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第三章 優しい悪夢
第四十二話 讃美歌
しおりを挟むそれは厄災だった。
永遠の春の楽園を、女神の褥を滅ぼさんとする悪意そのものが、蛹より還ったのだ。
地面に落ちたそれは、身体をぬるりと起こし、顎をカチカチと鳴らしながら、虹色の翅を広げる。
屈折した光は、まるでステンドグラスを通したかのごとく神々しく。
腕から伸びる二対の鎌は禍々しく。
その容貌は狂気的なほどに悍ましい。
首を傾げる化け物は、女の顔に蟷螂を混ぜ合わせたかのような歪な見た目をしていた。異常なほどに白い裸体に、虫の脚と膨れ上がった虫の腹――その腹に咲いた無数の目玉が、蜂の子のごとく蠕動を繰り返す。
――上級骸虫「蟷螂の姫」
最深部エリアや「黒の大地」に出現するボス。
「――がああああああああああぁぁっ!」
絶叫。
スノーが、鬼の形相でその化け物に踊りかかった。
数十メートルはあった間合いを一瞬で詰め、神速でハルバードを叩きつける。鉄塊に砲撃を撃ち込んだかのような凄まじい轟音。地面が砕け、朽ち果てた森が震撼する。木々が揺れ、花が散り、空気が破裂し、暴風と化した。
徹甲弾のごとき一撃。
だが、化け物はビクともしていない。
片腕の刃で、破壊的な攻撃を受け止めていた。中級クラスの化け物を一瞬で屠り去るスノーの一撃を――。
鍔迫り合い。両者の身体が、力と力のぶつかり合いで激しく震える。刃と刃が擦れ合い、火花が散った。ゴリゴリと音が響く。軋む。歯を砕かんばかりに噛み締められたスノーの口から、血が溢れる。
「あああぁっ!」
スノーがハルバードを横に流した。体勢を崩した化け物に至近距離から刃を叩きつける。化け物の首に吸い込まれる一撃は、当たる寸前で紙一重にかわされた。翻る化け物の鎌。スノーはハルバードの柄で受け、振り回す。
刃がぶつかり合う。
幾重にも切り結ぶ。幾重にも幾重にも幾重にも幾重にも――。電気ノコギリで鉄を引き裂くような熾烈な音。空に刻まれる残像。消える刃。両者の動きはまるで見えなかった。
「はやく逃げろっ! 俺が、止めているうちに!」
スノーが叫んだ。
その悲痛な声で、俺はようやく我に返った。
「――援護をっ!」
逃げろと言われてもスノーを一人置いていくわけにはいかない。
「邪魔だぁあ! 足手まといだからさっさと全員逃げ帰れ!」
「……だが!」
「いいから行けぇ! 全滅するぞ!」
それでも食い下がろうとした俺の腕をネコヤナギが掴んだ。いつもの眠そうな顔はそこにはない。必死の形相で目を剥きながら、「いいから! スノーちゃんの言うとおりにして!」と叫んだ。
「あれはもう私たちがどうこうできるレベルの敵じゃない! あれは……あれは、災害そのものだ!」
歯を噛み締めながら、椿たちに目を遣る。全員震えていた。まるで、蛇に睨まれたカエルのように。
「なんで……あんな化け物が……」
リンドウが息を荒げながらつぶやく。「勝利の銃」の銃口は地面に向き、龍の意匠は戦意を喪失しているように弱々しく見えた。椿も、リリーも、ネコヤナギも――全員が全員、恐怖に飲まれている。
「――」
あれは、それだけの化け物ということだ。
ゲームでもそうだ。蟷螂の姫は、レベル100を超えるアンサスのフルパーティーでも勝てるかどうか分からないほどの強敵。それと遜色がないとすると、レベル40やそこらの椿たちなど赤子に等しいだろう。一撃で殺されかねないほどの圧倒的な戦力差。
「……くそっ!」
どうしようもない。
俺は震える指先でメニュー画面を開き、コマンドを表示させた瞬間――絶句する。
緊急離脱のコマンド。差し迫った状況のときに、戦闘から離脱したアンサスたちを連れてゲートまで強制離脱できるそのコマンドが――発動できない。
「――なぜだ!?」
