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第一章 奴隷皇子と亡命の魔女
二つの秘密(4)
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「何か用があってここに来たのでしょう?」
リューシャに問われてやっとここに来た目的を思い出した。
「わたしのペンダントを、返して欲しいの」
リューシャは一瞬何のことか考えていたが、すぐに聖十字のペンダントのことだと気がついた。
「あぁ、あのペンダントは、今わたくしの手元にはないわ」
「そんな……」
ジェードの表情がみるみる哀しみに沈んでいった。
聖十字のペンダントはジェードが持っている唯一ヴァロニアのものだ。忌年の誕生日に幼馴染から贈られたもので、今は自分と祖国を繋ぐたった一つのものであり、天使信仰の証でもあった。
リューシャは猫を抱いたまま窓辺へ行くと、振り返ってジェードを手招いた。
暗い顔のままジェードはリューシャの隣に並び窓から広場を見下ろした。
ジェードの気持ちとは反対に、外は光があふれている。広場を囲う小さな市場に宮廷の人々が集まり賑わっている。
「あそこの、あの赤い頭布の銀細工職人。あの男性は貴女と同じクライス信仰者のはずよ。頼んでおけば、春に来る時に持ってきてくれるわ」
そう言って、リューシャは上から金細工職人を指差した。
「……新しいものが欲しいんじゃないの。あれは村の友達からもらったものだから……」
「そう。あなたには特別な価値のあるものだったのね」
リューシャはそれだけ言うと、そのまま黙り込んだ。
ジェードがリューシャを見ると、リューシャの瞳は何処かを見つめている。
「あの方、いったい誰なのかしら……」
小さく呟くリューシャの視線を追うとその先に、頭に布を巻いた初老の男がいた。その老人は少年と話をしている。ジェードが目を凝らすと、その少年はハリーファだった。
ハリーファも布を頭に巻いて金色の髪を隠していた。リューシャが見つけなければ、きっとジェードは遠目にはその姿に気づかなかっただろう。
「あなたが来てからハリーファ様は変わったわ。まるで別人になられたみたい」
「……わたしが知ってるのは今のハリだけだから。わからないわ……」
ジェードの言葉を聞いて、リューシャは微笑んだ。穏やかな笑顔なのに、何故かジェードには以前に感じたのと同じ悲しそうな顔に見えた。
たとえ一時だったとしても、きっとハリーファに対して、母親と同じように想っていたに違いない。
「あなたが言ってた、ハリの力って……、人の心がわかることだったの……?」
「……そうよ。そのことを知っているのは、わたくしだけだったのだけど、今はあなたもね」
「だから、利用したの?」
「利用? ハリーファ様がそう感じているなら、そうかもしれないわね」
「ハリは、いつからそんな力が身についたの?」
ハリーファには直接聞けそうにないことを聞く。もしかしたら、神魔が取り憑いているのかもしれない。
「ハリーファ様の人の心を読む力は、生まれ持ってのものよ。決して他言しないようにしつけてきたのだけど。ずっとお傍にいれば気づいてしまうものね」
言いながらリューシャは腕の中の猫ののどもとをなでた。
「他人の本当の気持ちなどわからない方が良いわ。特に皇宮では、そう思うでしょう? でもあの方は、小さい時から他人の表裏の善意や悪意を知りながら育ったのよ」
リューシャはジェードに語りかけた。その声音や表情はやはり母親のように優しかった。
「わたくしが宮廷に上がったのも、あなたと同じ年頃だった……」
その時、突然乱暴な音を立てて扉が開かれ、リューシャの会話が断ち切られた。
「リューシャ!」
部屋の中に黒い髪の女が入ってきた。
リューシャより少しばかり年上に見える女性は、奴隷たちとは違い小麦色の肌で、シナーンとよく似ている。女性の身形や容姿から、ジェードにもすぐファールーク皇族なのだとわかった。
「シェーラ様……。こんな処まで来られなくても、御用でしたら女奴隷に頼んでいただければ」
リューシャは猫をジェードに渡し、布を羽織りなおすと、シェーラと呼んだ女の方へと歩みよった。窓際に取り残されたジェードは、ついたての陰から二人の様子をうかがった。
