帝華大学物語

風城国子智

文字の大きさ
上 下
24 / 30

狂宴準備

しおりを挟む
 雨宮あめみや研究室の扉を開けた勇太ゆうたが見たのは、ある意味異様な光景だった。
「……あ、えーっと」
 絶句しつつ、応接セットのテーブルをぐるりと取り囲むように座っている三人――勇太の兄でこの研究室の主でもある雨宮秀一しゅういち帝華ていか大学大学院博士課程一年で雨宮研究室所属の気の良い兄貴分である平林勁次郎ひらばやしけいじろう、帝華大学理工科学部があるこの街全体のコンサルタントをしているという秀一の学友井沢亮いざわあきら――を見回す。大の男三人が互いに深刻そうな顔を近付け、小声で何事か話し合っている様子は、「異様」以外のどの言葉で表現すれば良いのだろうか。
 一体、何が? 思わず小首を傾げる。他の二人はともかく、兄の雨宮准教授は少々のことでは動じない太過ぎる神経の持ち主だ。その兄が、いつになく真剣な顔をしているのが、気になる。だが。状況を知るためには三人のうち誰に話しかけるのが一番得策かを考えている間に、勇太の一番の天敵が声を上げた。
「おう、勇太。遅かったな。就職活動はどうなってる?」
 兄の声に多少の揶揄が含まれているのは、多分気の所為だろうが、それでも、先ほどまで考えていたような最悪な物事を話し合っているわけではないようだ。勇太は内心ほっとしつつ普段通りの表情を作ると、空いていたソファに腰掛けた。
「うん、まあ、とりあえず結果待ち」
 三年の三月。既に就職活動は始まっている。「音」に関わる仕事がしたいと思っている勇太は、大小の企業説明会を色々と回っているところ。これまでの手応えは、不況だと云われている割にはまあまあ。兄貴以外に助言を受けたのが良かったのだろう。勇太はそう分析していた。就職活動をしたことがない人間の助言を受けないのは、当然の判断。
 それはともかく。
「何話し合ってたんですか?」
 この三人の中では一番的確に状況を説明してくれそうな井沢氏にそっと尋ねる。
「ん、ちょっとな」
 しかし勇太の問いに答えたのはまたもや兄だった。
「バレンタインデーのお返しをどうするか、考えてたんだ」
 あまりにも意外な答えと、内容の割に深刻だった先ほどの雰囲気を思い出し、思わず仰け反る。確かに、勇太達は先日、女友達――と一括りにして良いものかどうか分からないが――から(義理かどうかはよく分からなかった)チョコレートを受け取った。そのお返しをすべき日であるホワイトデーはすぐそこだ。だが、その「お返し」のことだけで何故、こんなに深刻な話し合いになるのか。勇太はもう一度首を捻った。
「まあ、木根原きねはらは簡単だな」
 勇太の当惑を推し量ったのか、兄がいつになく真面目に説明を始める。
「甘いものが好きだから、近くのケーキ屋の特別プレートで素敵に喜んでくれる」
 雨宮准教授の言葉に、勇太は素直に頷いた。
 木根原怜子さとこのことは、兄よりも良く知っている。この研究室に出入りしている数理工学科の二年生で、料理、特に和風料理が上手い。もらったチョコレートも手作りで、甘さを抑えたその小さな固まりは頬が溶けそうなほど美味しかった。
舞子まいこも、ワインが好きだから、今度開店するイタリアの田舎料理の店なんかに連れて行ったら喜びそうなのは分かっているんだが」
 兄の横で、井沢氏が呟く。
 上原うえはら舞子と井沢氏は、一緒にこの街のコンサルタントをしている。二人とも雨宮准教授の高校時代の学友(悪友?)で、勇太とも親しくしているし、実は就職活動に関する助言もこの二人から受けている。舞子からもらったチョコレートは、「酒豪」の二つ名に相応しくウイスキーボンボンだったので、酒に弱い勇太は一つしか食べていない(残りは「ザル」の異名を持つ勁次郎に食べてもらった)が、ともかくお世話にはなっている。
「問題は」
三森みもりか」
 勁次郎の溜め息を、雨宮准教授が継ぐ。
「あいつは好き嫌いが激し過ぎるからな」
 兄の言葉に、勇太は再び素直に頷いた。同時に、先月、ぶっきらぼうに差し出されたアーモンドチョコレートの、いかにもチープな包みを思い出す。多分あのチョコレートは、皆に配る為にまとめて買った「お徳用」に違いない。ケチというのか、倹約家というのか、とにかく香花きょうかは『無駄なこと』を嫌っていた。
