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第二章 湖を臨む都
2.14 黒く焦げ付いた場所
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快く感じていた僅かな揺れが、止まる。
俯いたサシャの閉じた瞳と、視界を射た黒く焦げた地面に、トールも黙って頭を垂れた。
三週間くらい前に北都の下町で発生した下痢を伴う伝染病は、アラン師匠を始めとする北都の医師達のおかげで既に終息している。サシャも、トールの指示通り、クリスを介して、病気になった人々が飲んでいた水を汲んだ井戸について尋ね歩き、下町の真ん中に位置する広場にある井戸が病気の発生源であることを突きとめた。集めたデータをアラン師匠経由で下町の有力者達に示し、井戸を封鎖した結果、新たな病人は発生しなくなった。大学教員である母が教養の授業で話していたことと、その母に教えてもらって読んだ本の内容を思い出してサシャに指示しただけなのに、意外と効果があったな。普段より優しく聞こえた講義中の母の声を、トールは首を横に振って追い払った。しかしながら。北都の医師達の努力にも拘わらず、下町を中心にかなりの数の死者が出たことは、確か。焦げた地面は、この世界での普段の埋葬方法である土葬では病を広げる恐れがある、伝染病で亡くなった人々をこの場所で焼いた、証。
サシャ自身も、井戸を封鎖する直前に体調を崩し、叔父ユーグがようやく首を縦に振った今日まで外に出ることができなかった。再び揺れ始めたサシャのエプロンのポケットの中で、トールは諦めに似た溜息を吐いた。……どうして、自分は『本』なんかに転生してしまったのだろうか? 『人』に転生していれば、下町の人々への聞き取りは同じ下町の住民であるクリスの力を頼らないといけないという部分は同じだが、少なくとも、サシャの代わりにトール自身が調査を行うことができた、はず、なのに。
「トール」
歩きながら湖の方に視線を向けたサシャの、思いがけない声に、胃の辺りの苦しさを振り払う。
「トールの世界では、亡くなった人はどうなるの?」
[うーん]
そういうことは、考えたことがなかったな。唐突なサシャの問いに、これまでの知識を頭から引っ張り出す。
[えーっと、まず、『三途の川』って言うのを渡って]
「川?」
[俺達の世界では、死後の世界は川の向こう、あるいは西方にあるって言われてるんだ]
確か、高校の倫理や日本史で、習った、はず。唸りながらのトールの言葉に、サシャは湖を見つめたまま、黙って頷いた。
[で、『地獄』ってところにいる『閻魔大王』っていう裁判官が生きている時の罪を裁定して、極楽に行けるか、あるいは地獄の責め苦を受けるかどうかを決める、らしい]
「『極楽』は『天国』?」
[うーん、多分]
「そこで、親しい人を待つの?」
[いや]
犯した罪が軽いと判断され、舌を抜かれるだけで再び人間界に戻る人もいるし、地獄で苦しむ人もいるから、皆が極楽にいるわけではない。サシャの質問に、トールはなるべく簡潔に答えた。
「この世界ではね、トール」
湖の側の少し小高い場所に腰を下ろしたサシャが、エプロンのポケットの中のトールに頬を寄せる。
「亡くなった人は皆、神様のところに行くんだって『祈祷書』には書いてあるの」
サシャに読んでもらった『祈祷書』の内容を、脳内から引っ張り出す。サシャと出会ったばかりの頃に見た、灰色の空と真っ直ぐな森の木々が視界の片隅で揺れたように感じ、トールは少しの間、目を閉じた。
『神の御許で、懐かしい顔が我を待つ。
……縁あるもの全てに再会の後、人は人へと生まれ変わる』
『祈祷書』によると、肉体から離れた後、この世界の人々の魂は『神』の許へと向かい、その場所で憩う親しい人々と再会する。『神』の許で、逢いたい人々全員に出会った後、再び、この世界の人間として、前世に縁ある場所に生まれ変わる。生まれた子供に、一族の既に亡い者の名を付ける理由は、その子供の前世は一族の一員であった可能性が高いから。『祈祷書』に書かれている言葉を総合すると、以上のような解釈になる。そう言えば、二つ年上の母方の従兄夏樹も、生まれる前の秋に台風で倒れた大木の生まれ変わりだと、親類の神主に言われて『夏樹』という名を付けたと、何かの時にトールの父が言っていた。
自分は何故、この場所にいるのだろう? 何度目かの問いが脳裏を過る。何かの『罰』なのだろうか? 些細な違反も、親を泣かせるようなことも、何度かした覚えがあるから、『罰』という理由も有り得ないことではないだろう。
『罪の中で死んだ者も、いつかまた人として生まれ変わる。生きている者も、罪を償い立ち直ることができる』
もしも、この場所で死んだら、自分はどうなる? 『祈祷書』の内容を思い出す最中に、唐突な疑問が湧き上がる。『本』が『死ぬ』という概念はよく分からないが、トールの世界には焚書の歴史がごまんとある。不必要な本はシュレッダーにかけられてしまうとも、聞いたことがある。自分が死んだら、魂は、この世界のシステムに組み込まれるのだろうか? それとも、……トール自身の、あの世界に戻るのだろうか?
