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第二十七章 虫籠の底
第579話 美味しそう
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ブゥン。ブブブブ、ブ、ブゥーン、ブゥーン。ブブ。
ブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブ。
不快な羽音が廊下中に反響する。視覚的にも聴覚的にも発狂しそうな現状に、ルイは思わず両手で両耳を塞いだ。
「ルイ院長、ルイ院長っ! あれは一体なんですか!? まさかとは思いますが、安置室のご遺体に蛆が湧いてしまったのですか!?」
片方の手は、疑問だらけなルチルの手によって直ぐ耳から引き離されてしまったが。
「此処に安置室はない! 患者の遺体もな!」
「ならあの蝿の群れは……!?」
「吾輩にもわからぬ!」
モーズがフランチェスコに寄生した蝿を研究しているのは知っている。しかしこの短期間で廊下の一角を覆い尽くすほど増殖した原因は、何もわからない。故にわからないと答えるのも一応、嘘ではなかった。
「患者の姿は見えませんね。菌床も……。あの警報は誤作動だったのでしょうか? これは軍ではなく害虫駆除業者の手配をした方がよさそうです」
「わからぬ。何もわからぬ。何なんだこれは。どうすればよいのだ」
「落ち着いてください、ルイ院長。現時点になりますが、ひとまず人的被害がなさそうな事を喜びましょ……」
ボスッ
混乱するルイをルチルが宥めていると、ハルパーの群れから人影が飛び出してくる。数は2つ。片方はモーズを抱えたセレン。もう片方は意識のないブロムを肩に乗せたテトラミックスだ。
そのまま曲がり角まで駆けてきた彼らは、程なくしてルイ達と合流する。
「おや、ルイ院長……と、ルチルさんですか。貴方はどうして此処に?」
「応援に来たのですよ。此方の病棟は現在、人手不足なので」
「そうですか」
ルチルの返答に、セレンは抑揚のない声を発しながらうなずく。問いかけていながらさして興味がない事がありありと伝わる。
「それにしてもモーズ先生とこんな所で会えるとは。てっきりドイツにいらっしゃるのかと……」
「色々ありまして。とりあえずこの場にいたら死ぬので逃げましょう」
「さらっととんでもない発言をするでないわ! というかお主らウミヘビならば虫の駆除ぐらい容易であろう!? 何故、手を出さぬのだ!」
「だ、駄目です」
ルイのもっともな提案を止めたのは、モーズだった。彼はセレンの腕の中で、掠れた声で必死に懇願する。
「毒素を使ってしまえば、フランチェスコも、傷付けてしまう……」
「しかしモーズよ! 死が差し迫っているという今、友を優先している場合では……! というかあの状態で生きておるのか!?」
「生きて、ます! フランチェスコは生きて、ハルパーを従えて……『珊瑚』を、克服しました!!」
「なっ!?」
驚愕するルイ。長年、追い求め続けた悲願の達成。しかし唐突過ぎて実感が湧く事はない。
「そ、それは真か!?」
「はい、たった今! 精査はまだ出来ておりませんが、フランチェスコは全身から『珊瑚』の切除に成功したと思います! そうでなければ私は彼の菌糸ネットワークに繋げられる筈ですから! しかし、出来ない! 切れている! 今もです、これは……っ!」
「菌糸ネットワーク!? 生身の人間が真菌のネットワークを認識出来ると!?」
「あっ、ルイ院長は知りませんでしたね。ええと、説明しては長いので代わりの……。菌床! 此処に菌床がない事が客観的な証拠の一つになる筈!」
「あぁ! そうだ、菌床! フランチェスコの暴走も菌床もなければ如何して警報が鳴ったのだ! 誤作動か!?」
「いやー。菌床自体は発生したんだよねー」
場違いなほどのんびりとした口調で答えたのは、ずっと黙していたテトラミックスだ。
「でも食べちゃった。ぜーんぶ」
――ハルパーが。
ぴしり
廊下の最奥、隔離病室の壁に亀裂が入る。間もなくそれは蜘蛛の巣のように周辺へ広がっていき、ガラガラと音を立て崩れ落ちていった。
廊下に積み上がった瓦礫には大量の蛆が集っていて、まるで腐肉を食すかのように、コンクリートへ無数の穴を開けている。
そして、その瓦礫を踏み付けて、黒い幕状となったハルパーと共に、人影が現れた。今の今まで石像のように硬直していたフランチェスコだ。彼は長年、寝た切りだった患者と同じように覚つかない足取りで歩みを進め、時に壁に手を付き、時に床に転がり、膝を付き、それでも、這うように前に進み――虚な、琥珀色をした右の瞳に、モーズ達を映し、穏やかに笑った。
「美味シそウ」
酷く聞き取りづらい嗄れ声を、発しながら。
