帝華大学物語

風城国子智

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挑戦状

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 既にくたびれている鞄から取り出した本の間から、折り畳まれた白い紙が零れ落ちる。
「何だ、これ?」
 床のラグの上に落ちたその紙を秀一しゅういちより先に拾い、本やノートが散乱するテーブルの上に置き広げた友人、あきらの怪訝な声に、秀一は思わず口の端を上げた。
「読めないぞ、これ」
 一応、日本語なのだが。拾った紙を秀一に差し出した亮の下がった口の端に頷き、受け取った四つ折りの紙のしわを伸ばす。少し斜め気味の手書き文字で書かれているのはいずれも、数学の問題、五題。全て証明を要求している問題だ。どこかで擦ってしまったのか滲みが見える数式に、秀一は目を細めた。この紙を受け取ったのは、今日の午後。線形代数の演習の時に後ろの奴から手渡された。差出人の名前は無い。
「『回してくれ』って、頼まれただけだから」
 この紙を秀一に突き出した、後ろの席の学生の言葉を、頭の中で反芻する。帝華大学理工学部に入学して二月、授業では黒板が見えやすい教室前方に陣取り、数学科特有の、授業の補完として様々な問題を解いていく演習の時間は、計算問題を無視して難しい証明問題ばかりを皆の前で解く。そんな秀一を煙たく思っている奴も、いるだろう。『挑戦状』にしか見えないこの紙が届けられた理由にだけは、秀一にも何となく察しがついていた。
「で、解けたのか?」
 秀一がテーブルの脇に置き直した紙をもう一度、口をへの字に曲げながら眺めた亮がようやく、数学の問題だと理解した問いを発する。
「真ん中だけ解けない」
 その亮の、掻き上げたまま戻っていない跳ねた髪に、秀一は悔しさを吐いた。
 始めの二つは、高校時代に図書館で何度も読んだ数学雑誌に類似の問題が載っていたのを覚えている。四番目と五番目は、亮と約束していた時間まで籠もっていた図書館で、解析学と代数学の分厚い本をひっくり返して見つけた定義と定理で何とか解けた。だが、三番目の、この問題は、どんなに頭を捻っても解けない。どうすれば、解けるのだろう? もう一度、紙の真ん中に並ぶ斜めの文字を睨み、秀一は唸り声を上げた。
「おい、雨宮あめみや
 思考に去来する数式の間に、情けないほど低い亮の声が割り込む。
「唸ってないで、俺のレポート、手伝ってくれよ」
 そうだった。亮の部屋に呼び出された理由を思い出し、数式を何とか脇に押しやる。
「経済、って、文系だろ? なのに何で数学必須なんだよ」
 ぼやきながらペンで髪を掻き上げた亮に、秀一は再び口の端を上げた。普段は目立たないが、数学は、意外な場面で意外に豊富に利用されている。認識が甘い。
「レポート書き終わらないと、今週末舞子まいこと一緒に映画観に行けないんだ、雨宮。だから、頼む」
 亮の幼馴染で秀一も知っている女性の名前が亮の口から零れ落ちる。邪魔してやろうか。意地悪な考えを心の奥に押し込め、秀一は開いた本の上の、亮のレポートを作成するために必要な数式を指差した。

 次の週。
 線形代数の演習が始まる前に、秀一は教室の一番後ろの席に陣取っていた男子学生の横に立った。
「これ」
 読んでいた数学雑誌から目を離した学生の机の上に、秀一自身の解答を付け加えた件の紙を叩きつけるように置く。
「どうしたら解けるんだ?」
 逃げたくなる感情を堪えながら、秀一は小さな声を出した。
 この紙を受け取ってから一週間、考えに考え抜いたが、それでも、真ん中の問題だけ解けない。悔しいが、答えを訊くしかない。斜め気味の文字から、解析学の演習で秀一が難しいと感じていた証明問題をいとも簡単に解いた涌井わくいという名の学生からの挑戦状だと気付いた秀一は、唇の震えを何とか止め、涌井の、自分を見上げている鋭い視線を睨んだ。
「俺も知らない」
 だが。次に響いた、あっけからんとした涌井の声に、机に置いた紙の真ん中を叩いていた指が止まる。
「解けたら、賞金がもらえるぜ」
 その止まった指から、紙がするりと抜け落ちた。
「他は、解けてるな」
 バカにするな。ある意味傲慢な涌井の言葉に、全身が熱くなる。だが。
「これ、貸してやる」
 伯父のだから、遠慮はいらない。その言葉と共に不意に突きつけられた、先程まで涌井自身が読んでいた数学雑誌に、秀一の心は一瞬、動きを止めた。
「あ、ああ、……ありがとう」
 高いから、秀一の小遣いでは、数学雑誌を定期的に購読することはできない。図書館では、雑誌は禁帯出だ。その雑誌が、自分の手の中にある。横の秀一を無視するように演習用の本を取り出した涌井の、にやりと笑った横顔に、秀一は無意識に頭を下げた。
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