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第六章 二人の悪魔
薔薇の棘(2)
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その翌日。
外界から切り離された室内に、差し込む朝の光が静かに広がる。
壁に飾られた天使と悪魔の浮彫りが、窓から射す光の角度で陰影を深め、空気には沈黙という名の重さが満ちていた。
中心には、深紅の絨毯の上に据えられた一つの長卓。その上には、誓約文が置かれていた。
文面は丁寧な筆致で書かれ、四隅にそれぞれの印を押す箇所が用意されている。
この場に集まっているのは、王太妃リナリー。
対する騎士・ヴィンセント・フォン・へーンブルク、そしてハリーファ。
証人として立ち会うのは、リナリー配下の高位聖職者二名のみで、形式を整えるための存在でしかない。
まず、リナリーが筆を取り、静かに名前を記した。
続いてヴィンセントが、何の躊躇もなくサインをする。その手に、一片の迷いもなかった。
そして、最後にハリーファが筆を取る。
ハリーファは一度だけ、文面を読み返し、わずかに唇を噛む。
文面は儀礼調でありながら、明瞭だった。
代理戦争誓約書・正本
王太妃リナリーの名において、以下の通り契約を締結する。
一、神聖ヴァロニア軍は、王国軍との戦闘において代理戦争を提起する。
一、両軍は各一名の代表騎士を立て、正規の場において一騎打ちを行うものとする。
一、神聖ヴァロニア軍の闘士は、ハリーファ・アル・ファールークとする。
一、王国軍の闘士は、ヘーンブルグ領主ヴィンセント・フォン・ヘーンブルグとする。
【勝敗の判定】
一、本戦の勝敗は、以下のいずれかの条件をもって決定される。
・武器の完全な破損または喪失
・致命に至る、もしくは戦闘継続が不可能と見なされる傷の負傷
・明確な降伏の意思表示
一、勝者は敗者の命を奪うか否かを、自らの裁量によって決定できる。
【ハリーファの条件】
勝者ハリーファが得るもの
一、亡ファールーク皇国第二皇子たる自己の身柄の自由を得る(追手なし・所在不問)。
一、王太妃リナリーおよび神聖ヴァロニア軍は、ハリーファの今後の行動に一切干渉しない。
一、王都ランスの占有権を、王国軍より正式に放棄させる。
一、王国軍の明け渡しに基づき、神聖ヴァロニア軍はランス市内の統治権・治安維持権を掌握する。
敗者ハリーファの処遇
一、勝者が命を取らない限り、敗者ハリーファは王国軍に引き渡される。
一、王国軍は、敗者を捕縛し、ギリアン・フォン・ヴァロアの裁定に従い処遇する。
【ヴィンセントの条件】
勝者ヴィンセントが得るもの
一、オニキスのペンダントを正式に返還される。
一、亡ファールーク皇国第二皇子の身柄を得る(生死問わず)。
敗者ヴィンセントの処遇
一、勝者が命を取らない限り、敗者ヴィンセントは王国軍に拘束される。
一、王国軍および神聖ヴァロニア軍において、政治的敗者としての扱いを受ける。
以上、両軍立会のもと、正当な形式をもって宣誓する。
日付:1429年5月29日
――署名は完了した。
「これで成立だ。代理戦争は明朝、城下の闘技場にて挙行される。双方の代表が一騎打ちで決着をつけ、勝者の条件が履行される」
リナリーが静かに告げる。
ヴィンセントの眼差しには、もはや戯れや駆け引きの影はなかった。
「これで、正式に道が開かれたな」
ハリーファに向けられた声には、確かな決意が宿っていた。
「私はこの戦で、君に勝つ。ただの勝利ではない。完全なる勝利をもって、君の影を超える」
その蒼い瞳は、まっすぐにハリーファを射抜いていた。
ユースフの記憶を背負う存在。ルースの心を奪う影を。
