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第2話 25本目のルール
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「『25本目』、ですか?」
早瀬湊は、雨の滴が落ち始めた地面を見ながら、問い返した。冗談か、酔っ払いか。しかし、目の前の女性は真剣そのものだった。
「はい。これは、ある目標を達成するまで、絶対に開けてはいけない傘なんです」
女性は、ギターケースの横にあるビニールに包まれた傘を、まるで守るべき宝物のように見つめた。
「目標、って……」
「25歳までに、ソロライブのチケットを25枚、売ること。これはそのための、最後の、25本目の景気づけなんです」
湊は、反射的にスマホを取り出し、時間を確認した。1時42分。深夜の雨が降り始めた交差点で、目の前の女性は、真顔で「25枚のチケット」と「25本目の傘」について語っている。
「あの、すみません。ちょっと意味が……」
「ですよね」彼女は少しだけ口元を緩めた。「私の名前は、水無月希(みなづき のぞみ)です。シンガーソングライターをしています。今度、小さなライブハウスで、初めてのソロライブをやるんです」
希は言葉を続けた。
「その目標を達成したら、この傘を開けて、最高の雨の日を迎えようって決めて。でも、まだチケットが……あと、一枚、足りないんです」
あと一枚。25枚中、24枚は既に売れているということか。湊は、彼女の情熱的な語り口と、どこか自嘲的な響きに、奇妙なリアリティを感じた。
「でも、バス停までならすぐですよ? 走れば、そんなに濡れないかと」
「ギターケースが濡れるのは、ちょっと。それに、あと一枚が埋まる前にこの傘を開けたら、なんだか、負けた気がするんです」
雨脚が少し強くなってきた。彼女のロングコートの肩が、微かに色を変え始める。
湊は、ポケットに入っている自分の折りたたみ傘を握った。さっきコンビニで買った、ビニール傘よりは少しだけマシな、無地のもの。
「わかりました」湊はため息をついた。「俺のでよければ、どうぞ。バス停まででいいんですよね」
湊が傘を開くと、希の顔が一気に明るくなった。
「本当ですか! ありがとうございます。助かります!」
二人で一つの傘に肩を寄せ、交差点を渡る。バス停は、交差点から30メートルほど先、大通りを一本入ったところにあった。深夜だが、コンビニの明かりがここまで届いている。
「本当に、ありがとうございます。早瀬、さん……で、いいんですよね? お名前、覚えてます」
「ああ、早瀬湊です。システムエンジニアをやってます」
「システムエンジニア、かっこいいですね。カチッとしてて」
「どこが、ですよ。毎日、数字とにらめっこです。水無月さんは、まだ24歳ですか?」
訊ねてから、湊は失言だったと反省した。女性に年齢を聞くなんて。
しかし、希はあっけらかんと答えた。
「はい、まだ24です。でも、あと3日で、25になります」
湊は足を止めた。バス停まで、あと数歩のところだった。
「俺も、あと二ヶ月で25になります」
「へぇ。奇遇ですね。私たち、同じ『25歳を目前にした人種』だ」
希はそう言って、くすりと笑った。その笑い方は、さっきまでの張り詰めた表情とは違い、彼女を等身大の「若者」に見せた。
「ソロライブ、もうすぐなんですか?」
「来週の土曜日です。期限もあと少し。25歳になる前に、絶対25枚埋めたいんです」
「なぜ、25にこだわるんですか?」
希は、少し遠い目をした。
「25歳って、なんだか大人になりきれない、最後の砦みたいな気がして。ここを超えちゃったら、もう『夢を追う若者』って言い訳が通用しなくなる。だから、この節目で、『私は私で食っていくんだ』って、自分に証明したくて」
その言葉は、湊の胸に、ちくりとした痛みとなって響いた。
自分には、25歳までに達成したいと強く願う、具体的な「夢」も「目標」もない。安定という名の、ぬるま湯に浸かっているだけだ。
「……じゃあ、俺が、その『最後の一枚』を買いますよ」
口から出た言葉は、自分でも驚くほど、自然だった。
希は驚いて、目を見開いた。
「えっ? でも、私、早瀬さんのこと、全然知らないし、曲も聴いたことないですよ?」
「いいんです。別に、音楽が好きだから、とかじゃなくて。その『25本目の傘』のルールが、なんだか、面白いから」
湊は、ただ、彼女の持つ熱に触れてみたくなった。自分の日常にはない、不安定で、でも輝いている熱に。
「それに、俺も25歳を目前にして、ちょっとだけ、安定を外れるのも悪くない気がして」
希はしばし、湊の顔を見つめた後、大きく笑った。
「変な人ですね! でも、ありがとうございます! じゃあ、これで、私の25歳は、最高の雨の日から始まります」
彼女は、持っていたギターケースを地面に置き、小さな紙切れとボールペンを取り出した。
「連絡先、教えてください。詳細を送ります。これは、傘のお礼の連絡先でもあります」
