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熱海の旅館から
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「うわー。綺麗だなー」
海原直也(うなばら なおや)は二十五歳だが、少年のように目を輝かせていた。
ここは熱海の旅館。その庭から浴衣と羽織を着て、直也は嬉しそうに丸い満月を見上げている。
だが、ふと直也は悲しそうに微笑んだ。
「もっと早く来れば良かった……」
本当に、早く来れば良かった。
後悔しているような声は、秋の涼しい風に吹かれて消えて行った。
それ以外は、黒髪黒目で平凡な顔立ち、平均値の身長―――ごく一般の二十代後半の日本人。
おっとりとしている所為か、初対面では『苦労を知らない』だとか『今時の男は、飯も炊くんだぞ』などと、直也は言われるわけだが。 実際の所は、少し波乱万丈だ。
直也が中学三年の時、血を引く両親は離婚した。
父親が言葉の暴力がひどい人で、それに耐えきれなくなった母親が直也と直也の弟を連れて逃げたのだ。
それから一年後、母親は他の男と再婚するのだが―――直也に再婚相手の男はひどく冷たかった。
それでもどうにか高校を卒業し、二年アルバイトをした後、初心者でも良いというIT企業に正社員で入社した。
その企業は東京にあり、田舎から一人越してきた直也だったが、何故かほっとした。
殴られたりはしなかったが、二人目の父親は言葉の暴力を毎日浴びさせられていたからだろう。
それから三年半、一生懸命慣れない東京で頑張ってきた。
だが、そんな直也に異変が起きた。帰りの満員電車を最寄駅で降りた途端、目の前が真っ黒になり倒れたのだ。
『大丈夫ですか?』
心配そうな声を掛けられて、重い瞼をなんとか開いて返事をしたのを今でも直也は昨日の事のように覚えている。
あのカップルが話し掛けてくれなかったら………。
直也は、永遠に目を開けなかったと思っている。
ひどい眩暈にお礼も言えなかった直也に、優しく接してくれた二人への恩は一生忘れないだろう。
何とか家に帰り、風呂に入ろうとしてふと見た鏡に、ガリガリの自身の身体が映ったことも、一生忘れないだろう。
不具合を電話かメールで直接客から聞き、システムを直すその仕事は終電で帰ることがほとんどだった。
それだけだったら良かったが、クレーム対応もその仕事にはつきもので、知らず知らずに直也の精神に来てしまっていたらしい。
倒れたことがきっかけでその仕事を辞め、派遣として会社を転々とし生活をしていた。
今回、上手く仕事が決まらずに煮詰まっていた。
――――熱海の温泉に入りたい。
直也はどうしようもなく、唐突に熱海の温泉に行きたくなった。
なので、思い切って熱海に来てみたのだ。
温泉に入ると、今までの疲れが湯に溶けていくようだった。
自覚がないだけで、実はかなり疲れていたらしい。
温泉後の温まった身体に、一層強い風が吹いた。 するとその風は、羽織と薄い布でできている浴衣の間に侵入を果たし、直也はその冷たさにぶるっと震わせた。
直也は咄嗟に、羽織の合わせ部分を掻き合わせ、首を引っ込ませる。
部屋に入ろう。でないと、風邪を引いて旅が台無しになってしまいそうだ。
――――最後に、もう一度。
寒さに耐えるよう俯いていた顔を上げ、真ん丸いお月様を見る。
「本当に綺麗だ」
思わず呟いしまうほど、オレンジ色に近い黄色でクレーター部分もはっきりしていて、絵に描いたような綺麗な月だった。
ここで第三者が見ていれば、直也が月に愛を囁いてたように見えただろう。
だが、幸いにして先ほどまで通っていた直也以外の客は、今は庭に面している廊下に居ない。
さて帰ろう。直也が踵を返そうとした、そんな時だった。
『見つけた』
耳元で聞こえた少女の声に、直也は身体を跳ねさせた。
たしか、庭に居るのは自分だけで―――そう周りを見渡すが、やはり誰もいない。
気のせいだったのだろうか?
だけど、耳に触れた吐息はやけにリアルだったのに?
どういう事だと、直也が少し首を傾げた瞬間――――。
「え、ええ!?」
大きな声を出さずにはいられなかった。それほど直也は、驚いた。
何故ならば、直也の身体が何かの力で宙に浮いたからだ。
いや。地球の重力と反対になったと言うべきか。足から重力を感じる。
バンジージャンプの後、吊るされているような格好に直也だけなっている。
そう、直也だけ。それを示すように、風に吹かれて庭にある紅葉から葉が一枚、地面へ落ちていく。
直也の髪も、身に纏う羽織の袖も天へと垂れている。
両手で太股まで捲れてしまった浴衣の裾に気づいて、地下鉄の風でスカートが捲れ手で押さえるセクシー女優のように、慌てて押さえた。
――――ど、どうなって?