「これは私のための戦だ。そして、ルースとの約束を果たす唯一の機会だ」
ヴィンセントはハリーファに一礼した。騎士としての敬意を込めて。
だがその背には、どこか静かな怒りにも似た情熱が燃えていた。
「決して侮らぬことだ。私は、必ず勝ちに行く」
言い残し、ヴィンセントは振り返ることなくその場を去った。
それは、もはや代理戦争ではなかった。
一人の男が、一人の記憶を越えるために挑む、ただ一度の本戦だった。
重い扉が閉まる。
その瞬間、空気が切り替わる。
残されたハリーファが、ゆっくりとリナリーの方へ向き直った。
「――ここから、王都までの距離は?」
何気ないようでいて、研ぎ澄まされた問いだった。
リナリーは、微かに眉を上げた。
だが、表情を崩さず、滑らかに答える。
「馬で全力を出しても、鐘三つ」
(だが、ジェードには、そんなに時間はない)
刹那、空気が軋んだ。
ハリーファの指が、手にしていた筆を強く握りしめる。
その目には、殺気すら宿っていた。
「……お前、最初から――」
声は震えていなかった。怒声も吐かれなかった。ただ、底の見えぬほど冷えた声音だった。
リナリーはただ、優雅に微笑んでいた。
「私は、選ばせただけだ。そなたが、何のために剣を取るのかを」
「……やり方が汚いぞ」
静かだが、その声音には押し殺された怒りがはりついていた。
リナリーはわずかに肩をすくめ、あざけるでもなく、皮肉を込めるでもなく、ただ事実を告げるように、冷たく返す。
「そなたも、大概にして汚いと思うが?」
ハリーファの拳が、小さく震える。
だが、それ以上は何も言わず、ただ静かに視線を落とした。
リナリーはそれを見届けると、踵を返す。
その後ろ姿を見送りながら、ハリーファは思う。
――間に合わないかもしれない。
けれど、ジェードを誰の手から救うのかは、もうはっきりした。
その場に、一枚の誓約書が残されていた。
闘技と政治と、個人の思惑が交錯する――血で綴られる運命の契約だった。
外界から切り離された室内に、差し込む朝の光が静かに広がる。
壁に飾られた天使と悪魔の浮彫りが、窓から射す光の角度で陰影を深め、空気には沈黙という名の重さが満ちていた。
中心には、深紅の絨毯の上に据えられた一つの長卓。その上には、誓約文が置かれていた。
文面は丁寧な筆致で書かれ、四隅にそれぞれの印を押す箇所が用意されている。
この場に集まっているのは、王太妃リナリー。
対する騎士・ヴィンセント・フォン・へーンブルク、そしてハリーファ。
証人として立ち会うのは、リナリー配下の高位聖職者二名のみで、形式を整えるための存在でしかない。
まず、リナリーが筆を取り、静かに名前を記した。
続いてヴィンセントが、何の躊躇もなくサインをする。その手に、一片の迷いもなかった。
そして、最後にハリーファが筆を取る。
ハリーファは一度だけ、文面を読み返し、わずかに唇を噛む。
文面は儀礼調でありながら、明瞭だった。
代理戦争誓約書・正本
王太妃リナリーの名において、以下の通り契約を締結する。
一、神聖ヴァロニア軍は、王国軍との戦闘において代理戦争を提起する。
一、両軍は各一名の代表騎士を立て、正規の場において一騎打ちを行うものとする。
一、神聖ヴァロニア軍の闘士は、ハリーファ・アル・ファールークとする。
一、王国軍の闘士は、ヘーンブルグ領主ヴィンセント・フォン・ヘーンブルグとする。
【勝敗の判定】
一、本戦の勝敗は、以下のいずれかの条件をもって決定される。
・武器の完全な破損または喪失
・致命に至る、もしくは戦闘継続が不可能と見なされる傷の負傷
・明確な降伏の意思表示
一、勝者は敗者の命を奪うか否かを、自らの裁量によって決定できる。
【ハリーファの条件】
勝者ハリーファが得るもの
