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第17章 決戦前

第202話 悪魔の囁き

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 温かい布団の中であったが、エリー王女の体は寒い冬の中にいるかのようにガチガチと震えていた。両手を肩に回し、必死に抑え込むも収まる気配はない。不安や恐怖の冷たい沼にずぶずぶと引きずり込まれたかのようだった。

 深い沼は、絶望しかない。

 直接ぶつけられたディーン王子の狂気じみた瞳や乱暴な行為は、エリー王女を深く傷つけた。以前も別の者に襲われたことはあったが、その出来事もディーン王子が裏で手を引いていたものである。

 父や国、大切な人たちを奪い、それを盾に脅してくるディーン王子。一つ一つ思い返していく内に、憎悪と怒りがふつふつと湧き上がってきた。



――――あの人さえいなければ。



 エリー王女は、強く強く心から願った。
 無力な自分をいつも以上に責め立て、負の感情がエリー王女の心を支配する。



『ならば復讐するか?』



 自分の恐ろしい考えに賛同するかのように、頭上から突如声が降ってきた。胸に突き刺さるその声と言葉。あまりにも突然のことに驚き、総毛立つ。



『お前のその手で終らせることが出来るのではないか?』



 嬉しそうなその声は、ソルブ。いや、今はバフォールの声だった。エリー王女は布団の中で硬直している。



『あいつが憎いのだろう? お前から何もかもを奪うあいつを許せないと心が叫んでいるぞ』



 笑う気配がする。



『これからもっと多くの血が流れる……お前の大切なあいつも……』



 ピクリとエリー王女が反応を示した。



『それでもお前はここで泣いているだけなのだな……無力な自分を責めるだけ』



 バフォールの言っていることは何一つ間違っていない。いつの間にか真剣に耳を傾けていた。



『だが、その怨みや憎しみ、怒りはお前の力となろう』



――力に……。



『そうだ。ではお前に贈り物をあげよう。なに、これは契約ではないのだから、貰ったからといって身体を取ったりはしない』



 抱き締めた自分の体と腕の間に何か硬いものを感じた。その瞬間、扉を叩く音が聞こえ、部屋に誰かが入ってくる気配がする。バフォールがいるにも関わらずその者から何の反応もない。不思議に思い、恐る恐る布団から顔を出した。

「大丈夫ですか? お怪我は?」

 そこには気遣わしげに見つめるマーサがいた。寝たまま周りを見渡すが誰もいない。

「……バフォールは?」
「いえ、私は何処にいるのかは存じ上げません。如何されましたか?」

 先程の声は紛れもなくバフォールだった。そして、胸に抱いているコレが何よりの証拠。マーサに気が付かれないようにそっと枕の下に隠した。

「いえ……気が動転して……」
「そうですね……」

 マーサはエリー王女頭を優しく撫でる。いつの間にか体の震えも収まっており、マーサが体に異変がないかを調べている間、エリー王女は先ほどのことを考えていた。

――――私の手で終わらせることが出来る……?

 ディーン王子へ対する感情が支配し、冷静さを失ったエリー王女は、悪魔の言葉に耳を傾けてしまっていた。



 ◇

「今日は一日城でゆっくりしていた方が良い」
「いえ。この城にずっといる方が気が滅入ってしまいます。それに少しでも民のために祈りを捧げたいのです」
「……わかった」

 アランはエリー王女の気持ちを汲み、外出することを決めた。
 今回はお忍びではなく王女として城下に降りる。ローンズ王国の対応やディーン王子の対応のおかげか王都の民から国への反感はほとんどない。それでも、エリー王女に何かあっては危険だと多くの兵士を用意した。

「アラン。今は復興を優先してください。私が行動することによって多くの手を煩わせてしまっては意味がありません。アランとビルボート二人だけで参ります」
「それは流石に――」
「一台だけ馬車の用意を。私は民も二人も信頼しております」

 意思を尊重し、エリー王女からは見えない形で護衛を付け、城下に降りた。
 街が襲われてから一週間以上経つが、その状況は今も酷かった。焼け落ちた多くの家屋が今も手付かずの状態で残っている。それでも人々は協力し合い、毎日復興に取り組んでいた。

 馬車の中からその光景を観ていたエリー王女が胸元をぎゅっと掴む。

「この元凶はすべてディーン王子なのですね……」

 目の前に座るアランやビルボートに聞こえるか分からないほど小さな声で呟いた。


 ◇

 着いた場所は中心都市から外れた丘の上に立つ慰霊碑。今回、多くの人や動物などの犠牲を出したため、魂を鎮めるために建てられた石碑である。黒く大きな四角い柱のような石碑には、多くの名前が刻まれていた。

 慰霊碑の前で嘆き悲しむ人々。そんな中、王宮の馬車が一台停まった。何事かと、一人、また一人と皆が注目をし始める。
 馬車の中から男性が二人降りてきて、その内の一人が馬車の中に向かって手を差し伸べた。黒いレースの手袋をした細い手が最初に見え、次に濃染黒の品の良いシンプルなドレスを身に纏ったエリー王女が出てきた。

 その姿にその場にいた一同が息を飲む。

 初めて観るエリー王女は、憂いを帯びたその表情と相まってか、とても美しく、また王女という目に見えない力を感じさせた。三人が静かにゆっくりと慰霊碑に近付くと、近くにいた人々は自然と道を開ける。

 慰霊碑を見つめ膝をつくエリー王女に習い、アランとビルボートも後ろで膝をついた。三人は手を組み、冥福を祈る。それはとても長い時間だった。

 その姿はとても印象深く、エリー王女の心を表しているかのようだった。アランとビルボートが立ち上がってもなお、エリー王女は動こうとしなかった。

 彼らを守ることが出来なかったことに対して、エリー王女は心から詫びていた。しかし、どんなに詫びても許されないような気がした。そして今も人々を驚異の中から救い出せていない。本当は彼らに会わす顔などないのだ。それでも現実を見なくてはいけない。目を反らしてはいけないのだと、半分は自分への戒めをしに来たのかもしれない。

「エリー様……」

 アランが耳元で声をかけるとやっと顔を上げた。その顔は涙で濡れている。エリー王女はハンカチで涙を拭うと、この場にいる一人一人の手を取り、謝罪と励ましの言葉をかけていった。人々はその行動に驚き、恐縮をするもののエリー王女の心遣いに感激をした。そんな彼らはエリー王女に胸の内を涙ながらに語る。



 どうしてこんなことになってしまったのかと――――。



 バフォールの言うとおり元凶を絶たなければ、また多くの血が流れるかもしれない。あの人を野放しにしてはいけない。

 彼らの痛みを肌に感じたエリー王女は、決意を固めてしまうのだった。


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