【完結】氷の王と炎の王妃

藤井 紫

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後日譚 王の側近と王妃の侍女

最後の敬礼

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 ギリアンは、しばらく無言だった。
 手元の羽根ペンを、ゆっくりとインク壺に戻す。その小さな動作が、静まり返った執務室にやけに大きく響く。

 やがて、ギリアンは顔を上げ、まっすぐホープを見つめた。

「……理由を、聞く必要はあるかい?」

 その声は低く、かすかに掠れていた。だが責めるような色は微塵もなく、まるで別れの重さを噛みしめながら、自分自身に語りかけているようだった。

 ホープは、ほんの一瞬だけ目を伏せて、そっと首を横に振った。

「……いいえ。もう、決めました」

 ギリアンはゆっくりと息を吐いた。
 その表情には、驚きよりも静かな納得があった。
 心の奥底で、この時が来ることをずっと予感していたのだろう。

「……ラシェルもか」
「はい。彼女と、子を、選びます」

 ホープの言葉に、ギリアンの指先がぴたりと止まる。
 ギリアンはわずかに表情を動かしかけたが、結局何も言わず、小さく目を伏せた。

「……そうか」

 それは、問いでも否定でもなかった。ただ、理解と受容のみの肯定だった。

「ラシェルが退くと……シルヴィアが、悲しむだろうな」
「それは……本当に、申し訳ありません……」

 ホープは深く頭を下げたまま、ギリアンの言葉を受け止めた。

 ギリアンは椅子の背にもたれ、ホープを静かに見つめる。ふっと、少しだけ口元を緩めた。

「……君を手放すのは、正直、惜しい」
「そう言っていただけるのは、光栄です、陛下」

「……いや、本心を言うと、……君が離れていくのは、何より寂しい」

 ギリアンは立ち上がり、静かにホープの傍へと歩み寄った。

「比べるのは無粋だが、シルヴィアとラシェルより、僕と君の関係のほうが、よほど深いと思っている」

 ホープは無言で頷いた。

 隠遁していた王太子時代から、自分の王権奪還を一緒に目指した青年。
 その成長、その忠誠――全てを思い返すような目で。

「……九年か、……君は、自分自身の為に王に仕えていたつもりかもしれない。けれど、実のところ……ずっと、僕を支えてくれていた」

 ホープは目を伏せたまま、静かに頷いた。
 そこに込められた感謝と敬意は、決して言葉だけでは伝えられない。
 『ジェードの魔女疑惑を取り消してほしい』と言うホープの願いの為に、ギリアンは王位戴冠の決意を固めてくれたのだ。

 ギリアンは執務机の引き出しに手をかけたが、何かを思い直したように、そっと手を離した。

「……本来なら、退職願も、届け出も、身分の整理も、すべて記録に残すべきなんだが……。君は、書面なんかより、意思が全てだろう」

 そして再びホープの正面に立ち、その瞳をじっと見つめた。

「本当に、ありがとうございました。……陛下」
「……行ってこい。王ではなく、君の友として――その選択を、祝福する」

 その眼差しに、寂しさと、どこか父や兄のような温かさが宿っていた。

 ホープの胸に熱いものが込み上げ、喉の奥が詰まった。
 それでも、どうにか笑って、王に最後の敬礼を送った。



*   *   *   *   *



 その夜、ラシェルの部屋――。

 ホープが静かに扉をノックし、音もなく中へ入ると、ラシェルは燭台の灯の下で開いた本を見つめていた。
 けれど、その視線は文字を追っておらず、ただ宙をさまよっていた。

「……ラシェル」

 掠れた声には、長い葛藤と決断の余韻が滲んでいた。
 ラシェルは顔を上げ、ゆっくりとホープを見つめ返す。

 ホープは一度うなずき、静かに告げた。
「……陛下に、言ってきた。正式に、辞めたよ」

「……え、こんなすぐに? 本当ですか……?」
 ラシェルの唇がわずかに震えた。けれどその瞳には、ほっとしたような光が浮かんでいた。

「じゃあ、私たち……」
「うん。ふたりで、新しい生活を始めよう」

 ホープは向かいの椅子に腰を下ろし、そっとラシェルの手を取る。ラシェルもまた、その手に指を絡め、穏やかに寄り添った。
 その体温に、ささやかな安心が宿る。

 蝋燭の火が揺れ、時折、ぱちりと小さな音を立てた。

 ふたりはしばらく、ただ静かに手を繋いでいた。
 やがて、ラシェルがそっと呟いた。

「……王都だと、私、どうしても『ラヴァール家の娘』として見られてしまうんです。周りの人も……私を『ヴィンセントの妹』として見てくる」

 ホープは、その言葉に静かに頷いた。

「だから、ヘーンブルグに行きたいです。ここが嫌いなわけじゃないけど。私、あなたみたいな優しい人が育った環境で、子どもを育ててみたい」

 言葉にすることで、ラシェル自身の決意もより確かになっていく。ラシェルの声にはもう、迷いはなかった。
 ホープは、もう一度その手をぎゅっと握る。

「ぼくも……君と一緒に育てるよ」

 未来への不安はあったが、それ以上にふたりには希望があった。
 その手の中には、確かな温もりと、新しい人生の始まりが、しっかりと握られていた。
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