◆
凄く凄く甘い香りがした。果汁? 砂糖水? はちみつ? メイプルシロップ? イチゴジャム? わからないな。でも、とっても懐かしい香り。
身体が凄く重いけど、甘い香りに誘われちゃった僕は立ち上がる。でも直ぐに転んじゃった。元気が足りない。ご飯が欲しい。
あ、お肉や果物がある! まとめて一つのお皿に乗っているのがちょっと不思議だけど、これで元気を補充できるかな? いただきまーす! ……あんまり味を感じられなかったなぁ。残念。けど元気出たから一応、立てるようになったね。
それでも僕がふらついていたら、誰かが手を貸してくれた。誰だろう。いい子だね。その子は僕を見て涙を浮かべて、何だかとっても嬉しそう。
でもどうしてだろう、何だか凄く近寄りたくない。きっとこの子はいい子で、僕に好意的な感情を抱いているんだろうけど、体中から何だか凄く嫌な臭いがする。近くにいたら死んでしまう気がしたから、僕は手を振り払ってその子から離れた。
すると僕の足元からキノコが生えた。真っ赤なキノコ。何で? あ、わかった。このキノコもさっきの子が嫌いなんだ。だから離れたタイミングで出てきたんだ。
……このキノコ、美味しそう。
僕はキノコを食べた。壁から床から、にょきにょき生えてくるのを片端から。予想よりは美味しくなかったけど、量が食べられたからまぁいいかな。僕、凄くお腹が空いていたから。
美味しいご飯が食べたいなぁ。甘いお菓子を食べたいなぁ。うーんと、うーんと。
……? 何だか周りが騒がしいなぁ。どうしてだろう。食べ放題だったキノコを僕が独占しちゃったから怒ってる? お腹が空いていたんだ、ごめんね? いやでも、どっちかって言うと戸惑っているっていうか、困惑してる?
どうしてだろう。
まぁいいや。それより甘い香りの元を探さなくっちゃ。
あ、いたいた。これも赤いキノコだね。さっきのキノコと全然違う。見た目が同じに見えるけど別の種類なのかな? うーん。この甘い香りのキノコ、嫌な臭いの子と一緒にいるなぁ。さっきの子とは違う。こっちの子……それも2つ? 2つだね。この2つの方がもっと嫌な臭いがする。
死が近い。僕の。直感だけど、不思議とわかるね。
引き離せないかなぁ。甘い香りのキノコから。甘さだけ味わいたいな、たっぷりと。
それでちょっとだけ残して、お土産にして、一緒に食べるんだ。
……誰と、だっけ。
いいや、食べちゃおう。
僕は今すごく、お腹が空いているんだ。
ブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブ。
不快な羽音が廊下中に反響する。視覚的にも聴覚的にも発狂しそうな現状に、ルイは思わず両手で両耳を塞いだ。
「ルイ院長、ルイ院長っ! あれは一体なんですか!? まさかとは思いますが、安置室のご遺体に蛆が湧いてしまったのですか!?」
片方の手は、疑問だらけなルチルの手によって直ぐ耳から引き離されてしまったが。
「此処に安置室はない! 患者の遺体もな!」
「ならあの蝿の群れは……!?」
「吾輩にもわからぬ!」
モーズがフランチェスコに寄生した蝿を研究しているのは知っている。しかしこの短期間で廊下の一角を覆い尽くすほど増殖した原因は、何もわからない。故にわからないと答えるのも一応、嘘ではなかった。
「患者の姿は見えませんね。菌床も……。あの警報は誤作動だったのでしょうか? これは軍ではなく害虫駆除業者の手配をした方がよさそうです」
「わからぬ。何もわからぬ。何なんだこれは。どうすればよいのだ」
「落ち着いてください、ルイ院長。現時点になりますが、ひとまず人的被害がなさそうな事を喜びましょ……」
ボスッ
混乱するルイをルチルが宥めていると、ハルパーの群れから人影が飛び出してくる。数は2つ。片方はモーズを抱えたセレン。もう片方は意識のないブロムを肩に乗せたテトラミックスだ。
そのまま曲がり角まで駆けてきた彼らは、程なくしてルイ達と合流する。
「おや、ルイ院長……と、ルチルさんですか。貴方はどうして此処に?」
「応援に来たのですよ。此方の病棟は現在、人手不足なので」
「そうですか」
ルチルの返答に、セレンは抑揚のない声を発しながらうなずく。問いかけていながらさして興味がない事がありありと伝わる。
「それにしてもモーズ先生とこんな所で会えるとは。てっきりドイツにいらっしゃるのかと……」
「色々ありまして。とりあえずこの場にいたら死ぬので逃げましょう」
「さらっととんでもない発言をするでないわ! というかお主らウミヘビならば虫の駆除ぐらい容易であろう!? 何故、手を出さぬのだ!」
「だ、駄目です」
ルイのもっともな提案を止めたのは、モーズだった。彼はセレンの腕の中で、掠れた声で必死に懇願する。
