【完結】氷の王と炎の王妃

藤井 紫

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後日譚 王の側近と王妃の侍女

女の勘

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 秋も深まり、アレー村は白く煙る朝霧に包まれていた。
 しっとりと湿った空気には、干し草と落ち葉の匂いが混ざり合う。

 朝の寄り合い小屋の中では、女たちが持ち寄ったパンや野菜、干し肉などを交換し合い、和やかな声が飛び交っている。
 その輪の中で、ラシェルは自分で焼いたパンを持参していた。

「今朝、焼きたてです」

 王宮で覚えたレシピをもとに焼いた、小ぶりでふんわりとした白パン。
 酸っぱい黒パンや硬いパンとは違うその食感と風味は、小さな子にも年寄りにも評判が良かった。

「お祭りの日のパンよりも、柔らかくて甘いのよね」
「うちの子、もっと食べたいって言ってたわ!」

 そんな笑い声に混ざって、ラシェルも自然と笑みを浮かべる。
 けれど、ふと腰を上げて籠を差し出したとき、ラシェルのお腹に誰かが気づいた。

「あら……」

 厚手の上着の下、お腹は丸みを帯び始めている。

「……もしかして、ラシェルさん、おめでた?」

 次の瞬間、女たちの視線が、一斉にラシェルの腹に集まった。

「ほんとだ……!」
「今まで気づかなかったわ……」
「今どのくらいなの?」

 ラシェルは少し驚いたように瞬きをしてから、ゆっくりと頷いた。

「……もうすぐ六ヶ月です」

 笑顔で応じながらも、その心の奥に、ほんの少しだけ波が立った。

 アレー村に来てから、ラシェルは平穏な日々を送っている。
 しかし、この村には、ホープが生まれてから今までの、ラシェルは知らない過去がある。

「来年には、また赤ちゃんが増えるのねぇ」
「ホープも、にやにやしてるでしょうよ」

 祝福の言葉が次々と投げかけられる中で、ラシェルは微笑を崩さなかった。

 そんな声に紛れて、視線の端に、一人だけ笑っていない姿があった。
 クロエと言う、ホープやジェードと同い年だと言う女性。

 もしかしたら彼女が、ジェードから聞いた『ホープが鈍感ゆえに全然気付かなかった、ホープの事を好きだった女の子』の可能性もある。
 ラシェルの女の勘は、何かを感じていた。

 クロエは笑顔の輪から少し外れて、パンを選ぶふりをしていた。でも、周りの女たちの話をしっかりと聞いている。
 視線は籠の中に落ちたまま。けれど、ラシェルを見る目は、他の人たちと違う。

(……ホープと、過去に何かあった人なのかしら……)

 ラシェルは胸の奥で、ひっそりとその確信を抱いていた。
 誰も言葉にはしない。ホープも、クロエも、決して口には出さない。
 けれど女の勘というものは、男の人には分からない、でも女同士なら伝わる香りや空気のように、肌で感じ取ってしまうものだ。

 クロエの顔は笑っていない。けれど、険しくもない。
 ただ、少しだけ気まずそうに、居心地悪そうにしている。

(私のことを恨んでいるわけじゃなさそう。でも、多分、負けたと……思ってる?)

 ラシェルは、思わず自分の腹に手を添えた。
 守るべき命がそこにいる。その重みが、心の揺れを静めてくれる。

 やがて、クロエがようやく顔を上げた。
 視線がぶつかる。けれど、どちらも何も言わない。

 ラシェルは、柔らかい笑みを浮かべて軽く会釈した。
 クロエも、ぎこちなく頷いた。

 朝の空気は冷たく澄んでいて、木の葉がからりと落ちる音だけが、耳に残った。



*   *   *   *   *



 夕暮れの畑道には、静けさが広がっていた。
 乾いた風が藁の山をかすめ、遠くで馬の嘶きが聞こえる。

 ラシェルはひとり、籠を抱えて歩いていた。
 今日焼いたパンを、いつも卵と交換してくれる家に届けに行く途中だった。
 その時、角を曲がったその先に、見覚えのある後ろ姿があった。

「……クロエさん?」

 呼びかけると、クロエが少し驚いたように振り返った。

「あっ……ラシェルさん」

 クロエは、手に摘んだ薬草を抱えていた。どうやら裏の丘まで採りに行った帰りのようだ。
 二人とも、一瞬言葉を探すように黙り込む。

「……一人なの?」
「ええ。ホープは家の改修を手伝いに行ってるの」

 ふと、クロエの視線が、ラシェルのお腹に向けられた。
 膨らみ始めたお腹。もう隠すことも、隠されることもない。

「……赤ちゃん、おめでとう。遅くなったけど」

 クロエの声は淡々としていたが、そこには確かに、ちゃんとした祝福があった。

「……ありがとうございます」

 ラシェルは微笑み、ひと呼吸おいてから、ふと小さく言った。

「ずっと……あなたとだけ話す機会がなかったから。何か、気まずくさせていたでしょうか。もし、そうだったら、ごめんなさい」

 クロエは薬草を抱え直しながら、かすかに眉を寄せた。

「そんなことないわ……でも、まあ……あたしも、あなたに、なんか構えちゃってたみたいで。ゴメンね」

 二人は並んで歩き出した。お腹の大きなラシェルに、クロエは歩幅を合わせてくれる。

「あなた、本当にすごく美人なんだもの。金の髪に、海みたいな蒼い目。天使って、きっとあなたみたいな感じなのかな。……ホープも夢中になるはずだわ」

 その言葉には、少し心の奥の棘が残っていた。
 ラシェルは頷き、真っ直ぐクロエの瞳を見た。

「……人の見た目なんて、見慣れちゃったら、関係ないらしいですよ。私、ホープと一緒に暮らすために、全部捨ててこの村に来ました。王宮も、身分も、侍女の仕事も。私はホープと一緒にいたいって思ったから」

 クロエは少しだけ目を伏せ、風に揺れる前髪の奥で、ほんの小さく笑った。

「……もしかして、家出してきたの?」
「……家出は、元々してたんです。でも、その後に手に入れた仕事も友達も捨てました。でも、後悔はしていません」

 ラシェルの声は穏やかだった。
 クロエは一度、深く息を吐くと、ラシェルの籠をちらりと見た。

「また、今度、あのパン、頼んでいい? ……うちの子も、あなたのパン大好きなの。今、四歳と、もうすぐ一歳なの」

「はい、もちろん。柔らかいから、離乳食にもきっと合いますね」

 二人は、ふと顔を見合わせ、少しだけ笑った。

「……それじゃあ、また」

「ええ。また」

 藁の匂いと、遠くの焚き火の煙が漂う帰り道。
 その背中を見送りながら、ラシェルはそっとお腹に手を添えた。

「大丈夫。ここで、やっていけるわ」

(過去の女なんてどうでもいいと思ってたのに……こんな気持ちになるなんて。……でも、ホープの隣に立てるのは、今の私よ。だから、私の勝ち、ってことよね)
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