 三森香花。飛び級で帝華大学に入学し、怜子と同い年(三月生まれなので学年は香花の方が一つ上)にも関わらず来年度には博士課程に進学するという曰く付きの才女。専攻である数学の他、パソコンの組み立てやプログラミングにも詳しいのだが、どんな人にも欠点はある。小柄で整った顔立ちから男子のファンは多いが、口を開けば辛辣な言葉しか出ない+頭の悪い人間を徹底的に見下すという酷な性格は雨宮研究室の限られた人間しか知らないことである。……食べ物の好き嫌いが激しいことも。
「ケーキとか、お菓子とか、甘いものがダメだろ。香花は」
 溜め息とともに、井沢氏が言葉を吐く。
「肉も魚も食べられない。酒もダメ」
 一体何を食べて生きているんだ? 勇太は別の意味で首を捻りたくなった。
 それはともかく。とにかく、三人が悩んでいたことは、これで分かった。しかし、この問題に答えなど、どう考えても無いだろう。
「食べ物以外という手は、どうでしょう」
 普段から口数の少ない勁次郎が、そっと声を出す。
 その言葉に、井沢氏と雨宮准教授はうーんと唸り、そして同時に首を横に振った。
「香花って、服にも雑貨にも興味ないから」
「パソコンはいつも最新型。CPUもメモリも最高級品を自分で揃えるやつだし」
 三森が喜ぶような物事って何だろう? 香花の冷たい横顔を脳裏に浮かべながら考えてみる。だが、どうしても思いつかない。朗らかに笑っている顔すら思い浮かばないのだ。喜ぶ顔なんて絶対に無理。
「あーあ」
 思わず、声が出る。
 次の瞬間。強いノックの音に、勇太はもう少しで椅子から転がり落ちそうになった。
「こんにちは」
 研究室のドアを開けたのは、小柄だががっしりした初老の男性。
「あ、木根原さん」
 勁次郎がさっと立ち上がると、男性の手から岡持を受け取った。
 怜子の両親は、この街で小さな和風料理屋を営んでいる。優しい味が街で働く人たちに受けて、今では出前が大変なほど繁盛しているという。
 勁次郎がお金を払っている間に、岡持から料理を出す。三人前――就職活動中の勇太が研究室に顔を出すとは限らないので頼むならその分量だろう――にしては多い皿数に、勇太はちょっとビックリした。これは、まさかとは思うが、俺の分が入っているのでは。
「そんなわけないだろう」
 勇太の甘い考えは、兄の言葉で霧散する。
「俺が二人前食べるんだ」
「ああ、そうですか」
 いつものことだ。勇太は兄に見えないところで肩を竦めた。
「まあ、それはともかく」
「香花に、ご馳走、か」
「難しいですね」
 箸を構えた三人が、それぞれに溜め息をつく。まあ、あの香花のことだから、何をもらっても文句を言うだけだろう。だったら考えるだけ無駄だ。勇太は考えを放棄し、足を組んだ。
 と。
「……郊外に最近、地場野菜料理専門の店ができたそうですよ」
 背後からの言葉に、再び椅子から滑り落ちそうになる。振り返ると、帰ったはずの木根原の父が、真顔で立っていた。
「え」
「木根原、さん?」
 井沢氏と勁次郎が、豆鉄砲を食らったような顔になる。その横で、雨宮准教授がポンと膝を打った。
「それだっ!」
 確かに、香花は、野菜なら食える。いつも野菜ばかりのお弁当を香花専門に作っている木根原とその父親だから、香花の食の好みは痛いほど分かっているのだろう。それにしても。何故、この人は、こんなにぴったりと、人の心に沿うことができるのだろうか。木根原の父親を、勇太は改めて尊敬した。
 だから。
「決まりましたね」
「良かったぁ」
 安堵の声を出す勁次郎と井沢氏の声に掻き消されるほどの小さな声で、勇太は「ありがとう」と木根原氏に、言った。

「……全く」
 聞こえてきた声に、思わず毒づく。
「どうしたんですか、香花さん?」
 だが、続いて近くから聞こえてきた怜子の声に気付き、香花はそっと感情を抑えた。
「何でも無い」
 香花が雨宮研究室の扉を叩こうとしたのは、勇太が研究室に入る少し前。扉に拳が触れる前に何かしらの異常を感じたので、扉に、香花が居候を決め込んでいる小さな修理店の主矢代やしろが趣味で作っているシール型の盗聴用機器をセットして図書室に向かったのだ。もちろん、四人の苦悩は筒抜け。なんて、バカらしい。もう一度、舌打ちしかける。だが、何だかんだ言いつつも、少し嬉しいのは、確かだ。
 頬が緩むのをこらえつつ、隣の怜子を見る。真面目な怜子は、一生懸命数学の問題を解いているところだった。
「あ、そこ違う」
「え、嘘」
 証明問題の矛盾点を指差しながら、先ほどの四人の会話を反芻する。
 自分らしくはないが、ホワイトデーに何をプレゼントされようとも、黙って受け取っておくか。心の中でそう呟くと、香花はそっと、耳のイヤホンを外した。
しおりを挟む