雨は、少しずつ勢いを増していた。深夜25時を過ぎた交差点で、早瀬湊の退屈な安定飛行は、水無月希という名の乱気流に巻き込まれ始めた。
早瀬湊は、雨の滴が落ち始めた地面を見ながら、問い返した。冗談か、酔っ払いか。しかし、目の前の女性は真剣そのものだった。
「はい。これは、ある目標を達成するまで、絶対に開けてはいけない傘なんです」
女性は、ギターケースの横にあるビニールに包まれた傘を、まるで守るべき宝物のように見つめた。
「目標、って……」
「25歳までに、ソロライブのチケットを25枚、売ること。これはそのための、最後の、25本目の景気づけなんです」
湊は、反射的にスマホを取り出し、時間を確認した。1時42分。深夜の雨が降り始めた交差点で、目の前の女性は、真顔で「25枚のチケット」と「25本目の傘」について語っている。
「あの、すみません。ちょっと意味が……」
「ですよね」彼女は少しだけ口元を緩めた。「私の名前は、水無月希(みなづき のぞみ)です。シンガーソングライターをしています。今度、小さなライブハウスで、初めてのソロライブをやるんです」
希は言葉を続けた。
「その目標を達成したら、この傘を開けて、最高の雨の日を迎えようって決めて。でも、まだチケットが……あと、一枚、足りないんです」
あと一枚。25枚中、24枚は既に売れているということか。湊は、彼女の情熱的な語り口と、どこか自嘲的な響きに、奇妙なリアリティを感じた。
「でも、バス停までならすぐですよ? 走れば、そんなに濡れないかと」
「ギターケースが濡れるのは、ちょっと。それに、あと一枚が埋まる前にこの傘を開けたら、なんだか、負けた気がするんです」
雨脚が少し強くなってきた。彼女のロングコートの肩が、微かに色を変え始める。
湊は、ポケットに入っている自分の折りたたみ傘を握った。さっきコンビニで買った、ビニール傘よりは少しだけマシな、無地のもの。
「わかりました」湊はため息をついた。「俺のでよければ、どうぞ。バス停まででいいんですよね」
湊が傘を開くと、希の顔が一気に明るくなった。
「本当ですか! ありがとうございます。助かります!」
二人で一つの傘に肩を寄せ、交差点を渡る。バス停は、交差点から30メートルほど先、大通りを一本入ったところにあった。深夜だが、コンビニの明かりがここまで届いている。
「本当に、ありがとうございます。早瀬、さん……で、いいんですよね? お名前、覚えてます」
「ああ、早瀬湊です。システムエンジニアをやってます」
「システムエンジニア、かっこいいですね。カチッとしてて」
「どこが、ですよ。毎日、数字とにらめっこです。水無月さんは、まだ24歳ですか?」
訊ねてから、湊は失言だったと反省した。女性に年齢を聞くなんて。
しかし、希はあっけらかんと答えた。
「はい、まだ24です。でも、あと3日で、25になります」
湊は足を止めた。バス停まで、あと数歩のところだった。
「俺も、あと二ヶ月で25になります」
「へぇ。奇遇ですね。私たち、同じ『25歳を目前にした人種』だ」
希はそう言って、くすりと笑った。その笑い方は、さっきまでの張り詰めた表情とは違い、彼女を等身大の「若者」に見せた。
「ソロライブ、もうすぐなんですか?」
「来週の土曜日です。期限もあと少し。25歳になる前に、絶対25枚埋めたいんです」
「なぜ、25にこだわるんですか?」
希は、少し遠い目をした。
「25歳って、なんだか大人になりきれない、最後の砦みたいな気がして。ここを超えちゃったら、もう『夢を追う若者』って言い訳が通用しなくなる。だから、この節目で、『私は私で食っていくんだ』って、自分に証明したくて」
その言葉は、湊の胸に、ちくりとした痛みとなって響いた。
自分には、25歳までに達成したいと強く願う、具体的な「夢」も「目標」もない。安定という名の、ぬるま湯に浸かっているだけだ。
「……じゃあ、俺が、その『最後の一枚』を買いますよ」
口から出た言葉は、自分でも驚くほど、自然だった。
希は驚いて、目を見開いた。
「えっ? でも、私、早瀬さんのこと、全然知らないし、曲も聴いたことないですよ?」
「いいんです。別に、音楽が好きだから、とかじゃなくて。その『25本目の傘』のルールが、なんだか、面白いから」
湊は、ただ、彼女の持つ熱に触れてみたくなった。自分の日常にはない、不安定で、でも輝いている熱に。
「それに、俺も25歳を目前にして、ちょっとだけ、安定を外れるのも悪くない気がして」
希はしばし、湊の顔を見つめた後、大きく笑った。
「変な人ですね! でも、ありがとうございます! じゃあ、これで、私の25歳は、最高の雨の日から始まります」
彼女は、持っていたギターケースを地面に置き、小さな紙切れとボールペンを取り出した。
「連絡先、教えてください。詳細を送ります。これは、傘のお礼の連絡先でもあります」
雨は、少しずつ勢いを増していた。深夜25時を過ぎた交差点で、早瀬湊の退屈な安定飛行は、水無月希という名の乱気流に巻き込まれ始めた。
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