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第1話 深夜の安定飛行
しおりを挟む早瀬湊(はやせ みなと)は、午前1時に自宅マンションの扉を開けた。正確には、25時03分。
「ただいま」と声に出したが、返ってくるのはエアコンの低い作動音だけだ。築10年の1K、家賃は管理費込みで8万5千円。都心から電車で40分、最寄り駅からは徒歩10分。25歳を目前にした自分にとっては、まさに「ちょうどいい」住まいだった。
システムエンジニアとして働き始めて丸3年。仕事は忙しいが、納期さえ守れば裁量は比較的大きい。年収も同年代の中では悪くない。生活は安定し、未来の計画も「ぼんやり」ではあるが見えている。結婚は30歳前後、家は郊外で庭付き、子供は二人。どれもこれも、世間の平均値をなぞったような「安パイ」な設計図だった。
スーツを脱ぎ、部屋着に着替える。その間も、頭の中では今日の会議の議事録のチェックリストが回り続けている。すべてが「安定」で構成された日常。しかし、最近、ふとした瞬間に冷たい水が心臓に落ちてくるような感覚に襲われる。
――このままで、いいのだろうか。
別に何か不満があるわけではない。なのに、何かが、足りない。
キッチンへ向かい、冷蔵庫からビールを取り出す。プルタブを弾く音。これが、深夜の安定飛行の始まりの合図だ。
湊が唯一、安定飛行から逸脱するのが、真夜中の「散歩」だった。
ビールを半分ほど飲み干すと、彼は財布とスマホだけを持ってマンションを出る。目的地は決まっていないが、足は自然と大通りに向かう。
深夜1時半。街の喧騒は収まり、世界は低音のざわめきに変わる。車の走行音、遠くの救急車のサイレン、そして、夜風が運んでくる生活の残り香。
湊は、特に何かを考えるわけでもなく歩く。この時間だけは、仕事のことも、将来のことも、すべてを棚上げにできる。
いつもの交差点に差し掛かったとき、赤信号が点滅していた。大通りと生活道路がクロスする、ごくありふれた場所だ。
交差点の角にある24時間営業のコンビニ、その駐車場フェンスにもたれかかるように、一人の女性が立っていた。
彼女は、やたらと大きな黒いギターケースを足元に置き、スマホの画面を見つめている。ロングコートに、くしゃっとしたニット帽。顔の半分は影になって見えないが、彼女から立ち上る雰囲気は、この真夜中の景色に、不釣り合いなほど「熱」を帯びていた。
湊は特に気に留めることなく、信号が青に変わるのを待った。彼女も、彼に気づいている様子はない。
そのとき、彼女はふいにスマホから顔を上げ、空を見上げた。
「……嘘でしょ。最悪」
小さな、だがはっきりと聞き取れる独り言。
湊が交差点を渡り終える寸前、彼は彼女の視線の先にあるものに気づいた。
夜空から、ほんの数滴、冷たい水が落ちてきた。
雨だ。深夜の、唐突な雨。
湊は急いでパーカーのフードをかぶる。そのまま歩き去ろうとした、その瞬間。
「あの、すみません!」
背後から、少し焦ったような、それでいて芯のある声がした。
湊が振り返ると、ギターケースを抱え直した女性が、こちらへ駆け寄ってくるところだった。
彼女の顔が、街灯の光に照らされる。年齢は、おそらく自分と同じくらいか、少し下か。整った顔立ちだが、目の下に薄っすらと疲れが見える。そして、その瞳には、雨に濡れるのを嫌がるよりも強い、ある種の焦燥感が浮かんでいた。
「あの、急にすみません。もしよければ、この傘、貸してもらえませんか? すぐそこのバス停まででいいんです!」
彼女が差し出したのは、折りたたみ傘ではなく、真新しい、透明なビニール傘だった。傘自体は持っている。だが、その傘は、なぜか透明なビニールシートに包まれたままだ。
湊は、一瞬、自分の耳を疑った。
「え……? 傘、持ってる、みたいですけど」
彼は戸惑いながら、彼女が抱えているギターケースの横にある、ビニールに包まれた傘を指差した。
「これ、ですか?」
女性は、きっぱりとした口調で言った。
「はい。これは『25本目』なんです。だから、まだ使えないんです」
深夜25時。真夜中の交差点。
25歳という節目を目前にした、安定を好む男と、25本目の傘を使えない、謎めいた女。
二人の間には、濡れ始めの、冷たい雨の匂いが満ちていた。
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