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後日譚 王の側近と王妃の侍女
そんな話、聞いてません
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それは、夏の午後のことだった。
回廊から差し込む陽光が、王妃の居室を柔らかく照らしている。
一歳になったエリクスは、シルヴィアの膝の上から、ふわりとラシェルの腕へ抱き移されたところだった。
「今日は、少しご機嫌ななめですね、殿下。そろそろ、お昼寝しましょうか」
ラシェルが笑いかけでも、エリクスは何故か不機嫌だった。
その様子を、部屋の隅で手帳を片手にしていたリアナも目を細めて見ていた。
「そうですわね。エリ様、お昼寝いたしましょう」
「昨日夜中にぐずっていたの。眠たいのかもしれな……」
そう答えるシルヴィアの言葉が終わらないうちに、それは起こった。
エリクスの小さな体が、突如ふるっと震え――
「――ケホッ、オエっ」
その声と同時に、エリクスの口から、びしゃり、と温かい液体が吐き出された。
「きゃっ……!」
「エリ様!?」
――その瞬間、リアナが素早くその横から腕を差し出した。
驚きながらも、ラシェルはしっかりとエリクスを抱きかかえている。
リアナの両手は、エリクスの吐瀉物を真正面から受け止めていた。
リアナの顔は真剣そのものだった。
愛用の帳面が床に落ちるのも気にせず、ただ王子の口からこぼれた物を、床や衣服に広げまいと支えていた。
「……王子……だいじょうぶ、だいじょうぶですよ……!」
震える声でそう囁くリアナの姿に、シルヴィアも言葉を失っていた。
* * * * *
それは夏風邪だと思われていたが、後に胃腸炎と診断された。
王子を看病していたリアナとラシェルも、順々に症状が出始め、療養室での隔離となった。
まず、微熱と倦怠感。
次に、嘔吐と下痢……。
三日ほどで症状は落ち着いたものの、一週間は外に出られず、ラシェルとリアナは二人で、離れの療養室に籠っていた。
日頃忙しい侍女たちにとって、静養待機は退屈な日々だった。
「……わたくし、もう、すっかり元気なんですけど。エリ様のお顔を見ないと、どんどん萎れてしまいそうです……」
リアナはベッドで体を起こして座っていたが、不満の声を漏らした。
「まだお部屋を出ちゃいけないって言ったのは、リアナ様じゃないですか……」
「ええ、王妃様に感染ってはいけませんし。本当は十日間隔離のところ、七日に減らして申請しましたわ」
読んでいた本をパタンと閉じて、隣のベッドでおとなしく寝転んでいるラシェルを見やった。
「なんだか、この生活は修道院の部屋を思い出します」
「……リアナ様、修道院にいたこともあるんですか?」
「二年程、女子修道院で学んでおりましたの。厳しかったけれど、友達と一緒の夜は、毎日楽しかったですわ」
そう言ってリアナが笑った時、ラシェルも微笑みを返したが、身体の奥で、別の波が蠢いていた。
「でも、そんな思い出に浸るよりも、わたくし、今は早くエリ様にお会いしたいのです」
リアナは力を取り戻した瞳をキラキラさせながら、小さなプリンスに心をときめかせていたが、ラシェルの内心はそうではなかった。
──まだ、胸の奥がむかむかする。それにまだ、眠っていたい。
熱は下がったし、嘔吐も治まった。
けれど、どうもおかしい。
(……胃腸炎の後遺症かしら……)
食事を口に運ぶたび、何とも言えない違和感がこみ上げてくる。
けれど、それを口に出すのは躊躇われた。
ただの気のせいかもしれない。
皆に心配をかけたくないのもあり、目を閉じて眠りについた。
しかし、隔離も明けたある朝。
ラシェルが王宮の厨房に、王妃の朝食を取りに行った時だ。
狭い廊下にごったがえす人の波に、身体がぶつかる。
(……痛っ)
一瞬、何かに刺されたような感覚。
しかし、傷んだのは胸だ。
すれ違いざまに、ぶつかったかぶつからなかったかわからない程度の接触だった。
心の中で痛さに悲鳴をあげながら、さするように胸に触れると、自分の手の感触すら痛い。
少し、胸が張っている気がする。
(……何、これ?)
