4 / 4
4
しおりを挟む
明かりを点けるのも、湿気で重くなったジャケットを脱ぐのも煩わしかった。
幸い不都合はなかった。玄関扉を閉めると同時に、私は彼というぬくもりに縋りついていた。薄い背中に両腕を回し、白い首筋に鼻先を埋め、立ち尽くしたまま全身で彼の存在を感じていた。彼も無言で私の体温を受け止め、血潮をどくどくと響かせていた。
上品なコロンは落ちきり、ふたりとも同じ雨のにおいがする。髪も服もぐしゃぐしゃで、喋りさえしなければ英国紳士の様式は一欠片もない。固く閉ざされ、静まり返った空間に、私たちを邪魔するものは何もなかった。
彼の唇は肌よりもやわらかな弾力があり、それを自分の唇で確かめるのが不思議な感覚だった。叡智を語るためにあるそれが呼吸のたびに私を呼び、無粋なサヴィルの家に私と彼だけの空間を構築していった。
交わる舌は蕩けるほど熱く、零れる吐息は蜜のように甘い。私を映す円い海はこれまでに見たどんな光景よりも鮮麗で、胸に迫ると同時に罪悪感を募らせた。
「……すまない。もっと早くにこうしておくべきだった」
「謝罪が聞きたいわけじゃない」
半ば無意識に呻いた私に、彼が耳元で囁く。ここに至って何を求められているかがわからないほど私も愚鈍ではない。
雨と汗に濡れた額を重ね、宝箱から大切なものを取り出すように、禁じていた想いを解き放つ。
「エリオット。君を、愛している」
腕に一層の力を込め、頬を寄せる──それだけだった。全身余すところなく口づけ、できる限りの愛撫を施し、精が尽きるまでまぐわうことを願ってきたにもかかわらず、私はそれ以上動けなかった。浅いキスが、繰り返される名前が、指先を充足感で痺れさせた。何もできないことの心地よさは、微睡みの間際によく似ていた。
あるいは、過去に見てきた狂おしい夢が、すべて虚しさに紐付いていたことも理由に挙げられるのかもしれない。いずれにせよ私は満ち足りていて、この幸福を否定する我が国を恨めしく感じることすらできなかった。
訥々とした告白に目で頷きながら、彼はほとんど声にならない声で私を抱き締めた。
「僕も……君のためなら何をしてもいいと思っていた。戦うことも逃げることも、どんな困難も厭わないと」
言葉に秘めたる不穏な影と裏腹に、広がっていくのは凪いだ笑みである。このロンドンにはもったいない、春のように晴れやかで、澄みきった笑顔。
「今はただ、この瞬間が永遠となることを祈るばかりだ」
その目映さに瞬きを忘れる。この腕に抱いた男が自分の愛する人であることが、何よりも誇らしかった。揺らめく海の色は、降り注ぐ日光を照り返したもの。彼さえいてくれれば、いかなる荒屋もきっと、愛を育む揺り籠となるのだろう。
「──しかし、我ながら陳腐な感傷ではあるな」
小さな溜息とともに彼は私の衣服の乱れを直し、ポケットの上から懐中時計に触れた。
「じきに僕は君のいないブライトンに帰り、君は僕のいないロンドンで日々を過ごす。もしかすると今日の出来事は、霧が見せた一夜の幻だったのではないかと疑心暗鬼に陥りながらね」
「なら、今度は私がブライトンに行こう。君と寄り添える場所があるといいんだが」
眩しげに顔を上げた彼の頬を掌で包む。
彼はずっと待ってくれていた。愛おしい手を引いて一歩を踏み出したのは私だ。果敢に進み続けるか、その場に留まるか。今その決断は下せなくとも、手を離すことだけはしたくなかった。
「だから……夜が明けても、私と恋をしてくれるか」
絡まり合う指。答えは唇のぬくもりで充分だ。彼と出逢ってから最も長い沈黙が、激しくなる風雨を覆い隠した。
寝室に朝の光が射し込むまで、私たちは嵐がロンドンを通り過ぎたことにも気がつかなかった。
幸い不都合はなかった。玄関扉を閉めると同時に、私は彼というぬくもりに縋りついていた。薄い背中に両腕を回し、白い首筋に鼻先を埋め、立ち尽くしたまま全身で彼の存在を感じていた。彼も無言で私の体温を受け止め、血潮をどくどくと響かせていた。
上品なコロンは落ちきり、ふたりとも同じ雨のにおいがする。髪も服もぐしゃぐしゃで、喋りさえしなければ英国紳士の様式は一欠片もない。固く閉ざされ、静まり返った空間に、私たちを邪魔するものは何もなかった。
彼の唇は肌よりもやわらかな弾力があり、それを自分の唇で確かめるのが不思議な感覚だった。叡智を語るためにあるそれが呼吸のたびに私を呼び、無粋なサヴィルの家に私と彼だけの空間を構築していった。
交わる舌は蕩けるほど熱く、零れる吐息は蜜のように甘い。私を映す円い海はこれまでに見たどんな光景よりも鮮麗で、胸に迫ると同時に罪悪感を募らせた。
「……すまない。もっと早くにこうしておくべきだった」
「謝罪が聞きたいわけじゃない」
半ば無意識に呻いた私に、彼が耳元で囁く。ここに至って何を求められているかがわからないほど私も愚鈍ではない。
雨と汗に濡れた額を重ね、宝箱から大切なものを取り出すように、禁じていた想いを解き放つ。
「エリオット。君を、愛している」
腕に一層の力を込め、頬を寄せる──それだけだった。全身余すところなく口づけ、できる限りの愛撫を施し、精が尽きるまでまぐわうことを願ってきたにもかかわらず、私はそれ以上動けなかった。浅いキスが、繰り返される名前が、指先を充足感で痺れさせた。何もできないことの心地よさは、微睡みの間際によく似ていた。
