【完結】氷の王と炎の王妃

藤井 紫

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後日譚 王の側近と王妃の侍女

女たちの静かな闘い

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 夜も更け、窓の外は風が強くなっていた。
 改装が進む新しい家。薪のはぜる音だけが、しんとした部屋に響いている。

 ホープがかまどの前で火ばさみを置いたとき、背後からラシェルの声が届いた。

「ねえ、ホープ……聞いてもいい? 言いたくないなら、言わなくて良いんだけど……」

 振り返ると、ラシェルが薄い毛布を肩から掛けて立っていた。
 灯火の揺らぎが、ラシェルの頬に赤みを灯す。

「うん、どうしたの?」

「……クロエのこと」

 ラシェルは、ホープをじっと見つめて言った。
 お腹の上にそっと両手を重ねる仕草は、どこか心細げで、それでも強くありたいという意思がにじんでいる。

「あの人って……」
「……」
「……もしかして……」

 ラシェルの聞きづらそうな様子に、ホープは一瞬だけ沈黙し、やがて静かに頷いた。

「……うん。十六の時、……一度だけ。でも、それは……今思えば、恋でもなかったかもしれない。でも、王都に戻る時に、ぼくは彼女を誘ったけど、彼女は家業を継ぐほうを選んだ。……だから、ぼくが振られたのかな。未練はないし、彼女はもう別の人と幸せになってるから」

 ラシェルはそっと頷き、膨らみ始めたお腹を見つめた。

「……ありがとう、話してくれて」
「まさか、彼女に、何かされた?」
「ち、違うの! 良い人よ、多分」

 その言葉のあと、少しの静寂が訪れた。
 ラシェルは軽く頭を横に振り、ホープの手を取る。

「私が、少しだけ……あの子に嫉妬したの。だって、あなたの初めてだった人でしょ?」

 ホープは少し驚いたように眉を上げ、それからラシェルの手をぎゅっと握る。

「ラシェル……」

「……でも、私は、過去から積み上げてきた、のあなたを愛してる。この子だって、あなたと私の子よ」

 ラシェルは笑顔で、お腹をそっと撫でた。
 その仕草は、まるで優しい魔法のようで、ホープの胸に、熱いものが満ちてくる。

「……ぼくも、君が大好きだよ……」

 ホープはラシェルの頬に手を添え、額にキスを落とした。
 すると、ラシェルはホープの胸にそっともたれかかる。

「でも……こんな、妙な気持ちになるなんて思わなかった」
「うーん、妊娠中は、特に理由がないのに不安になることがあるって、母さんが言ってたけど……」

 ホープはそのままラシェルを横向きに抱き上げ、ベッドのある部屋まで運んだ。
 ラシェルをお姫様の様に大切に、柔らかくベッドに寝かせ、ラシェルを抱いたまま自分も横に転がる。

「クロエに対して、私、悪役になっちゃった。あなたを振ったこと、『ざまぁみろ』って」

「えぇ!? 言ったの?」

 ホープは目を丸くした。

「心の中でね」

 そう聞いて、ホープは笑った。
「君の方が悪役? 君は、お姫様なのに」

 ラシェルもくすっと笑う。

「もう寝よう、ラシェル」

 灯りを持たずに来た寝室で、ふたりはただ、穏やかな夜の中に包まれていた。
 ラシェルはホープの胸に顔を埋め、ぽつりと呟く。

「……クロエ、きっと後悔してるわ。だってあなた、誰かにあげるには惜しすぎるもの」

 ホープはまた少し笑った。

「そんなこと言われたら、なんか、ぼくの方が惚れ直しちゃうよ。……ありがとう。君が、何も持たないぼくを、選んでくれたことも、それに、ついてきてくれたことも」

「ふふっ……じゃあ、悪役の私でも、愛してね」

 ラシェルはお腹を撫で、ホープの腕の中でうとうととまどろみ始めた。
 ホープはそっと毛布をかけ直し、ラシェルの額にもう一度キスを落とした。



*   *   *   *   *



 子どもを寝かしつけた後の家の中は、静かだった。
 焚き火の名残りがかすかに暖かく、かまどの前でクロエは残った火を見つめる。

 耳をすませば、風の音と遠くの犬の鳴き声。
 いつもなら眠気に落ちる時間なのに、今夜はどうも眠れそうにない。

(……あの子と、話しちゃった……)

 朝、寄り合いの場で見たラシェルの顔。
 妊娠していたと知った時の、自分の顔はどんな風だっただろう?

「あの子、気付いたかしら……あたしとホープのこと……」

 呟いて、唇に指を当てる。

 村の女たちが祝福の声をかける中、自分だけ言葉に詰まった。
 あれは別に、悔しかったわけじゃない。ただ――驚いただけ。

(……まぁでも、妊娠するって、ホープと、そういうことよね)

 誰かのものになる、ということ。
 体にまで痕を残して、女としての証を抱くということ。

(ふふっ、ラシェル。あなたは、知らないわね。初めての時のホープが、どれだけ優しくて、純粋で、誰より誠実な人だったか)

 王都で育った貴族令嬢――ラシェル。
 立ち振る舞いも言葉づかいも綺麗で、村人の前では完璧な淑女。

(でも……あなたが見てないホープの顔を、あたしは知ってる)

 確かに、あの時、誘ったのは、あたしからだったけど。

 あの、初めての夜、微かに震えていた声。
 少しだけ躊躇いが混ざった、でも真っ直ぐで熱い瞳。
 その全てを、自分は一度だけ、確かにこの手で受け止めたのだ。

 ホープは三男だし、良い奴なのも昔から知っていた。だから、事実を作ってそのまま結婚と言うストーリーを期待していたのに。

(もう、随分前の話だけど……)

 ふと、かまどの灰の中で小さく火が爆ぜた。

(もし、あの時、あたしが『王都に一緒に行く』って言ってたら、今頃、あの家でホープの隣に眠ってるのは、ラシェルじゃなくてあたしだったのかな)

 でも、もう引き返せない。
 それに、実家を捨てられなかったのは、あたし。

 今はルネがいる。優しくて、素朴で、文句ひとつ言わない夫。
 彼は何も知らない。自分の過去も、後悔も、火種のような気持ちも。

 クロエはそっと指先で自分の胸元をなぞった。
 ラシェルほどの美貌も、気品も、自分には無い。ただ、同郷の幼馴染と言うだけ。
 でも、昔は少しくらい――ホープを振り向かせられるものを、持っていたと思っている。

「……でも、あたしは、今、幸せよ」

 声に出してみる。
 言い聞かせるように。

(ホープ、あなたが選んだ人が、どれほど素敵でも――あたしの中にだけ、あの最初の顔は残ってる)

 クロエは静かに立ち上がった。
 ランプの火を吹き消すと、部屋はすぐに闇に包まれた。
 今日は、夫の帰りが遅い日なので、先に一人でベッドに入る。
 朝、目覚めた時には、ルネはいつも隣で自分を抱きしめて眠っている。

(あなたとは上手くはいかなかったけど、あたしの男を見る目は、いつも間違いないのよ。可愛い子たちも生まれたし)

 そう思ったら、今夜は、少し一人で眠るのが寂しくなった。

「ルネ、早く帰ってこないかな……」

 働き者の、愛する夫の帰りが待ち遠しくて、クロエは一人、微笑みを浮かべて呟いた。
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