ふと、数日分の記憶がよみがえる。
胃腸炎の影響だと思っていたが、この一月ほど生理が来ていない。
まだ妙な眠気とだるさが続いている。
そして、吐きはしないのに、もやもやと居座る吐き気。
(まさか……)
ラシェルは、王妃の朝食の仕度が終わった後、前室で仕事をしていたリアナのもとへ足を運んだ。
「リアナ様……少し、お聞きしてもいいですか?」
「はい、どうかされました?」
「その……以前頂いた避妊薬のことですが、」
何気ない口調を装いながらも、声はわずかに震えていた。
リアナはにこりと微笑んで答える。
「良かった! ちょうどその話をしようと思ってたんです! 流石に以前のものは、もう効果が切れている頃なので、新しいものをお渡ししようと思っていたんです。最近ラシェル様がいらっしゃらないと、わたくし本当に忙しくて……エリ様とも全然遊べないんですの。でも……ですから、恋人との時間は大切でも、もし何かあっては困りますから……。エリ様と遊べないのは、わたくしにとって大変由々しき事態ですので……」
リアナの言葉の後半はほとんど耳に入ってこなかった。
そのまま、今朝のエリクスの可愛さをひとしきり聞かされたところで、ラシェルは目を伏せて頷いた。
「……はい。ありがとうございます。新しいものをいただけると、助かります……」
無理やり微笑んで会釈をしてから、ラシェルはゆっくりと部屋を出た。
扉を閉めて、表情が凍り付く。
(……効果が……切れている? ……そんな話、聞いてない……)
もしかして、と、何かが確信に変わっていく感覚。胸のむかつきはさらにひどくなる。
しかし、その手は無意識に、下腹の上に添えられていた。
回廊から差し込む陽光が、王妃の居室を柔らかく照らしている。
一歳になったエリクスは、シルヴィアの膝の上から、ふわりとラシェルの腕へ抱き移されたところだった。
「今日は、少しご機嫌ななめですね、殿下。そろそろ、お昼寝しましょうか」
ラシェルが笑いかけでも、エリクスは何故か不機嫌だった。
その様子を、部屋の隅で手帳を片手にしていたリアナも目を細めて見ていた。
「そうですわね。エリ様、お昼寝いたしましょう」
「昨日夜中にぐずっていたの。眠たいのかもしれな……」
そう答えるシルヴィアの言葉が終わらないうちに、それは起こった。
エリクスの小さな体が、突如ふるっと震え――
「――ケホッ、オエっ」
その声と同時に、エリクスの口から、びしゃり、と温かい液体が吐き出された。
「きゃっ……!」
「エリ様!?」
――その瞬間、リアナが素早くその横から腕を差し出した。
驚きながらも、ラシェルはしっかりとエリクスを抱きかかえている。
リアナの両手は、エリクスの吐瀉物を真正面から受け止めていた。
リアナの顔は真剣そのものだった。
愛用の帳面が床に落ちるのも気にせず、ただ王子の口からこぼれた物を、床や衣服に広げまいと支えていた。
「……王子……だいじょうぶ、だいじょうぶですよ……!」
震える声でそう囁くリアナの姿に、シルヴィアも言葉を失っていた。
* * * * *
それは夏風邪だと思われていたが、後に胃腸炎と診断された。
王子を看病していたリアナとラシェルも、順々に症状が出始め、療養室での隔離となった。
まず、微熱と倦怠感。
次に、嘔吐と下痢……。
三日ほどで症状は落ち着いたものの、一週間は外に出られず、ラシェルとリアナは二人で、離れの療養室に籠っていた。
日頃忙しい侍女たちにとって、静養待機は退屈な日々だった。
「……わたくし、もう、すっかり元気なんですけど。エリ様のお顔を見ないと、どんどん萎れてしまいそうです……」
リアナはベッドで体を起こして座っていたが、不満の声を漏らした。
