Goodbye, old England

ヒルミチ ヒナカ

文字の大きさ
1 / 4

1

しおりを挟む
『土曜日の夜は空いてるか? クイーンズ・ホールでドビュッシーの公演があるんだけど、一緒にどうかな』

 もしこれが気の置けない学友から届いた手紙なら、迷わずYesと返しただろう。ついでに夕食を取ることも提案し、我が家に一泊するよう勧めたはずだ。
 あるいは、大学の恩師が自分の娘を誘わせるために送ってきたものなら、やはり同様にYesと書くほかなかっただろう。罪なき淑女に恥をかかせるのは本意ではない。Noを突きつけられるのは男であるべきというのがこの国の主張だ。
 しかし、私はYesを躊躇していた。

『──敬意を込めて。エリオット・G・ハーバート』

 差出人の姿を思い描くように、冒頭からサインまでを幾度も読み返して、ついにペン先を便箋に下ろす。声をかけてくれたことへの感謝と、その日は姪との先約があって出掛けてしまうという言い訳を添えて──大いに迂遠なNoを綴るために。

「ねえグレイ、あなた本気でビオラの誕生日会に行かないつもり? 叔父さまのためにソナチネを弾きますって手紙に書いてあるのに」

 母親の呼び声が手を止めさせた。壁の向こうから手元を覗いていたかのようなタイミングだった。扉は開けず、顔も上げずに、ペン軸で頬を叩きつつ返事をする。

「行かないよ、レティが嫌がるだろうから。彼女、グレイ・バーソロミュー・サヴィルがいくつになっても独り身なのはよからぬ趣味があるせいじゃないかと疑ってる」
「どういうこと?」
「一家に潜む小児性愛者によって、かわいい盛りの我が子が脅かされるかもしれないと警戒してるんだ」
「まあ、やだあの子ったら! ビオラが大事なのはわかるけど、冗談でも言っていいこと悪いことがあるわ。弟をそんなふうに侮辱するのは許しませんとお母さんから伝えておきます。あなただって疚しいことは何もないんでしょう、グレイ?」
「これ以上ないほど清廉潔白さ」

 少なくとも、その疑念に関しては。心休まる土曜の夜に、6歳になる姪のご機嫌取りで疲弊せずに済むのはむしろ喜ばしい。
 そう。揺るぎなきこの大地を蹴り、わざわざ波立つ海に飛び込むなんて馬鹿な真似はするものではない。けれど海というのは恐ろしくも美しく、時に人を魅了して、抗うすべを奪い去るのだ。
 くだらない言葉を紡いでいる間に便箋には大きなインク染みができてしまったので、私はそれを破り捨て、Yesと書くべきかどうか悩むところからやり直す羽目になった。



「何だ、いるじゃないか!」

 どうにかこうにか迂遠なNoを送りつけたにもかかわらず、霧雨が灰色の街を濡らす土曜日の夕方、エリオット・ギルバート・ハーバートは満面の笑みとともにサヴィル家の玄関に飛び込んできた。
 陽光を吸った金の髪も、地中海の青さが煌めく瞳も、このロンドンには眩しすぎる。閊える喉、騒ぐ胸。気の利かない挨拶を返すのにさえ時間を要した。

「やあ、ハーバート……思ってたより早く解放されたんだよ。君こそ、なぜここに?」

 相手はオックスフォードが卒業させることを渋ったほどの優等生だ、手紙の意味が呑み込めなかったわけはない。イレギュラーな事態に賭けて立ち寄ったのか、最初から嘘を見抜いていたか。どちらにせよ、私が彼をその他大勢の人間と同じように遇することができないのは、こうして私の意思に反して真実を突きつけてくるところにも原因がある。
 会ってしまえば明白だ。私はこの聡く美しい友人に会いたかった。それゆえに、会うことを避けていたのだ。
 腹の内はどうあれ、何も知らない純真な少年のように相好を崩し、ハーバートは額に張りつく前髪を掻き上げてみせる。

「ロンドンでの仕事は済んだものの、ひとりで音楽を聴く気分じゃなかったから、帰る前に確かめにきたんだ。何らかの事情で君が在宅してるかもしれないと期待してね。そしたらどうだ、僕も運がいいらしい。ああ、体調が悪いわけじゃないよな? 寝ていたように見えるが」
「大丈夫。移動の疲れが出て、うたた寝をしてただけだ」
「よかった。着替えられるか? もちろん、君が姪っ子の初々しい演奏の余韻に浸りたいなら無理にとは言わないぜ」

