毒素擬人化小説『ウミヘビのスープ』 〜十の賢者と百の猛毒が、寄生菌バイオハザード鎮圧を目指すSFファンタジー〜 

天海二色

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第二十三章 失楽園

第492話 十字の剣

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『諸君』

 赤い塔が傾き、混乱に包まれた人工島アバトンへ、澄み切った声が落ちてきた。
 鳴り響いていたサイレンは、いつの間にか途絶えている。戦闘音も喧噪も、機械の唸りも、さらには『珊瑚』の脈動までもが、ぴたりと静まった。
 まるで、島全体の時が止まったかのようだった。

『ただいま。長らく、待たせてしまったね』

 その静寂に溶け込み、ただ一人の男の声だけが鮮明に響く。
 どこから発せられているのか、全くわからない。反響が反響を呼び、方角は掴めない。
 の中で、フルグライトは真紅の目を忙しなく動かし、島の隅々を探った。
 菌床を張った際、奴の姿は勿論、気配さえもなかった。『ただいま』と呟いた通り、たった今戻ってきたのは間違いない。
 ならば海上か。それとも空中か。認識阻害装置で姿を消している可能性も考慮し、不恰好に傾いた赤い塔の触手を振り回し、周囲の空間を乱暴に薙いだ。
 しかし、手応えは一切ない。ただ空気を裂く音が返るばかりだった。
 フルグライトの眉間にシワが寄った。

『オレを探しているのかい? トール。いや、今はフルグライトか』

 嘲るような調子で、澄んだ声は続く。

「オレはここにいるよ。ほら、探すまでもない」

 ――真後ろで。
 フルグライトは即座に身体を反転させ、の侵入をその目に焼き付ける。
 一人の男が、立っていた。
 真っ白い白衣に身を包み、肩を越える長さのダークブロンドを後ろに束ね、真っ白い生地に、顔の中心を走るように描かれた十字架……いや、十字状の剣がデザインされた、フェイスマスクを付けた男。

「信号ばかりに頼っていると、目が曇るね。いや、この場合は耳が腐ると言うべきか」

 どうやって入り込んだのか。どうやって気配を消していたのか。解き明かされていない謎は多くあるが、いま大切なのは如何にしてこの男を殺すかだ。
 フルグライトはの内部に槍状菌糸を隆起させ、男を串刺しにしようとした。しかし、叶わない。
 赤子が命令を聞かないのではない。阻止されているのだ、目の前の男に。
 男は言う。

「久し振りの再会でも、殺伐としているね。まぁ当然か。オレも君とは会いたくなかった」

 ここはウミヘビの楽園。彼らの為に作った安息の地。
 その平穏を脅かす者は、排除される。

「招かざる客は、ご退場願おう」

 ――カッ!
 光の束が、真紅の瞳を貫いた。
 正確無比な砲撃。それによって《核》は毒素に蝕まれ、赤い塔は崩壊を始める。まるで、乾き切った土が崩れ落ちるかのように。

「っ! こんな事をすれば、お前も巻き込まれてしまうと言うのに……!」

 焦燥に駆られ、フルグライトは男を睨みつけた。
 ――だが、そこには誰もいない。
 ほんの瞬き一つ分、意識が逸れただけで、姿は煙のように掻き消えていた。
 ……いや、違う。消えたのではない。
 最初から、彼はここに居なかった。

 これは侵入ではない。電気信号を狂わせ、幻を見せただけだ。きっと、赤い塔の何処かにアイギスを張り付かせたに違いない。
 そしてわざわざ幻を見せたのは、光線を確実に命中させる為。きっと、天文台には今、彼のお抱えのウミヘビがいる事だろう。
 始まりのウミヘビ、その内の一人が。

「あぁ、あぁ。全く。何処までも癇に触る男だ」

 もう長いは出来ない。フルグライトは忌々しげに顔を歪めると、その身を細分化し、『珊瑚』を伝い移動。この場から姿を消した。
 残ったのは、風と共に散っていく、赤い塔の残骸のみ。

 ◇

「……終わった、みたいね」

 ネグラの中、広場の側にて。
 液体金属で形成したゴーレムを背に、水銀は空を見上げる。
 彼の周囲には、赤黒く変色した無数の『珊瑚』の塊が、塵と化していった。
 それと同じように、赤い塔もまた、ボロボロと崩れ海へ落ちていっている。
 安堵よりも疲労が勝り、水銀は深い溜め息を吐いた。

「……今、何だか。とても聴きたかった声が、聞こえた気がするのだけれど……」

 そして戦闘の最中に響いた、愛しい音。

「もしかして、帰って来てくれたのかしら……」

 水銀が長らく、待ち望んでいる存在。

「所長」

 ◇

「まだ帰っていないのカ。この阿呆」

 オフィウクス・ラボの最下層。
 その中央、ガラス床の上に、徐福は無造作に横たわっていた。
 呼吸の合間に漏れるのは、疲弊しきった声と、乾いた皮肉。

『ごめん。ちょっと離れられなくなってしまってさ』

 静まり返った広間に、別の声が落ちてきた。
 響きは澄んでいるが、発声源はどこにも見えない。徐福の周囲には彼以外、人影はなく、ただ機器の低い駆動音が空気を震わせているだけだ。

『だから“彼”を先に帰しておいた。アイギスを連れてとは言え、一人で帰る事になって、不貞腐れているだろうけど』

 澄んだ声は申し訳なさそうに言葉を紡ぐ。
 本当ならば、100を超えるアイギスを駆使し、1500万人ものコールドスリープ患者を守り切った徐福を労わりたい。手を伸ばし、肩を貸し、支え、固く冷たいガラス床ではなく、柔らかなベッドへと導きたい。
 しかし、それはできない。生身をこの場に持たぬ者には、ただ声で寄り添うことしかできなかった。

『でもオレも、直ぐに帰る。もう少しだけ待っていてくれ、さん』
「はん、どうだカ。お前が時間を守れると思えないネ」
『うっ。そう言われると何も返せない……』
「……アタシよりも、水銀へ声をかけた方がいいんじゃないカ?」

 水銀はアバトンにいる誰よりも、男の帰りを待ち望んでいるのだから。

『いいや、やめておく。今、水銀の顔を見たらホームシックになってしまうよ、オレ』
「これだけラボを空けといて、今更なにを言うのやラ。あといい加減、しロ。いや、カ?」
『そんな。冷たい事を言わないでくれよ、ジョーさん』
直情径行ちょくじょうけいこう……。今に始まった話では、ないガ」

 呆れを滲ませた声で吐き捨てると、徐福は重たそうに目を細めた。
 頭が鉛のように重く、視界が霞む。胸の奥で心臓が早鐘を打ち、息が上がる。
 貧血の症状だ。少し休んだら輸血剤を打たなければ、と彼は怠そうに片手で顔を覆う。

『あぁ、ごめん。報告はさっきので全部だから、オレはもう離れるよ。ゆっくり休んでくれ、ジョーさん。……

 声の主は、ただ声だけしか存在しない筈なのに、その響きは酷く沈み込んでいた。
 最下層の空気が、重く、湿り気を帯びて沈殿していく。

『力及ばず、これだけ被害を出してしまった。のを止める事も……出来なかった。本当に、ごめん』
「……本当に反省しているのなら、アタシの前で土下座でもするんだナ」

 その張りつめた空気を、徐福はわざと崩す。

「さっさと帰って来イ。阿呆」

 ひと言、それだけ。
 けれど声の主は、小さく、安堵したように笑って答えた。

『ありがとう、ジョーさん』
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