25時の交差点

おおりく

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第16話 早朝の歌

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午前5時。夜明け前の交差点で、水無月希の歌声が響き渡った後、早瀬湊は彼女の元へと歩み寄った。

「水無月さん。最高の報酬です。ありがとうございます」

湊は、満面の笑みで言った。徹夜の疲労はあったが、成功の達成感と希の歌声によって、心は満たされていた。

希は、ギターケースを抱え、少し照れたように微笑んだ。

「H.M.さんが、自分の『不安定な美学』で、安定したシステムを救った記念です。あの隠れた25%のバグを見つけられたのは、早瀬さんだけですよ」

「俺も、イラストを始めていなければ、論理だけでコードを見て、あのバグは見つけられなかったでしょう。あなたの歌と、俺の挑戦が、俺の視野を広げてくれた」

希は、彼の手に、温かい缶コーヒーを握らせた。

「さあ、早瀬さん。すぐに帰って寝てください。あなたは、今日一日、システムを安定させた英雄です。でも、英雄にも休息は必要」

「ええ。でも、その前に、一つだけ『不安定な夢の交換会』の残りの議題を」

湊は、冷静な表情に戻った。

「俺は、関口リーダーにイラストの副業を話しました。そして、次は、両親に話します。俺の、この新しい『人生の設計図』を」

希は、真剣な瞳で湊を見つめた。

「それが、早瀬さんの『安定という名の壁』を破る、最も大きな一歩になる。応援しています」

「ありがとう。そして、水無月さんは? 次の不安定な挑戦は?」

希は、ギターケースをトントンと叩いた。

「ポスターが完成したから、次は、そのポスターを持って、東京で最も安定した場所の一つに、突撃ライブをしに行きます」

「最も安定した場所、ですか?」

「ふふ。それは、次の『25時の交差点』の議題にしましょう。楽しみにしていてください」

二人は、夜明けの光が強くなるのを見届け、別れた。湊は、熱いコーヒーを飲み干し、自宅へと向かった。心の中には、「両親への告白」という、新たなプレッシャーと覚悟が満ちていた。


日曜日。早瀬湊は、実家を訪れた。

彼の両親は、公務員を定年退職した父と、今も教職を続ける母だ。リビングは、綺麗に整理整頓され、すべてが「安定」という言葉を体現しているようだった。

「湊、久しぶりね。ちゃんと食べているの? 仕事、忙しすぎない?」母が、心配そうに言った。

「ああ。大丈夫だよ、母さん。システムも安定している」

夕食後、湊は、リビングで寛ぐ両親の前に、意を決して座った。

「父さん、母さん。話したいことがあるんだ」

「なんだ? 昇進か? それとも、そろそろ結婚の報告か?」父が、期待を込めた目で尋ねた。

「違います」湊は、呼吸を整えた。「俺は、イラストレーターの仕事を始めました」

一瞬の沈黙が、リビングを支配した。

「イラストレーター?」母が、戸惑いの表情を浮かべた。

「副業で、週末や夜間に。先週は、イラストで、俺自身の力でお金を稼ぎました」

父は、座り直すと、厳しい表情で言った。

「湊。お前、何を考えているんだ。システムエンジニアという安定した職に就いているのに、なぜ、そんな不安定なことをする? お金なら、十分に稼いでいるだろう」

「お金のためではありません。俺は、論理だけの世界ではなく、自分の感性を試したくなった。イラストを描くことで、俺は、自分の仕事に、もっと本質的な美しさを追求できるようになったんです」

湊は、先日のシステムバグの件と、それをイラストの「無駄のない線」という視点で解決した経緯を、丁寧に説明した。

しかし、父の反応は、予想以上に厳しかった。

「そんな、精神論のような話は聞きたくない。不安定な趣味にのめり込んで、本業を疎かにするつもりか? お前の人生は、安定した未来の設計図が引かれているはずだ。それを、自分のわがままで崩すつもりか?」