一、亡ファールーク皇国第二皇子たる自己の身柄の自由を得る(追手なし・所在不問)。
一、王太妃リナリーおよび神聖ヴァロニア軍は、ハリーファの今後の行動に一切干渉しない。
一、王都ランスの占有権を、王国軍より正式に放棄させる。
一、王国軍の明け渡しに基づき、神聖ヴァロニア軍はランス市内の統治権・治安維持権を掌握する。
敗者ハリーファの処遇
一、勝者が命を取らない限り、敗者ハリーファは王国軍に引き渡される。
一、王国軍は、敗者を捕縛し、ギリアン・フォン・ヴァロアの裁定に従い処遇する。
【ヴィンセントの条件】
勝者ヴィンセントが得るもの
一、オニキスのペンダントを正式に返還される。
一、亡ファールーク皇国第二皇子の身柄を得る(生死問わず)。
敗者ヴィンセントの処遇
一、勝者が命を取らない限り、敗者ヴィンセントは王国軍に拘束される。
一、王国軍および神聖ヴァロニア軍において、政治的敗者としての扱いを受ける。
以上、両軍立会のもと、正当な形式をもって宣誓する。
日付:1429年5月29日
――署名は完了した。
「これで成立だ。代理戦争は明朝、城下の闘技場にて挙行される。双方の代表が一騎打ちで決着をつけ、勝者の条件が履行される」
リナリーが静かに告げる。
ヴィンセントの眼差しには、もはや戯れや駆け引きの影はなかった。
「これで、正式に道が開かれたな」
ハリーファに向けられた声には、確かな決意が宿っていた。
「私はこの戦で、君に勝つ。ただの勝利ではない。完全なる勝利をもって、君の影を超える」
その蒼い瞳は、まっすぐにハリーファを射抜いていた。
ユースフの記憶を背負う存在。ルースの心を奪う影を。
「これは私のための戦だ。そして、ルースとの約束を果たす唯一の機会だ」
ヴィンセントはハリーファに一礼した。騎士としての敬意を込めて。
だがその背には、どこか静かな怒りにも似た情熱が燃えていた。
「決して侮らぬことだ。私は、必ず勝ちに行く」
言い残し、ヴィンセントは振り返ることなくその場を去った。
それは、もはや代理戦争ではなかった。
一人の男が、一人の記憶を越えるために挑む、ただ一度の本戦だった。
重い扉が閉まる。
その瞬間、空気が切り替わる。
残されたハリーファが、ゆっくりとリナリーの方へ向き直った。
「――ここから、王都までの距離は?」
何気ないようでいて、研ぎ澄まされた問いだった。
リナリーは、微かに眉を上げた。
だが、表情を崩さず、滑らかに答える。
「馬で全力を出しても、鐘三つ」
(だが、ジェードには、そんなに時間はない)
刹那、空気が軋んだ。
ハリーファの指が、手にしていた筆を強く握りしめる。
その目には、殺気すら宿っていた。
「……お前、最初から――」
声は震えていなかった。怒声も吐かれなかった。ただ、底の見えぬほど冷えた声音だった。
リナリーはただ、優雅に微笑んでいた。
「私は、選ばせただけだ。そなたが、何のために剣を取るのかを」
「……やり方が汚いぞ」
静かだが、その声音には押し殺された怒りがはりついていた。
リナリーはわずかに肩をすくめ、あざけるでもなく、皮肉を込めるでもなく、ただ事実を告げるように、冷たく返す。
「そなたも、大概にして汚いと思うが?」
ハリーファの拳が、小さく震える。
だが、それ以上は何も言わず、ただ静かに視線を落とした。
リナリーはそれを見届けると、踵を返す。
その後ろ姿を見送りながら、ハリーファは思う。
――間に合わないかもしれない。
けれど、ジェードを誰の手から救うのかは、もうはっきりした。
その場に、一枚の誓約書が残されていた。
闘技と政治と、個人の思惑が交錯する――血で綴られる運命の契約だった。
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