「まだお部屋を出ちゃいけないって言ったのは、リアナ様じゃないですか……」
「ええ、王妃様に感染ってはいけませんし。本当は十日間隔離のところ、七日に減らして申請しましたわ」
読んでいた本をパタンと閉じて、隣のベッドでおとなしく寝転んでいるラシェルを見やった。
「なんだか、この生活は修道院の部屋を思い出します」
「……リアナ様、修道院にいたこともあるんですか?」
「二年程、女子修道院で学んでおりましたの。厳しかったけれど、友達と一緒の夜は、毎日楽しかったですわ」
そう言ってリアナが笑った時、ラシェルも微笑みを返したが、身体の奥で、別の波が蠢いていた。
「でも、そんな思い出に浸るよりも、わたくし、今は早くエリ様にお会いしたいのです」
リアナは力を取り戻した瞳をキラキラさせながら、小さなプリンスに心をときめかせていたが、ラシェルの内心はそうではなかった。
──まだ、胸の奥がむかむかする。それにまだ、眠っていたい。
熱は下がったし、嘔吐も治まった。
けれど、どうもおかしい。
(……胃腸炎の後遺症かしら……)
食事を口に運ぶたび、何とも言えない違和感がこみ上げてくる。
けれど、それを口に出すのは躊躇われた。
ただの気のせいかもしれない。
皆に心配をかけたくないのもあり、目を閉じて眠りについた。
しかし、隔離も明けたある朝。
ラシェルが王宮の厨房に、王妃の朝食を取りに行った時だ。
狭い廊下にごったがえす人の波に、身体がぶつかる。
(……痛っ)
一瞬、何かに刺されたような感覚。
しかし、傷んだのは胸だ。
すれ違いざまに、ぶつかったかぶつからなかったかわからない程度の接触だった。
心の中で痛さに悲鳴をあげながら、さするように胸に触れると、自分の手の感触すら痛い。
少し、胸が張っている気がする。
(……何、これ?)
ふと、数日分の記憶がよみがえる。
胃腸炎の影響だと思っていたが、この一月ほど生理が来ていない。
まだ妙な眠気とだるさが続いている。
そして、吐きはしないのに、もやもやと居座る吐き気。
(まさか……)
ラシェルは、王妃の朝食の仕度が終わった後、前室で仕事をしていたリアナのもとへ足を運んだ。
「リアナ様……少し、お聞きしてもいいですか?」
「はい、どうかされました?」
「その……以前頂いた避妊薬のことですが、」
何気ない口調を装いながらも、声はわずかに震えていた。
リアナはにこりと微笑んで答える。
「良かった! ちょうどその話をしようと思ってたんです! 流石に以前のものは、もう効果が切れている頃なので、新しいものをお渡ししようと思っていたんです。最近ラシェル様がいらっしゃらないと、わたくし本当に忙しくて……エリ様とも全然遊べないんですの。でも……ですから、恋人との時間は大切でも、もし何かあっては困りますから……。エリ様と遊べないのは、わたくしにとって大変由々しき事態ですので……」
リアナの言葉の後半はほとんど耳に入ってこなかった。
そのまま、今朝のエリクスの可愛さをひとしきり聞かされたところで、ラシェルは目を伏せて頷いた。
「……はい。ありがとうございます。新しいものをいただけると、助かります……」
無理やり微笑んで会釈をしてから、ラシェルはゆっくりと部屋を出た。
扉を閉めて、表情が凍り付く。
(……効果が……切れている? ……そんな話、聞いてない……)
もしかして、と、何かが確信に変わっていく感覚。胸のむかつきはさらにひどくなる。
しかし、その手は無意識に、下腹の上に添えられていた。
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