あるいは、過去に見てきた狂おしい夢が、すべて虚しさに紐付いていたことも理由に挙げられるのかもしれない。いずれにせよ私は満ち足りていて、この幸福を否定する我が国を恨めしく感じることすらできなかった。
訥々とした告白に目で頷きながら、彼はほとんど声にならない声で私を抱き締めた。
「僕も……君のためなら何をしてもいいと思っていた。戦うことも逃げることも、どんな困難も厭わないと」
言葉に秘めたる不穏な影と裏腹に、広がっていくのは凪いだ笑みである。このロンドンにはもったいない、春のように晴れやかで、澄みきった笑顔。
「今はただ、この瞬間が永遠となることを祈るばかりだ」
その目映さに瞬きを忘れる。この腕に抱いた男が自分の愛する人であることが、何よりも誇らしかった。揺らめく海の色は、降り注ぐ日光を照り返したもの。彼さえいてくれれば、いかなる荒屋もきっと、愛を育む揺り籠となるのだろう。
「──しかし、我ながら陳腐な感傷ではあるな」
小さな溜息とともに彼は私の衣服の乱れを直し、ポケットの上から懐中時計に触れた。
「じきに僕は君のいないブライトンに帰り、君は僕のいないロンドンで日々を過ごす。もしかすると今日の出来事は、霧が見せた一夜の幻だったのではないかと疑心暗鬼に陥りながらね」
「なら、今度は私がブライトンに行こう。君と寄り添える場所があるといいんだが」
眩しげに顔を上げた彼の頬を掌で包む。
彼はずっと待ってくれていた。愛おしい手を引いて一歩を踏み出したのは私だ。果敢に進み続けるか、その場に留まるか。今その決断は下せなくとも、手を離すことだけはしたくなかった。
「だから……夜が明けても、私と恋をしてくれるか」
絡まり合う指。答えは唇のぬくもりで充分だ。彼と出逢ってから最も長い沈黙が、激しくなる風雨を覆い隠した。
寝室に朝の光が射し込むまで、私たちは嵐がロンドンを通り過ぎたことにも気がつかなかった。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
僕の幸せは
春夏
BL
【完結しました】
【エールいただきました。ありがとうございます】
【たくさんの“いいね”ありがとうございます】
【たくさんの方々に読んでいただけて本当に嬉しいです。ありがとうございます!】
恋人に捨てられた悠の心情。
話は別れから始まります。全編が悠の視点です。
2度目の恋 ~忘れられない1度目の恋~
青ムギ
BL
「俺は、生涯お前しか愛さない。」
その言葉を言われたのが社会人2年目の春。
あの時は、確かに俺達には愛が存在していた。
だが、今はー
「仕事が忙しいから先に寝ててくれ。」
「今忙しいんだ。お前に構ってられない。」
冷たく突き放すような言葉ばかりを言って家を空ける日が多くなる。
貴方の視界に、俺は映らないー。
2人の記念日もずっと1人で祝っている。
あの人を想う一方通行の「愛」は苦しく、俺の心を蝕んでいく。
そんなある日、体の不調で病院を受診した際医者から余命宣告を受ける。
あの人の電話はいつも着信拒否。診断結果を伝えようにも伝えられない。
ーもういっそ秘密にしたまま、過ごそうかな。ー
※主人公が悲しい目にあいます。素敵な人に出会わせたいです。
表紙のイラストは、Picrew様の[君の世界メーカー]マサキ様からお借りしました。
目線の先には。僕の好きな人は誰を見ている?【高瀬陸×一ノ瀬湊 編】
綾波絢斗
BL
東雲桜花大学附属第一高等学園の三年生の高瀬陸(たかせりく)と一ノ瀬湊(いちのせみなと)は幼稚舎の頃からの幼馴染。
湊は陸にひそかに想いを寄せているけれど、陸はいつも違う人を見ている。
そして、陸は相手が自分に好意を寄せると途端に興味を失う。
その性格を知っている僕は自分の想いを秘めたまま陸の傍にいようとするが、陸が恋している姿を見ていることに耐えられなく陸から離れる決意をした。
【完結】言えない言葉
未希かずは(Miki)
BL
双子の弟・水瀬碧依は、明るい兄・翼と比べられ、自信がない引っ込み思案な大学生。
同じゼミの気さくで眩しい如月大和に密かに恋するが、話しかける勇気はない。
ある日、碧依は兄になりすまし、本屋のバイトで大和に近づく大胆な計画を立てる。
兄の笑顔で大和と心を通わせる碧依だが、嘘の自分に葛藤し……。
すれ違いを経て本当の想いを伝える、切なく甘い青春BLストーリー。
第1回青春BLカップ参加作品です。
1章 「出会い」が長くなってしまったので、前後編に分けました。
2章、3章も長くなってしまって、分けました。碧依の恋心を丁寧に書き直しました。(2025/9/2 18:40)
【完結】義兄に十年片想いしているけれど、もう諦めます
夏ノ宮萄玄
BL
オレには、親の再婚によってできた義兄がいる。彼に対しオレが長年抱き続けてきた想いとは。
――どうしてオレは、この不毛な恋心を捨て去ることができないのだろう。
懊悩する義弟の桧理(かいり)に訪れた終わり。
義兄×義弟。美形で穏やかな社会人義兄と、つい先日まで高校生だった少しマイナス思考の義弟の話。短編小説です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる