『魔導書』に転生した俺と、君との日々。

風城国子智

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第二章 湖を臨む都

2.37 サシャの思考と決断について

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「全く」

 小さなベッドの上で荒い息を吐くサシャを見守るトールの耳に、カジミールの、呆れと心配を含んだ声が響く。

「寒いし雪でどこも真っ白なのに、北都ほくとの東側の、道も無いところで何してたんだよ」

 高熱で動かせないので、サシャはそのまま、『星読ほしよみ』の館で過ごすことになった。修道院から慌てて駆けつけたサシャの叔父ユーグと、医術の心得のあるアラン師匠は何も言わないが、カジミールは、……トールが言いたいことをそのまま言ってくれる。サシャの額に置かれた濡れ手拭いを置き換え、震える手でサシャの白い髪を撫でて去ったカジミールの広めの背中に、トールは小さく俯いた。

 誰もいなくなった空間に聞こえるのは、時折小さく唸りを上げるサシャの苦しそうな息づかいのみ。サシャが目覚めたら、聞かないといけないことがある。決意にも似た感情が、トールの胸を重くしていた。

「……トール」

 不意に、トールの全身が、サシャの熱い手に覆われる。

「トール」

 目覚めたサシャが、ベッド側の腰棚に置かれていたトールを引き寄せて抱き締める、その細いが確かさを持つ腕に、トールは目を閉じて頷いた。

「ごめんなさい」

 そのトールの耳に、サシャの、擦れた声が響く。

「トールを、トールの世界に戻したかったの」

 聞き取った、思いがけない言葉に、トールは思わずサシャの、熱で真っ赤になった頬を見つめた。

 そのトールを自分の方へと更に引き寄せたサシャが、ぽつぽつと、単語を並べる。

 トールを抱いて眠る時に見る夢から、トールは、トール自身の世界へ戻りたいのだと判断したこと。トールが戻るためにはどうすれば良いのか、その方法を、北都の図書館の本の中から探し出そうとしていたこと。湖に落ちた時に見た幻影がまとう服とトールを抱いて眠る夢に出てくる人々の服装が似ていることと、湖に関する伝説から、湖に沈められた人々あるいは遺跡を残した古代人達がトールを戻す鍵を握っているのではないかと推測したこと。そして。古代人の遺跡で悪い幻影を見る人がいることと、遺跡で見つけた読めない手紙から、古代人の遺跡からトールの世界にいけるのではないかと思ったこと。

[サシャ]

 サシャの推論に、目を丸くする。確かに、崖に刻まれた扉のような遺跡で見つけた日本語で書かれた手紙のことを含む、これまでにトールがこの世界で体験した「不思議なこと」を全て重ね合わせると、古代人の遺跡からトールの世界に行くことができるのではないかという推測は、確かにできる。サシャが手にすることができた、少ない資料から、ここまでの推測ができるとは。サシャは、やはり賢い。

「母上は、大人になることは、一人で自律できることだって、仰ってた」

 トールと、ずっと一緒にいたい。トールを力強く抱き締めるサシャの、鼓動の早さに、無意識に息を止める。

「母上とも、ずっと一緒にいたかった、けど……」

 『ずっと一緒』が無理であることは、母との死別で十分に分かっている。殆ど聞こえなくなってしまったサシャの声に、トールは頷くことしかできなかった。

 大人になることは、孤独に慣れること。甘えは、いけない。母の言葉のままに、サシャは、トールをトールの世界に戻すために、あの崖に穿たれた扉のような遺跡にトールを置き去りにした。

「でも、……やっぱり、僕は」

 サシャの瞳から零れた涙が、トールの表紙を濡らす。

 サシャの考えは、分かった。トールと離れたくないという、強い想いも。サシャが、自分の気持ちを正直に全部話してくれたことが、……嬉しい。

 だから。

[サシャ]

 表紙に、大きく文字を躍らせる。

[俺も、俺の世界に戻りたくない、って言ったら嘘になる]

 だが、……戻れない。トールが並べた単語に、サシャの涙で濡れた紅い瞳が大きくなった。

[湖に落ちた後、サシャの身体を温める時に、アラン師匠がしていた話、覚えているか?]

「うん、大体」

[俺にも、互いに互いを思っている大切な人が二人いて、そいつらのことが大切だから、……戻ってはいけないんだって思ってる]

 その紅色の瞳に、心の奥底に封じていた考えを吐露する。たとえ戻ることができたとしても、小野寺おのでら伊藤いとうに、以前と同じ友人として接することは、多分できない。二人の幸せを、壊してしまうかもしれない。それは、……嫌だ。

[だから。……ここに居たい。居て、良いか?]

「トールと、ずっと一緒に居て良いの?」

 確かめるように言葉を紡ぐサシャに、大きく頷く。

[ここに残って、サシャが夢を叶えるところを見たい]

「えっ」

 トールの言葉に、サシャの顔は耳まで真っ赤になった。

「ありがとう」

 再び、サシャの腕が、トールをぎゅっと抱き締める。

 そのサシャの、柔らかくなった息を確かめながら、トールはずっと考えていたことを言葉にした。

[物と人はいつでも契りを結ぶことができるって、祈祷書には書いてある、けど]

「うん、できるよ」

 人と人とが契りを結ぶには、身体の成熟が必要だが、人と物とが契りを結ぶのは、いつでもできる。祈祷書の言葉を口にするサシャに、小さく微笑む。

[いつか、さ、その、サシャがもう少し大きくなってからで良いんだけど、その、契りを結んでくれると、その]

「良いよ」

 言葉を紡ぐ途中で恥ずかしくなってしまったトールに口の端を上げたサシャの、普段の輝きを取り戻した紅い瞳に、トールは全身の力を抜いた。
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