俺は泡を食ったように叫んだ。
なぜ発動できない。序盤エリアならボス戦だろうと発動できるはずなのに。
まさか。
脳裏を過ったのは、ワールドストーリーという言葉。ワールドストーリー発令時の通知に、コマンドの仕様が変更されたとあった。
――なんてことを。
「メンター! はやく、緊急離脱を!」
ネコヤナギが悲鳴に近い声で言った。
「ダメだ! 緊急離脱が発動できない! コマンドがそもそも選択できないんだ!」
「そんな……」
「このままゲートまで直接撤退するしかない! 椿っ!」
椿の肩が震える。
「撤退するぞ! リンドウとリリーを叩き起こせ!」
「……ぁ。は、はい!」
どうにか我に返った椿は、震える声でリンドウとリリーに声をかけ、撤退を促す。俺はネコヤナギの手に引かれ、踵を返した。
ネコヤナギが「不沈の盾」を展開し、飛行モードに変形しようとした瞬間だった。
蟷螂の姫が、俺たちの横に現れた。
「――は?」
馬鹿な。なぜ? スノーと戦っているはず。スノーが負けた? そんな。なんで。まだ数十秒も。刃のぶつかり合う音は背後からまだ聞こえて――。
もう一体。別の個体。
「そんな――」
ネコヤナギが目を見開いて言いかけた刹那、化け物の姿が消え、背後からぼとっと音が聞こえた。
両腕が、地面に落ちていた。
純白の槍を掴んだままの、両腕が。
「――」
リリーは呆然と落ちた腕を見て、やがて自分の身体を見る。腕がない。そこにあるはずのものがない。彼女は赤黒い断面を見つめ――。
血が噴き出した。
「あ、ああああぁぁぁっ……! あーっ、アアああああああぁっ!」
悲鳴。絶叫。
パニックになって暴れ狂うリリーは、可憐な表情を苦悶の色に染め、泣き叫んだ。しゃがみ、無い腕で落ちた腕の亡骸を拾おうと必死にバタバタと動かす。
リリーの前に立つ化け物は、愉悦に満ちた表情で嗤った。
壊れたラジオから流れる、歌のような割れた声で――。
「リリー!」
椿が悲鳴を上げる。
俺たちは完全に恐怖に支配された。泣き叫ぶリリーの声でパニックになったリンドウが、狂気的な叫びをあげながら「勝利の銃」を化け物に向け、撃ちまくった。恐怖をのせて放たれた銃弾は、鋼鉄の表皮を跳弾し、枯れた木々を吹き飛ばした。
かすり傷さえ与えられない。
青褪めてわなわなと震えるリンドウは、泣きそうな声を漏らしながら必死に引き金を引きつづけた。全弾撃ち尽くし、スライドが後退した銃を見て、カチカチと歯を鳴らす。
化け物の嘲笑。
「ネコヤナギィ!」
俺の怒声よりも先に、ネコヤナギは「不沈の盾」を構えた。リンドウの前に強固な結界を形成する。
だが、化け物の前には薄いガラスに等しかった。
化け物が振るった腕はやすやすとネコヤナギの結界を破壊し、リンドウの身体を吹き飛ばした。顔面に入った一撃は、何かを砕く音を奏でた。枯れた樹木をなぎ倒したリンドウの首は、あり得ない方向に曲がっていた。ぴくぴくと痙攣しながら、口の端から赤い泡を吹く。
「……ああああ!」
声にならない悲鳴を上げて、走った。
リリーが、リンドウが……このままでは死んでしまう。ネコヤナギがなにかを叫んだ。わからない。聞こえない。リリーとリンドウの笑顔が、強烈に脳裏を過った。
リンドウとリリーのどちらに駆け寄るべきかすらわからず、衝動的に動いた。
そんな俺の前に、化け物は無慈悲に立ち塞がった。
「――ヒ、ヒヒヒヒヒヒヒッ」
化け物の笑み。真っ白になる頭。
遠くから聞こえるスノーの叫び。ネコヤナギの悲鳴。椿の声。
死。
俺の頭を、死が埋め尽くした。
「――」
化け物が、鎌を振るう。
刃が、吸い寄せられるように俺の心臓へと吸い込まれていく――。
死が確定するその瞬間。
俺の間に割って入った椿に、刃が突き刺さった。
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