「何故私がフェスへなど! どういうことなの?」
「それは、シナーン殿下がお決めになられたことです」
女性の顔がみるみる怒りにゆがむ。
「……ハリーファを元服までさせて。ハリーファに宰相を継がせて、母にでもなろうというの?」
「シェーラ様。ご心配なさらなくても、ハリーファ様は宰相にはなれません。宰相にはシナーン殿下がお就きになられます」
冷静なリューシャの態度に、女は悔しそうに歯をかみしめた。
「お前がジャファル様に気に入られているのは、ファティマに似ているからよ」
女性の言葉に一瞬だけリューシャも眉をしかめた。
「お亡くなりになられたのがファティマ様でなくシェーラ様でしたら、わたくしはきっとシナーン様の乳母になっておりましたわ」
「女奴隷の分際で!」
そう叫ぶと、突然、女がリューシャに向かって突っこんだ。
女の手元で光がきらりと反射した。
「あぶないっ!」
ジェードはついたての陰から飛び出し、リューシャを床に突き飛ばした。
黒髪の女は前につんのめって床に倒れこみ、手にしていた細い短剣が床に金属音を立てて転がった。
ジェードはとっさに床の上の短剣に駆け寄り拾いあげた。
三人の間に緊迫した空気が流れる。
一番最初に口を開いたのは女だった。ゆっくりと立ち上がると、リューシャをにらみ低く恐ろしい声で言った。
「お前たち! 天使の教えに逆らって、地獄に落ちるとよいわ!」
女はそう言い残すと、乱暴に扉を閉めて出ていった。
突然の出来事に唖然としていたリューシャも、ようやく立ち上がると乱れた服を直した。
短剣を握るジェードの手は震えて、顔も青ざめている。『地獄』と言う言葉や『忌数』などは口にしてはいけないと、幼い頃からそう教えられてきた。
ジェードには、女の呪詛の言葉が背筋が寒くなるほど恐ろしく感じられた。
そばにリューシャが来ると、緊張が解けて目に涙が浮かんだ。
「あの人、なんてこと言うの……」
リューシャはジェードの手から静かに短剣を取った。
「わたくしにとっては宮廷が地獄よ」
リューシャの言葉は、本心なのか皮肉なのかジェードにはわからなかった。
どこに身を隠していたのか、再び現れた猫は何事もなかったかのように二人の足に顔をこすりつけた。
リューシャに問われてやっとここに来た目的を思い出した。
「わたしのペンダントを、返して欲しいの」
リューシャは一瞬何のことか考えていたが、すぐに聖十字のペンダントのことだと気がついた。
「あぁ、あのペンダントは、今わたくしの手元にはないわ」
「そんな……」
ジェードの表情がみるみる哀しみに沈んでいった。
聖十字のペンダントはジェードが持っている唯一ヴァロニアのものだ。忌年の誕生日に幼馴染から贈られたもので、今は自分と祖国を繋ぐたった一つのものであり、天使信仰の証でもあった。
リューシャは猫を抱いたまま窓辺へ行くと、振り返ってジェードを手招いた。
暗い顔のままジェードはリューシャの隣に並び窓から広場を見下ろした。
ジェードの気持ちとは反対に、外は光があふれている。広場を囲う小さな市場に宮廷の人々が集まり賑わっている。
「あそこの、あの赤い頭布の銀細工職人。あの男性は貴女と同じクライス信仰者のはずよ。頼んでおけば、春に来る時に持ってきてくれるわ」
そう言って、リューシャは上から金細工職人を指差した。
「……新しいものが欲しいんじゃないの。あれは村の友達からもらったものだから……」
「そう。あなたには特別な価値のあるものだったのね」
リューシャはそれだけ言うと、そのまま黙り込んだ。
ジェードがリューシャを見ると、リューシャの瞳は何処かを見つめている。
「あの方、いったい誰なのかしら……」
小さく呟くリューシャの視線を追うとその先に、頭に布を巻いた初老の男がいた。その老人は少年と話をしている。ジェードが目を凝らすと、その少年はハリーファだった。
ハリーファも布を頭に巻いて金色の髪を隠していた。リューシャが見つけなければ、きっとジェードは遠目にはその姿に気づかなかっただろう。
「あなたが来てからハリーファ様は変わったわ。まるで別人になられたみたい」
