった。
「……この香り」
シルヴィアはふと立ち止まり、空を仰いだ。
「どこかで、嗅いだことがある気がします……」
(どこだったかしら……)
懐かしいような、胸の奥を擽るような――
春の庭を閉じ込めたように、甘く、どこか切ない香りだ。
「もしかして、これはオレンジの花の香り……?」
「摘花した花弁は、乾かして香油にしたり、祈りや薬草浴に使います」
院長が説明する。
その時。
「――お好きですか? この香り」
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