Goodbye, old England

ヒルミチ ヒナカ

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『土曜日の夜は空いてるか? クイーンズ・ホールでドビュッシーの公演があるんだけど、一緒にどうかな』

 もしこれが気の置けない学友から届いた手紙なら、迷わずYesと返しただろう。ついでに夕食を取ることも提案し、我が家に一泊するよう勧めたはずだ。
 あるいは、大学の恩師が自分の娘を誘わせるために送ってきたものなら、やはり同様にYesと書くほかなかっただろう。罪なき淑女に恥をかかせるのは本意ではない。Noを突きつけられるのは男であるべきというのがこの国の主張だ。
 しかし、私はYesを躊躇していた。

『──敬意を込めて。エリオット・G・ハーバート』

 差出人の姿を思い描くように、冒頭からサインまでを幾度も読み返して、ついにペン先を便箋に下ろす。声をかけてくれたことへの感謝と、その日は姪との先約があって出掛けてしまうという言い訳を添えて──大いに迂遠なNoを綴るために。

「ねえグレイ、あなた本気でビオラの誕生日会に行かないつもり? 叔父さまのためにソナチネを弾きますって手紙に書いてあるのに」

 母親の呼び声が手を止めさせた。壁の向こうから手元を覗いていたかのようなタイミングだった。扉は開けず、顔も上げずに、ペン軸で頬を叩きつつ返事をする。

「行かないよ、レティが嫌がるだろうから。彼女、グレイ・バーソロミュー・サヴィルがいくつになっても独り身なのはよからぬ趣味があるせいじゃないかと疑ってる」
「どういうこと?」
「一家に潜む小児性愛者によって、かわいい盛りの我が子が脅かされるかもしれないと警戒してるんだ」
「まあ、やだあの子ったら! ビオラが大事なのはわかるけど、冗談でも言っていいこと悪いことがあるわ。弟をそんなふうに侮辱するのは許しませんとお母さんから伝えておきます。あなただって疚しいことは何もないんでしょう、グレイ?」
「これ以上ないほど清廉潔白さ」

 少なくとも、その疑念に関しては。心休まる土曜の夜に、6歳になる姪のご機嫌取りで疲弊せずに済むのはむしろ喜ばしい。
 そう。揺るぎなきこの大地を蹴り、わざわざ波立つ海に飛び込むなんて馬鹿な真似はするものではない。けれど海というのは恐ろしくも美しく、時に人を魅了して、抗うすべを奪い去るのだ。
 くだらない言葉を紡いでいる間に便箋には大きなインク染みができてしまったので、私はそれを破り捨て、Yesと書くべきかどうか悩むところからやり直す羽目になった。



「何だ、いるじゃないか!」

 どうにかこうにか迂遠なNoを送りつけたにもかかわらず、霧雨が灰色の街を濡らす土曜日の夕方、エリオット・ギルバート・ハーバートは満面の笑みとともにサヴィル家の玄関に飛び込んできた。
 陽光を吸った金の髪も、地中海の青さが煌めく瞳も、このロンドンには眩しすぎる。閊える喉、騒ぐ胸。気の利かない挨拶を返すのにさえ時間を要した。

「やあ、ハーバート……思ってたより早く解放されたんだよ。君こそ、なぜここに?」

 相手はオックスフォードが卒業させることを渋ったほどの優等生だ、手紙の意味が呑み込めなかったわけはない。イレギュラーな事態に賭けて立ち寄ったのか、最初から嘘を見抜いていたか。どちらにせよ、私が彼をその他大勢の人間と同じように遇することができないのは、こうして私の意思に反して真実を突きつけてくるところにも原因がある。
 会ってしまえば明白だ。私はこの聡く美しい友人に会いたかった。それゆえに、会うことを避けていたのだ。
 腹の内はどうあれ、何も知らない純真な少年のように相好を崩し、ハーバートは額に張りつく前髪を掻き上げてみせる。

「ロンドンでの仕事は済んだものの、ひとりで音楽を聴く気分じゃなかったから、帰る前に確かめにきたんだ。何らかの事情で君が在宅してるかもしれないと期待してね。そしたらどうだ、僕も運がいいらしい。ああ、体調が悪いわけじゃないよな? 寝ていたように見えるが」
「大丈夫。移動の疲れが出て、うたた寝をしてただけだ」
「よかった。着替えられるか? もちろん、君が姪っ子の初々しい演奏の余韻に浸りたいなら無理にとは言わないぜ」

 茶目っ気たっぷりに目を光らせる彼に袖を引かれ、なお首を横に振れるほど、私の心は冷徹に出来てはいない。ベルガモットとジャスミンが香る爽やかなコロンも、奥深くに仕舞い込んだYesを引きずり出すには酷く効果的だった。
 気品溢れる白皙の青年と並んでも恥ずかしくないよう、寝起きの独身男から身分相応の紳士に変身する時間である。彼の世話を使用人に任せ、私は階上の自室に向かった。
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