「わがままではありません、父さん。これが、俺自身の新しい人生の設計図です」

湊は、バッグから、希の「交差点の絵」を写真に撮ったものを取り出した。

「これが、俺が描いた絵です。この絵が、俺に、安定の中に隠されたバグを見つけさせてくれた。俺は、この不安定な挑戦を、俺の人生の最大の安定にしたい」

母は、写真の絵をじっと見つめた。そこには、彼女の知る、いつも冷静で安定した息子とは違う、情熱的な感情が詰まっていた。

「お父さん。この絵……」母が、父に囁いた。「湊の、本当に描きたい気持ちが伝わってくるわ」

しかし、父は、写真を払いのけた。

「絵を描くのは、趣味で十分だ! お前は、公務員や教師のような、誰にも誇れる安定した職に就いたはずだ。それを、自分の勝手な感性で、危険に晒すな!」

父の言葉は、湊の安定した人生への執着を象徴していた。父にとって、湊の「不安定な挑戦」は、許しがたい裏切りだったのだ。


湊は、父の強い拒絶に、胸を締め付けられる思いがした。

「父さん。俺は、あなたの設計図通りに生きてきました。安定した職業、安定した収入。でも、その安定の中で、俺は『自分の本当にやりたいこと』を見失いかけていた」

「あのね、父さん。システムだって、不安定な挑戦を続けなければ、すぐに陳腐化して、崩壊するんです。人生も同じだ。俺は、25歳になった今、立ち止まってしまった日々を捨てることにした」

「もういい!」父は、立ち上がり、リビングを出て行った。「お前が、その不安定な道を選ぶなら、勝手にしろ。だが、その結果、本業を失うようなことになったら、もう、二度とこの家に帰ってくるな」

湊は、崩れ落ちそうになるのを必死で耐えた。彼は、人生で初めて、最も愛する人から、「不安定な挑戦」を理由に、拒絶されたのだ。

母は、静かに湊の隣に座り、彼の背中をさすった。

「湊。お父さんはね、ただ、あなたを失うのが怖いのよ。安定した未来を失って、あなたが苦しむのを見たくない。あなたの夢を否定しているわけじゃない。ただ、『安定』という名の愛を、あなたに押し付けているだけなの」

「わかっています、母さん。でも、俺は、もう、誰かの描いた設計図通りには生きられない」


湊は、夜遅く、実家を後にした。彼の心は、父との軋轢で重くなっていたが、同時に、「自分の人生を自分で描く」という、強い解放感も感じていた。

彼は、帰りの電車の中で、希にメッセージを送った。

湊:両親に話しました。特に父には、猛反対されました。『不安定な道を選ぶなら、二度と家に帰ってくるな』と。

すぐに返信が来た。

希:H.M.さん……。ごめんなさい。でも、あなたは、誰の設計図も破っていない。あなたが破ったのは、あなた自身の安定への執着だけ。

希:今、どこにいますか? 私も、今からあの交差点に向かいます。ルール1を実行しましょう。

湊が交差点に着いたとき、雨が降り始めていた。深夜1時。25時。

希は、あの濃紺の星空の傘を持って、フェンスにもたれていた。

「水無月さん」

「H.M.さん」

湊は、何も言わず、希から傘を受け取り、夜の雨の中で大きく広げた。濃紺の傘の下に、二人は身を寄せ合った。

「これが、私の新しいルール、『不安定な勇気を忘れないための傘』です」

希は言った。

「H.M.さん。あなたは、今、安定した家を失ったかもしれない。でも、この傘の下には、あなたの新しい人生の設計図が広がっている」

雨音だけが、二人の周りに響く。

湊は、希の肩に手を置き、傘の内側に広がる星空を見上げた。

「水無月さん。俺の『不安定な挑戦』は、もう、引き返せません。そして、俺には、もう、この交差点しか、帰る場所がありません」

希は、静かに頷いた。

「ここは、あなたの『25時の交差点』。あなたが、あなたの人生の不安定な設計図を描き続けるための、非日常のセーフティゾーンです」

雨の中、二人の共犯者は、それぞれの新しい挑戦への誓いを立てた。
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