【完結】氷の王と炎の王妃

藤井 紫

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後日譚 王の側近と王妃の侍女

お姫様じゃなくなっちゃった

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 ヘーンブルグの秋は早く、草いきれの残り香もすっかり薄れはじめていた。
 九月の初め、午後の柔らかな陽射しが丘を照らしている。
 畑の畝には、まだ青さの残る蕪の葉がそよぎ、遠くから羊飼いの声が響いてきた。

 その土の道を、一際しっかりした造りの箱馬車が、静かに進んでいた。
 外装は淡い生成りの布張りで、目立たぬよう王家の紋が織り込まれている。 内装には厚手のクッションが敷かれ、揺れを和らげるための工夫が施されていた。
 それは、王妃シルヴィアが妊娠中のラシェルを気遣って用意してくれた特別な馬車だった。

 車輪が小石を弾くたび、ホープは窓の外に広がる懐かしい牧草地を見つめ、ラシェルは膝の上に両手を重ねて、静かに微笑んでいた。
 この田舎の村での暮らしが、どんなものになるのか。少しの不安もあったが、ホープの故郷である事で、どこか安心感があった。

 馬車が村の広場へと差し掛かると、教会の鐘が鳴らされ、村の子どもたちがぱたぱたと走り出してくる。
 それを追うように、納屋から顔を出す男衆、釜戸の火を見に出ていた女たちも、いつしか家々の前に出て様子を窺う。

 馬車が村の中心に差しかかると、風に乗って人の声が届いてきた。
 広場の端、石造りの井戸の前には、近所の子どもたちが集まっていた。
 大人たちも洗濯桶を片手に、野良帰りの足を止めて、馬車を見やる。

「おお……ホープ坊やが帰ってきたぞ!」
「今度は誰と一緒なんだ?」

 口々に交わされる声。
 干し草の山の影から、羊飼いの子が身を乗り出し、洗濯物を干していた老婆がつまずきそうになりながら顔を上げる。

 ホープの実家の前には、野次馬が集まっていた。
 それは、いつもの田舎の光景だ。

 馬車が止まると、ホープが先に降り、ラシェルに手を差し伸べた。
 手を取ってゆっくりと馬車を降りたラシェルの姿を見て、ざわめきが起こる。

「……て、天使様かっ……?!」

 誰かの声がそう漏れた。
 田舎の村に似つかわしくないほど白く整った肌と、金の髪。まるで聖典に描かれる天使のようだ。
 ラシェルがこの村に来たのは三回目なのに、毎回、同じようなことが繰り返される。
 それが可笑しくて、ラシェルとホープは顔を見合わせて笑った。

「いやいや、前に王妃様と一緒に来た方だって!」
「ぼく知ってるよ! あの人、お姫様!」

 以前、ラシェルと会ったことのある村の子が、得意げに叫ぶ。

「お姫様ー、帰ってきたの? ホープ兄ちゃんと一緒に!」

 その声にホープが微笑みながら答える。

「……でも、もうぼくの奥さんだから――お姫様じゃなくなっちゃったけどね」

 ホープがにやりと笑って言うと、一瞬の静寂――
 けれど、それを打ち消すような重たい声が響いた。

「おーーー!」
「うわぁぁぁ……!」
 野次馬たちは沸いた。ぱちぱちと拍手をする子、目を丸くして息を呑む年寄り、興味津々で近づく若妻たち。

「ホープ……だが、王国法でも貴族法でも、お前たちの結婚は認められておらんぞ」

 それは、教会から出てきた牧師だった。牧師は、以前ラシェルが王妃の侍女として村に来た時に、その出自を聞いていたので、複雑そうに眉をひそめた。
 その一言に、村人たちは声を上げた。

「えええええええーーー!?」

 村全体が揺れたかのような大騒ぎに、ラシェルが困ったようにホープを見上げる。
 ホープは肩を竦めて、でもどこか涼しい顔で言った。

「……まあ、書類の上では、ね。でもぼくたちは一緒に生きていくって決めたから」

 ラシェルも牧師の言葉に動じることなく、真っ直ぐその視線を受け止めた。

 ふいに誰かが拍手を始め、それが連鎖していった。
 のどかな村に、王都とはまるで違う祝福の音が広がっていく。

 ラシェルの手をしっかりと握りながら、ホープは静かに母親の待つ家へと歩き出す。
 周囲のざわめきが後ろに遠ざかる。
 金色の麦穂が風に揺れ、ふたりの門出を祝福しているようだった。
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