バクバクとなる心音と呼吸の音が、やけにうるさい。
どう考えても、一般人を巻き込んだテレビのドッキリではなさそうだ。
気づかない内に、自分だけ無重力―――なんて、スケールが大きすぎる。 そんなことを一般人にするはずがない。
自分だけ異常な状態なのに、静か過ぎるこの空間という対比に嫌な予感がヒシヒシとした。
ごくりと、直也は唾を飲む。
また、一筋の強い風が吹いた。
「ッ!?」
するとそれが合図だったかのように、直也が――――落ちた。
しかも、地上へではなく、空へ。
「――――!?」
人は本当に心底驚くと、声を上げる事は元より何もできなくなるらしい。
何もできずに直也は、ビュービューという風の音を聞きながら落ちていく。
先ほどまで、綺麗だと褒めていた月に落ちていくように―――――。
海原直也(うなばら なおや)は二十五歳だが、少年のように目を輝かせていた。
ここは熱海の旅館。その庭から浴衣と羽織を着て、直也は嬉しそうに丸い満月を見上げている。
だが、ふと直也は悲しそうに微笑んだ。
「もっと早く来れば良かった……」
本当に、早く来れば良かった。
後悔しているような声は、秋の涼しい風に吹かれて消えて行った。
それ以外は、黒髪黒目で平凡な顔立ち、平均値の身長―――ごく一般の二十代後半の日本人。
おっとりとしている所為か、初対面では『苦労を知らない』だとか『今時の男は、飯も炊くんだぞ』などと、直也は言われるわけだが。 実際の所は、少し波乱万丈だ。
直也が中学三年の時、血を引く両親は離婚した。
父親が言葉の暴力がひどい人で、それに耐えきれなくなった母親が直也と直也の弟を連れて逃げたのだ。
それから一年後、母親は他の男と再婚するのだが―――直也に再婚相手の男はひどく冷たかった。
それでもどうにか高校を卒業し、二年アルバイトをした後、初心者でも良いというIT企業に正社員で入社した。
その企業は東京にあり、田舎から一人越してきた直也だったが、何故かほっとした。
殴られたりはしなかったが、二人目の父親は言葉の暴力を毎日浴びさせられていたからだろう。
それから三年半、一生懸命慣れない東京で頑張ってきた。
だが、そんな直也に異変が起きた。帰りの満員電車を最寄駅で降りた途端、目の前が真っ黒になり倒れたのだ。
『大丈夫ですか?』
心配そうな声を掛けられて、重い瞼をなんとか開いて返事をしたのを今でも直也は昨日の事のように覚えている。
あのカップルが話し掛けてくれなかったら………。
直也は、永遠に目を開けなかったと思っている。
ひどい眩暈にお礼も言えなかった直也に、優しく接してくれた二人への恩は一生忘れないだろう。
何とか家に帰り、風呂に入ろうとしてふと見た鏡に、ガリガリの自身の身体が映ったことも、一生忘れないだろう。
不具合を電話かメールで直接客から聞き、システムを直すその仕事は終電で帰ることがほとんどだった。
それだけだったら良かったが、クレーム対応もその仕事にはつきもので、知らず知らずに直也の精神に来てしまっていたらしい。
倒れたことがきっかけでその仕事を辞め、派遣として会社を転々とし生活をしていた。
今回、上手く仕事が決まらずに煮詰まっていた。
――――熱海の温泉に入りたい。
直也はどうしようもなく、唐突に熱海の温泉に行きたくなった。
なので、思い切って熱海に来てみたのだ。
温泉に入ると、今までの疲れが湯に溶けていくようだった。
自覚がないだけで、実はかなり疲れていたらしい。
温泉後の温まった身体に、一層強い風が吹いた。 するとその風は、羽織と薄い布でできている浴衣の間に侵入を果たし、直也はその冷たさにぶるっと震わせた。
直也は咄嗟に、羽織の合わせ部分を掻き合わせ、首を引っ込ませる。
部屋に入ろう。でないと、風邪を引いて旅が台無しになってしまいそうだ。
――――最後に、もう一度。
寒さに耐えるよう俯いていた顔を上げ、真ん丸いお月様を見る。
「本当に綺麗だ」
思わず呟いしまうほど、オレンジ色に近い黄色でクレーター部分もはっきりしていて、絵に描いたような綺麗な月だった。
ここで第三者が見ていれば、直也が月に愛を囁いてたように見えただろう。
だが、幸いにして先ほどまで通っていた直也以外の客は、今は庭に面している廊下に居ない。
さて帰ろう。直也が踵を返そうとした、そんな時だった。
『見つけた』
耳元で聞こえた少女の声に、直也は身体を跳ねさせた。
たしか、庭に居るのは自分だけで―――そう周りを見渡すが、やはり誰もいない。
気のせいだったのだろうか?
だけど、耳に触れた吐息はやけにリアルだったのに?
どういう事だと、直也が少し首を傾げた瞬間――――。
「え、ええ!?」
大きな声を出さずにはいられなかった。それほど直也は、驚いた。
何故ならば、直也の身体が何かの力で宙に浮いたからだ。
いや。地球の重力と反対になったと言うべきか。足から重力を感じる。
バンジージャンプの後、吊るされているような格好に直也だけなっている。
そう、直也だけ。それを示すように、風に吹かれて庭にある紅葉から葉が一枚、地面へ落ちていく。
直也の髪も、身に纏う羽織の袖も天へと垂れている。
両手で太股まで捲れてしまった浴衣の裾に気づいて、地下鉄の風でスカートが捲れ手で押さえるセクシー女優のように、慌てて押さえた。
――――ど、どうなって?
バクバクとなる心音と呼吸の音が、やけにうるさい。
どう考えても、一般人を巻き込んだテレビのドッキリではなさそうだ。
気づかない内に、自分だけ無重力―――なんて、スケールが大きすぎる。 そんなことを一般人にするはずがない。
自分だけ異常な状態なのに、静か過ぎるこの空間という対比に嫌な予感がヒシヒシとした。
ごくりと、直也は唾を飲む。
また、一筋の強い風が吹いた。
「ッ!?」
するとそれが合図だったかのように、直也が――――落ちた。
しかも、地上へではなく、空へ。
「――――!?」
人は本当に心底驚くと、声を上げる事は元より何もできなくなるらしい。
何もできずに直也は、ビュービューという風の音を聞きながら落ちていく。
先ほどまで、綺麗だと褒めていた月に落ちていくように―――――。
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