帝華大学物語

風城国子智

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昔の事

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「ねえ、何で飲まないの?」
 いきなりの甲高い声と共に、柔らかい物体が涌井わくいと友人である雨宮あめみやとの間に割って入ってくる。女特有の脂粉の香りが鼻につき、涌井は思わず顔を顰めた。
 派手な女だ。ぱっと見でそう、感じる。こんな女がクラスに居たのか? 見たことは無いが、というのが二番目の感想。涌井や雨宮が所属する、帝華ていか大学の数学科には相応しくない、というのが感想の三番目。
 だから、というわけでもないのだが。
「飲んでるよ」
 殊更大げさに、持っていたビールジョッキを振る。大学三年になって初めての、学科の親睦会だ。授業は始まったばかりだし、レポートもテストもまだまだ先の話。飲まない方がどうかしている。……一人を除いて。
「涌井君のことを言ってるんじゃないの」
 涌井の、突然現れた女に対する嫌悪感が態度に出ていたのか、女は涌井を睨み、横でせっせと食べ物を口に運んでいた雨宮の方に持っていたビール瓶を向けた。
「いや、俺は……」
 その時になって初めて、雨宮は乱入してきた女に気付いたようだ。はっとして女を見、心底迷惑そうに首を振る。だが。女を見たときの雨宮の顔が少し赤らんだのを、涌井は見逃さなかった。
「ビールがダメならもっと軽い飲み物も有るよ」
 ビール瓶をテーブルに置いた女が、丁度店員が持って来た茶色の液体が入ったグラスを雨宮に勧める。多分ウーロンハイだ。そう、涌井が気付いたのは、雨宮が勧められた液体を飲み干した後だった。

 それで、結局。
「……ごめんなさい」
 大学近くの涌井の下宿。その畳敷きの床で丸くなって平和に眠っている雨宮の横で、女が涌井に謝る。
「良いからもう帰れ」
 しゅんと下を向く女に向かって、涌井は静かにそれだけ、言った。
 雨宮は酒に弱い。ウーロンハイ一杯で眠ってしまう。いつもつるんでいる涌井だけはそのことを知っていた。雨宮が意図的にあるいは間違えて酒を飲む度に、体格の違わない雨宮を背負って下宿へ帰り、一晩泊まらせているのだ。もう身に染みていると言って良い。……不可解なのは。
「もう帰れよ。遅くなるぞ」
 もう一度、突き放すように言う。だが女は、涌井の言葉が聞こえなかったかのように眠っている雨宮の傍に座っていた。彼女の意図が、分からない。思わず首を傾げる。だが、狭い下宿にこの女まで泊める余裕は無い。涌井は溜め息をついて立ち上がると、玄関へ行き、同じクラスの女友達に連絡を入れた。

 更に不可解なことに。次の日から、女は、何故か雨宮に付き纏った。
 授業のときも演習のときも、教卓の前に座る雨宮の横に陣取り、質問をしたり一緒に演習問題を解いたりしている。雨宮の方も、迷惑そうな顔をしているが内心満更でもないのだろう、邪見には扱っていないように、涌井には、見えた。
 危ないな、と思う。雨宮の知っている女は、自分の母親と高校時代の腐れ縁友人だけだと、聞いたことがある。女に免疫が無い雨宮だから、いきなりすり寄って来た美人に鼻の下を伸ばしてしまっているのだろう。訳の分からない女に引っかかるとは、我が友人ながら情けない。自分の横でいちゃつきながら演習問題を解いている二人を見ながら、涌井はそっと溜め息をついた。まあ、友人でもありライバルでもある雨宮の勉学に対する態度が低下しなければ、自分としては問題ない訳だが。
 ……これは、頭の良い雨宮に対する嫉妬ではない。沸き上がって来た自分自身への問いに、冷静に答えを返す。女性は好きだが、あの女のように図々しい女は嫌いだ。

 そんなある日。
「涌井君!」
 晴れた日の午後、不意に名前を呼ばれて、顔を上げる。
 例の女が、中庭のベンチで雑誌を読んでいた涌井の方に近付いて来るのが見えた。その横に、最近いつも一緒にいる雨宮は居ない。どうしたのだろうか? そう、疑問に思う前に、女は涌井の前に立つと不意打ちで涌井の身体にその柔らかい腕を回した。柔らかい胸の感触が、涌井の男の感情を逆撫でる。だが、激高した感情は、すぐに、疑問によって冷静さを取り戻した。この女は何故、急にこのような態度を取ったのだろうか? それが分からない限り、女の手に乗るわけには、いかない。
 と。視線を感じ、顔を上げる。視界に入った人物の姿に、涌井は愕然とした。
〈雨宮!〉
 ついさっき講義棟から出て来たらしい、ほっそりとした影が、涌井達を見つめている。その、見たことも無いほど大きく見開かれた瞳に、涌井は思わず唇を噛んだ。
 勢い良く、女の身体を突き放す。仰け反るように涌井から離れた女の、それでも満足そうな笑みが、涌井をぞっとさせた。