「毒素を使ってしまえば、フランチェスコも、傷付けてしまう……」
「しかしモーズよ! 死が差し迫っているという今、友を優先している場合では……! というかあの状態で生きておるのか!?」
「生きて、ます! フランチェスコは生きて、ハルパーを従えて……『珊瑚』を、克服しました!!」
「なっ!?」
驚愕するルイ。長年、追い求め続けた悲願の達成。しかし唐突過ぎて実感が湧く事はない。
「そ、それは真か!?」
「はい、たった今! 精査はまだ出来ておりませんが、フランチェスコは全身から『珊瑚』の切除に成功したと思います! そうでなければ私は彼の菌糸ネットワークに繋げられる筈ですから! しかし、出来ない! 切れている! 今もです、これは……っ!」
「菌糸ネットワーク!? 生身の人間が真菌のネットワークを認識出来ると!?」
「あっ、ルイ院長は知りませんでしたね。ええと、説明しては長いので代わりの……。菌床! 此処に菌床がない事が客観的な証拠の一つになる筈!」
「あぁ! そうだ、菌床! フランチェスコの暴走も菌床もなければ如何して警報が鳴ったのだ! 誤作動か!?」
「いやー。菌床自体は発生したんだよねー」
場違いなほどのんびりとした口調で答えたのは、ずっと黙していたテトラミックスだ。
「でも食べちゃった。ぜーんぶ」
――ハルパーが。
ぴしり
廊下の最奥、隔離病室の壁に亀裂が入る。間もなくそれは蜘蛛の巣のように周辺へ広がっていき、ガラガラと音を立て崩れ落ちていった。
廊下に積み上がった瓦礫には大量の蛆が集っていて、まるで腐肉を食すかのように、コンクリートへ無数の穴を開けている。
そして、その瓦礫を踏み付けて、黒い幕状となったハルパーと共に、人影が現れた。今の今まで石像のように硬直していたフランチェスコだ。彼は長年、寝た切りだった患者と同じように覚つかない足取りで歩みを進め、時に壁に手を付き、時に床に転がり、膝を付き、それでも、這うように前に進み――虚な、琥珀色をした右の瞳に、モーズ達を映し、穏やかに笑った。
「美味シそウ」
酷く聞き取りづらい嗄れ声を、発しながら。
◆
凄く凄く甘い香りがした。果汁? 砂糖水? はちみつ? メイプルシロップ? イチゴジャム? わからないな。でも、とっても懐かしい香り。
身体が凄く重いけど、甘い香りに誘われちゃった僕は立ち上がる。でも直ぐに転んじゃった。元気が足りない。ご飯が欲しい。
あ、お肉や果物がある! まとめて一つのお皿に乗っているのがちょっと不思議だけど、これで元気を補充できるかな? いただきまーす! ……あんまり味を感じられなかったなぁ。残念。けど元気出たから一応、立てるようになったね。
それでも僕がふらついていたら、誰かが手を貸してくれた。誰だろう。いい子だね。その子は僕を見て涙を浮かべて、何だかとっても嬉しそう。
でもどうしてだろう、何だか凄く近寄りたくない。きっとこの子はいい子で、僕に好意的な感情を抱いているんだろうけど、体中から何だか凄く嫌な臭いがする。近くにいたら死んでしまう気がしたから、僕は手を振り払ってその子から離れた。
すると僕の足元からキノコが生えた。真っ赤なキノコ。何で? あ、わかった。このキノコもさっきの子が嫌いなんだ。だから離れたタイミングで出てきたんだ。
……このキノコ、美味しそう。
僕はキノコを食べた。壁から床から、にょきにょき生えてくるのを片端から。予想よりは美味しくなかったけど、量が食べられたからまぁいいかな。僕、凄くお腹が空いていたから。
美味しいご飯が食べたいなぁ。甘いお菓子を食べたいなぁ。うーんと、うーんと。
……? 何だか周りが騒がしいなぁ。どうしてだろう。食べ放題だったキノコを僕が独占しちゃったから怒ってる? お腹が空いていたんだ、ごめんね? いやでも、どっちかって言うと戸惑っているっていうか、困惑してる?
どうしてだろう。
まぁいいや。それより甘い香りの元を探さなくっちゃ。
あ、いたいた。これも赤いキノコだね。さっきのキノコと全然違う。見た目が同じに見えるけど別の種類なのかな? うーん。この甘い香りのキノコ、嫌な臭いの子と一緒にいるなぁ。さっきの子とは違う。こっちの子……それも2つ? 2つだね。この2つの方がもっと嫌な臭いがする。
死が近い。僕の。直感だけど、不思議とわかるね。
引き離せないかなぁ。甘い香りのキノコから。甘さだけ味わいたいな、たっぷりと。
それでちょっとだけ残して、お土産にして、一緒に食べるんだ。
……誰と、だっけ。
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僕は今すごく、お腹が空いているんだ。
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