 茶目っ気たっぷりに目を光らせる彼に袖を引かれ、なお首を横に振れるほど、私の心は冷徹に出来てはいない。ベルガモットとジャスミンが香る爽やかなコロンも、奥深くに仕舞い込んだYesを引きずり出すには酷く効果的だった。
 気品溢れる白皙の青年と並んでも恥ずかしくないよう、寝起きの独身男から身分相応の紳士に変身する時間である。彼の世話を使用人に任せ、私は階上の自室に向かった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

僕の幸せは

春夏
BL
【完結しました】 【エールいただきました。ありがとうございます】 【たくさんの“いいね”ありがとうございます】 【たくさんの方々に読んでいただけて本当に嬉しいです。ありがとうございます!】 恋人に捨てられた悠の心情。 話は別れから始まります。全編が悠の視点です。

悪役Ωは高嶺に咲く

菫城 珪
BL
溺愛α×悪役Ωの創作BL短編です。1話読切。 ※8/10 本編の後に弟ルネとアルフォンソの攻防の話を追加しました。

【完結】恋人になりたかった

ivy
BL
初めてのキスは、 すべてが始まった合図だと思っていた。 優しい大地と過ごす時間は、 律にとって特別で、 手放したくないものになっていく。 けれど……

後宮の男妃

紅林
BL
碧凌帝国には年老いた名君がいた。 もう間もなくその命尽きると噂される宮殿で皇帝の寵愛を一身に受けていると噂される男妃のお話。

2度目の恋 ~忘れられない1度目の恋~

青ムギ
BL
「俺は、生涯お前しか愛さない。」 その言葉を言われたのが社会人2年目の春。 あの時は、確かに俺達には愛が存在していた。 だが、今はー 「仕事が忙しいから先に寝ててくれ。」 「今忙しいんだ。お前に構ってられない。」 冷たく突き放すような言葉ばかりを言って家を空ける日が多くなる。 貴方の視界に、俺は映らないー。 2人の記念日もずっと1人で祝っている。 あの人を想う一方通行の「愛」は苦しく、俺の心を蝕んでいく。 そんなある日、体の不調で病院を受診した際医者から余命宣告を受ける。 あの人の電話はいつも着信拒否。診断結果を伝えようにも伝えられない。 ーもういっそ秘密にしたまま、過ごそうかな。ー ※主人公が悲しい目にあいます。素敵な人に出会わせたいです。 表紙のイラストは、Picrew様の[君の世界メーカー]マサキ様からお借りしました。

目線の先には。僕の好きな人は誰を見ている?【高瀬陸×一ノ瀬湊 編】

綾波絢斗
BL
東雲桜花大学附属第一高等学園の三年生の高瀬陸(たかせりく)と一ノ瀬湊(いちのせみなと)は幼稚舎の頃からの幼馴染。 湊は陸にひそかに想いを寄せているけれど、陸はいつも違う人を見ている。 そして、陸は相手が自分に好意を寄せると途端に興味を失う。 その性格を知っている僕は自分の想いを秘めたまま陸の傍にいようとするが、陸が恋している姿を見ていることに耐えられなく陸から離れる決意をした。

勇者様への片思いを拗らせていた僕は勇者様から溺愛される

八朔バニラ
BL
蓮とリアムは共に孤児院育ちの幼馴染。 蓮とリアムは切磋琢磨しながら成長し、リアムは村の勇者として祭り上げられた。 リアムは勇者として村に入ってくる魔物退治をしていたが、だんだんと疲れが見えてきた。 ある日、蓮は何者かに誘拐されてしまい…… スパダリ勇者×ツンデレ陰陽師(忘却の術熟練者)

【完結】言えない言葉

未希かずは(Miki)
BL
 双子の弟・水瀬碧依は、明るい兄・翼と比べられ、自信がない引っ込み思案な大学生。  同じゼミの気さくで眩しい如月大和に密かに恋するが、話しかける勇気はない。  ある日、碧依は兄になりすまし、本屋のバイトで大和に近づく大胆な計画を立てる。  兄の笑顔で大和と心を通わせる碧依だが、嘘の自分に葛藤し……。  すれ違いを経て本当の想いを伝える、切なく甘い青春BLストーリー。 第1回青春BLカップ参加作品です。 1章 「出会い」が長くなってしまったので、前後編に分けました。 2章、3章も長くなってしまって、分けました。碧依の恋心を丁寧に書き直しました。(2025/9/2 18:40)

処理中です...