 それから、しばらくして。
 雨宮が女を襲ったという噂が、涌井の耳に入って来た。なんでも、酒に酔った雨宮が女の下宿に泊まった時に、嫌がる女を無理矢理犯したらしい。
〈馬鹿だろ〉
 その噂を、一蹴する。一杯のウーロンハイで一晩眠ってしまう雨宮が、女に嫌がらせできる訳が無い。それよりも。涌井に抱きついた後も、噂が立った後も、何事も無かったかのように雨宮に付き纏う女の方に、正直呆れる。何を考えているのか、分からない。女が横に立つ度に困った顔で自分の方を見る雨宮に、涌井はふっと息を吐いた。……仕方無い。直接、話し合うしかない。
 しかしながら。……始終雨宮に付き纏っている女を、何とかする必要がある。
 言い争いをしているような雨宮と女を見ながら、こういうときだけ鋭く回る頭脳で、涌井は対策を練った。

 その日の夕方。涌井は先回りして雨宮の家に行った。
 雨宮は大学から四駅離れた実家から大学へ通っている。当然、涌井は雨宮の家族とも仲良くしている。だから違和感無く、涌井は雨宮の家のリビングで悠然とコーヒーを啜っていた。
「何故、此処に居る?」
 当然のことだが、帰って来た雨宮の驚愕が、涌井の耳に響く。雨宮とこんな風に話すのも久しぶりだ。涌井はにやりと笑いたくなるのを堪えることができなかった。
「まあ、座れよ」
「ここは俺の家だぞ」
「{悠子}(ゆうこ)さんに留守番を頼まれたんだ。茶菓子を買ってくるって」
 雨宮の家を突然訪ねた涌井が深刻そうな顔で俯いただけですぐに何かを察した雨宮の母が、雨宮の弟である{勇太}(ゆうた)を連れて買い物に行った。それが真相。だがそのことは雨宮には言わず、涌井はにやりと口の端を上げた。二人きりで話す時間は、たっぷりある。
「あの女に、何を言われているんだ?」
 単刀直入に、訊く。涌井の問いに、雨宮は肩を竦めた。
「中間試験をカンニングさせろ、ってさ」
 やはり、な。半ば予想していた答えに、ふっと笑う。顔も頭も良いが数学の事しか考えていない雨宮に付き纏う理由は、大体それくらいしか無い。
「させる気か?」
「まさか」
 危惧していた問いに、雨宮はあっさりと否定の答えを返した。
「これ以上付き纏われるのも迷惑だ」
 そう言った雨宮が、涌井の方を見る。それだけで、涌井は雨宮が何を考えているのか察しがついた。やはり、雨宮は雨宮だ。馬鹿な女と付き合うより、冷静に冷酷に策略を巡らせる方が、似合っている。
「手伝うぜ」
 にやりと、笑う。
「ありがとう」
 雨宮もにやりと笑い、そして涌井に向かってらしくなく、頭を下げた。

 そして、中間試験当日。
 女は当然のように、雨宮の横に座った。その女の横に、涌井が座る。
「ねえ、見せてよ」
 試験開始からしばらくして、女の小声が、涌井の耳にも入って来た。
 大丈夫か? 目だけを動かして、雨宮の方を見る。雨宮は女などそこに居ないかのように、一心不乱に問題を解いていた。女を無視する作戦だったが、雨宮の集中力は群を抜いている。『作戦』を立てる必要も無かったか。涌井は内心にやりと笑った。
 不意に、女の腕が大きく動く。実力行使か。そう、理解する前に、女の肘が涌井の鼻先をかすめた。
「うわっ!」
 思わず、叫ぶ。
「何をしているっ!」
 すぐに、試験監督の先生が三人の前に仁王立ちになった。

 結局、女はカンニングの現行犯で試験室から追い出され、これまでに大学で取得した単位を全て剥奪された。教授会でその決定が下されてすぐ、女は退学したという噂が、涌井達の耳にも入って来た。
「結局何もしなかった気がする」
 少し残念な調子で、雨宮が話す。
「叫んだのも俺だしな」
 懲りてないなと呆れながら、涌井は思わず、くすりと笑った。

 そして、月日は経ち。
「いい加減学習してくれ、雨宮」
 下宿の床に大柄な図体を丸めて眠っている雨宮を、爪先で小突く。しかし小突いたぐらいではこの悪友は目覚めさえしないことも、分かってはいる。涌井は舌打すると、幸せそうに眠っている雨宮の横に腰を下ろした。
 大学を卒業し、博士号を取り、母校の准教授になっても、雨宮は相変わらずだ。酒は弱いまま、数学の問題には我を忘れて熱中する。そして学生には冷静。酒好きで女好きな涌井の性格も全く変わっていないので、その点では雨宮を責められないのだが。
 まあ、『腐れ縁』とは、このようなもの、なのだろう。涌井はふわっと一つ欠伸をすると、雨宮の隣で横になった。
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