「……わたしが知ってるのは今のハリだけだから。わからないわ……」
ジェードの言葉を聞いて、リューシャは微笑んだ。穏やかな笑顔なのに、何故かジェードには以前に感じたのと同じ悲しそうな顔に見えた。
たとえ一時だったとしても、きっとハリーファに対して、母親と同じように想っていたに違いない。
「あなたが言ってた、ハリの力って……、人の心がわかることだったの……?」
「……そうよ。そのことを知っているのは、わたくしだけだったのだけど、今はあなたもね」
「だから、利用したの?」
「利用? ハリーファ様がそう感じているなら、そうかもしれないわね」
「ハリは、いつからそんな力が身についたの?」
ハリーファには直接聞けそうにないことを聞く。もしかしたら、神魔が取り憑いているのかもしれない。
「ハリーファ様の人の心を読む力は、生まれ持ってのものよ。決して他言しないようにしつけてきたのだけど。ずっとお傍にいれば気づいてしまうものね」
言いながらリューシャは腕の中の猫ののどもとをなでた。
「他人の本当の気持ちなどわからない方が良いわ。特に皇宮では、そう思うでしょう? でもあの方は、小さい時から他人の表裏の善意や悪意を知りながら育ったのよ」
リューシャはジェードに語りかけた。その声音や表情はやはり母親のように優しかった。
「わたくしが宮廷に上がったのも、あなたと同じ年頃だった……」
その時、突然乱暴な音を立てて扉が開かれ、リューシャの会話が断ち切られた。
「リューシャ!」
部屋の中に黒い髪の女が入ってきた。
リューシャより少しばかり年上に見える女性は、奴隷たちとは違い小麦色の肌で、シナーンとよく似ている。女性の身形や容姿から、ジェードにもすぐファールーク皇族なのだとわかった。
「シェーラ様……。こんな処まで来られなくても、御用でしたら女奴隷に頼んでいただければ」
リューシャは猫をジェードに渡し、布を羽織りなおすと、シェーラと呼んだ女の方へと歩みよった。窓際に取り残されたジェードは、ついたての陰から二人の様子をうかがった。
「何故私がフェスへなど! どういうことなの?」
「それは、シナーン殿下がお決めになられたことです」
女性の顔がみるみる怒りにゆがむ。
「……ハリーファを元服までさせて。ハリーファに宰相を継がせて、母にでもなろうというの?」
「シェーラ様。ご心配なさらなくても、ハリーファ様は宰相にはなれません。宰相にはシナーン殿下がお就きになられます」
冷静なリューシャの態度に、女は悔しそうに歯をかみしめた。
「お前がジャファル様に気に入られているのは、ファティマに似ているからよ」
女性の言葉に一瞬だけリューシャも眉をしかめた。
「お亡くなりになられたのがファティマ様でなくシェーラ様でしたら、わたくしはきっとシナーン様の乳母になっておりましたわ」
「女奴隷の分際で!」
そう叫ぶと、突然、女がリューシャに向かって突っこんだ。
女の手元で光がきらりと反射した。
「あぶないっ!」
ジェードはついたての陰から飛び出し、リューシャを床に突き飛ばした。
黒髪の女は前につんのめって床に倒れこみ、手にしていた細い短剣が床に金属音を立てて転がった。
ジェードはとっさに床の上の短剣に駆け寄り拾いあげた。
三人の間に緊迫した空気が流れる。
一番最初に口を開いたのは女だった。ゆっくりと立ち上がると、リューシャをにらみ低く恐ろしい声で言った。
「お前たち! 天使の教えに逆らって、地獄に落ちるとよいわ!」
女はそう言い残すと、乱暴に扉を閉めて出ていった。
突然の出来事に唖然としていたリューシャも、ようやく立ち上がると乱れた服を直した。
短剣を握るジェードの手は震えて、顔も青ざめている。『地獄』と言う言葉や『忌数』などは口にしてはいけないと、幼い頃からそう教えられてきた。
ジェードには、女の呪詛の言葉が背筋が寒くなるほど恐ろしく感じられた。
そばにリューシャが来ると、緊張が解けて目に涙が浮かんだ。
「あの人、なんてこと言うの……」
リューシャはジェードの手から静かに短剣を取った。
「わたくしにとっては宮廷が地獄よ」
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