不意に、触れていた温かさが増す。
サシャの両腕が、エプロンのポケットごとトールを抱き締めている。トールがそのことに気付いたのは、サシャの腕がトールから離れた後。
戻れるのであれば、戻りたい。それが、本音。でも、……サシャのことを放っておくわけにはいかない。その気持ちも、確かに、ある。だから、今は。濡れた頬をエプロンの端で拭うサシャに、トールは小さく微笑んだ。
俯いたサシャの閉じた瞳と、視界を射た黒く焦げた地面に、トールも黙って頭を垂れた。
三週間くらい前に北都の下町で発生した下痢を伴う伝染病は、アラン師匠を始めとする北都の医師達のおかげで既に終息している。サシャも、トールの指示通り、クリスを介して、病気になった人々が飲んでいた水を汲んだ井戸について尋ね歩き、下町の真ん中に位置する広場にある井戸が病気の発生源であることを突きとめた。集めたデータをアラン師匠経由で下町の有力者達に示し、井戸を封鎖した結果、新たな病人は発生しなくなった。大学教員である母が教養の授業で話していたことと、その母に教えてもらって読んだ本の内容を思い出してサシャに指示しただけなのに、意外と効果があったな。普段より優しく聞こえた講義中の母の声を、トールは首を横に振って追い払った。しかしながら。北都の医師達の努力にも拘わらず、下町を中心にかなりの数の死者が出たことは、確か。焦げた地面は、この世界での普段の埋葬方法である土葬では病を広げる恐れがある、伝染病で亡くなった人々をこの場所で焼いた、証。
サシャ自身も、井戸を封鎖する直前に体調を崩し、叔父ユーグがようやく首を縦に振った今日まで外に出ることができなかった。再び揺れ始めたサシャのエプロンのポケットの中で、トールは諦めに似た溜息を吐いた。……どうして、自分は『本』なんかに転生してしまったのだろうか? 『人』に転生していれば、下町の人々への聞き取りは同じ下町の住民であるクリスの力を頼らないといけないという部分は同じだが、少なくとも、サシャの代わりにトール自身が調査を行うことができた、はず、なのに。
「トール」
歩きながら湖の方に視線を向けたサシャの、思いがけない声に、胃の辺りの苦しさを振り払う。
「トールの世界では、亡くなった人はどうなるの?」
[うーん]
そういうことは、考えたことがなかったな。唐突なサシャの問いに、これまでの知識を頭から引っ張り出す。
[えーっと、まず、『三途の川』って言うのを渡って]
「川?」
[俺達の世界では、死後の世界は川の向こう、あるいは西方にあるって言われてるんだ]
確か、高校の倫理や日本史で、習った、はず。唸りながらのトールの言葉に、サシャは湖を見つめたまま、黙って頷いた。
[で、『地獄』ってところにいる『閻魔大王』っていう裁判官が生きている時の罪を裁定して、極楽に行けるか、あるいは地獄の責め苦を受けるかどうかを決める、らしい]
「『極楽』は『天国』?」
[うーん、多分]
「そこで、親しい人を待つの?」
[いや]
犯した罪が軽いと判断され、舌を抜かれるだけで再び人間界に戻る人もいるし、地獄で苦しむ人もいるから、皆が極楽にいるわけではない。サシャの質問に、トールはなるべく簡潔に答えた。
「この世界ではね、トール」
湖の側の少し小高い場所に腰を下ろしたサシャが、エプロンのポケットの中のトールに頬を寄せる。
「亡くなった人は皆、神様のところに行くんだって『祈祷書』には書いてあるの」
サシャに読んでもらった『祈祷書』の内容を、脳内から引っ張り出す。サシャと出会ったばかりの頃に見た、灰色の空と真っ直ぐな森の木々が視界の片隅で揺れたように感じ、トールは少しの間、目を閉じた。
『神の御許で、懐かしい顔が我を待つ。
……縁あるもの全てに再会の後、人は人へと生まれ変わる』
『祈祷書』によると、肉体から離れた後、この世界の人々の魂は『神』の許へと向かい、その場所で憩う親しい人々と再会する。『神』の許で、逢いたい人々全員に出会った後、再び、この世界の人間として、前世に縁ある場所に生まれ変わる。生まれた子供に、一族の既に亡い者の名を付ける理由は、その子供の前世は一族の一員であった可能性が高いから。『祈祷書』に書かれている言葉を総合すると、以上のような解釈になる。そう言えば、二つ年上の母方の従兄夏樹も、生まれる前の秋に台風で倒れた大木の生まれ変わりだと、親類の神主に言われて『夏樹』という名を付けたと、何かの時にトールの父が言っていた。
自分は何故、この場所にいるのだろう? 何度目かの問いが脳裏を過る。何かの『罰』なのだろうか? 些細な違反も、親を泣かせるようなことも、何度かした覚えがあるから、『罰』という理由も有り得ないことではないだろう。
『罪の中で死んだ者も、いつかまた人として生まれ変わる。生きている者も、罪を償い立ち直ることができる』
もしも、この場所で死んだら、自分はどうなる? 『祈祷書』の内容を思い出す最中に、唐突な疑問が湧き上がる。『本』が『死ぬ』という概念はよく分からないが、トールの世界には焚書の歴史がごまんとある。不必要な本はシュレッダーにかけられてしまうとも、聞いたことがある。自分が死んだら、魂は、この世界のシステムに組み込まれるのだろうか? それとも、……トール自身の、あの世界に戻るのだろうか?
不意に、触れていた温かさが増す。
サシャの両腕が、エプロンのポケットごとトールを抱き締めている。トールがそのことに気付いたのは、サシャの腕がトールから離れた後。
戻れるのであれば、戻りたい。それが、本音。でも、……サシャのことを放っておくわけにはいかない。その気持ちも、確かに、ある。だから、今は。濡れた頬をエプロンの端で拭うサシャに、トールは小さく微笑んだ。
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