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再び西へ 3

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〈リト、大丈夫みたい。……良かったぁ〉
 客間に寝かせたリトの、規則正しくなった息遣いに、ほっと胸を撫で下ろす。
 リトが書き写した、エリカの背中に隠されていた薬草の調合方法は、魔物化に対して有効だったようだ。夜中だというのに薬草を揃え、薬を調合してくれたダリオとキカに、エリカは心の中で感謝した。
 そのキカは、既に屋敷内にいない。魔物化を抑える薬の調合方法を知るや否や、まだ夜だというのにチコと一緒に東の学園都市へと旅立ったのだ。
「この調合結果を学園都市のお師匠様に見せて、できるだけ早く、有効かどうか検討してもらう」
 帝都周辺では、魔物化に苦しむ人々や、魔物化した人々に大切な人を襲われて苦しむ人々が数多く発生している。だからこそ、できるだけ早く、有効な手段を人々に伝える必要がある。
「人々を魔物の跋扈から守るのが、『黒剣隊』の責務だから」
 学園都市へ向かいたいとエリカとダリオに伝えた時の、キカの真剣な眼差しをまざまざと思い出す。その眼差しは、隊長であるリトと、帝都でエリカを置いて、帝が化した魔物と対峙したリトと、同じだ。僅かな心の痛みを、エリカはそっと払い落とした。仕方が無い。それが、……リトだ。
 と。
「エリカお嬢様」
 リトが眠る客間の扉が、静かに少しだけ開く。
「少しだけ、こちらへ」
「……?」
 いつにないダリオの口調に、エリカは首を傾げながら、眠るリトを置いてダリオの後から廊下へと出た。
「これを」
 客間の扉をしっかりと閉めてから、ダリオが小さな羊皮紙の巻物をエリカに手渡す。
「母上様が保管していた手紙類の中から、見つかったものです」
 月明かりの下で、広げた羊皮紙に書かれた文字を見つめる。この文字は、知っている。いまだにポケットの中に入っている、エリカの父がリトの母に贈った恋文と同じ筆跡の、鏡文字で書かれた手紙。その手紙に残っていた、封印用の蝋に押された紋章に、エリカの息は、一瞬、止まった。一部欠けてはいるが、この紋章は確かに、輝く太陽を模したもの。時の帝のみが身に着けることができる、紋章。手紙の最後にある署名も、確かに、帝の名になっている。そして。手紙の文面を、読み解く。そこには、リトの母への気遣いに満ちた文章が刻まれていた。リトの母が砦で産み落とした息子、すなわちリトが、自分の子供であることを認めるという、文章も。と、すると。
「リトの、お父様は」
 エリカの前で、ダリオが頷く。
 では、エリカが持っている、エリカの父がリトの母に贈った恋文の正体は。
「陛下はしばしば、お嬢様のお父上を訪ねてあの砦を訪れていたようです」
 そしてその砦で『黒剣隊』を束ねていた前の長、すなわちリトの母に、帝は恋心を抱いた。その恋心のままに、帝はエリカの父の名を借りて恋文をリトの母に贈り、リトの母はその愛を秘密に受け入れた。その結果が、リト。
「そう、だったんだ」
 エリカの疑問を解くダリオの言葉に、頷く。リトとエリカは、兄妹ではなかった。婚約者のままで、大丈夫なんだ。心からの安堵が、エリカの全身を温かくしていた。その安堵に比べれば、リトの父が帝であることは、エリカにとっては些細なことに過ぎなかった。

 温かい心のまま、リトの看病に戻る。
 エリカが部屋を離れたのは、ほんの僅かな間。それでも、リトの息遣いが規則正しいままであったことに、エリカはほっと胸を撫で下ろした。
 その時。
「エリカ」
 不意にリトが、エリカの手を掴む。そしてリトは、思いがけないことをエリカに言った。
「一緒に、平原に、あの砦に行ってほしい」
「えっ?」
 リトの言葉に、正直戸惑う。リトは何故、既に破壊された砦に、エリカとともに向かおうとしているのだろうか? エリカの疑問は、すぐに解けた。
「魔物化を完全に抑えるには、あの砦に行く必要があるんだ。……私と、君が」
「えっ?」
「君の父上と私の父上が呼び出した魔物の封じ方が、君の背に、魔物化を抑える薬の作り方と一緒に書いてあった」
「え……」
 リトの言葉に、絶句する。と、すると、リトは、……自身の父親を、既に知っていた!
「亡くなる直前に、母が話してくれた」
 エリカの戸惑いに、リトが微笑む。そして。
「帝都で、帝が魔物化した原因は、……おそらく私にある」
 続くリトの言葉が、エリカの胸を悲しくさせる。
「君の父上と私の父上が呼び出した天魔を封じた剣に、私が触ってしまったから」
「そんな……」
 リトの父、すなわち時の帝と、エリカの父は、平原に跋扈する地魔の力を弱める為に、伝説にあった天魔を地下から呼び出した。しかし呼び出された天魔は怒りのままに帝を呪い、魔物化した帝はオルディナバ公が栽培する薔薇の香気で何とか平静を保っていた。しかしながら、天魔を封印した、砦の奥底の部屋にリトとエリカが入り、封印を壊してしまったが故に、封印されていた天魔が力を持ち、薔薇の香気では帝の魔物化を抑えることができなくなったしまった。そしてその為に、帝は魔物と化し、帝都を破壊した。推測を含むリトの言葉に、エリカは思わず首を横に振った。リトは、何も悪くない。だが。
「『黒剣隊』の仲間に暗殺の手が伸びたのも、おそらく、砦に封印されている魔物の所為で隊員達が魔物化するおそれがあると、判断が下されたのだろう」
 リトの言葉が、エリカの口を塞ぐ。
「私の所為で、人々が苦しんでいるのなら、私は、自分の行いでその苦しみを解かないといけない。それが、……騎士としての私の責務」
 帝と、エリカの父が呼び出した天魔を再封印する為には、呼び出した時に使った、二人に近しい者の血が必要。エリカの背にそう刻まれていたと話すリトの淀みない言葉に、エリカは心が冷たくなるのを感じた。ここにいる、帝とエリカの父に近しい者は、……リトと、エリカ。
「……分かった」
 ゆっくりと、リトに頷く。エリカの力では、リトを止めることはできない。ならば、……どこまでも、リトと一緒に行く。
「ありがとう」
 微笑んでベッドから起きあがり、エリカの腕を掴み直したリトに、エリカも静かな微笑みを返した。

 幸いなことに、リトが砦中の書物や書簡を詰め込んだ地下室へと続く抜け道は破壊されてはいなかった。
 何事もなく、件の地下室へと辿り着く。地下室の床に隠された螺旋階段を、リトとエリカは押し黙ったまま、下った。すぐに、中央に錆びた剣が突き刺さる、がらんとした部屋が視界に映る。あの錆びた剣を抜いて、リトとエリカの血を塗った剣を刺し直せば、再封印できる。リトと確かめた、魔物再封印の方法を思い返す。ゆっくりと、エリカはリトの背を見つめながら、錆びた剣が刺さる部屋の中央へと向かった。
「行くよ」
 ぼろぼろになっている柄に手を掛けたリトが、エリカに頷く。リトのもう片方の手には、既にエリカとリトの血に濡れた剣が握られている。
「……!」
 無声の気合いとともに、ぼろぼろの剣をリトが抜き取る。次の瞬間。広い部屋は、重くどす黒い影に踏み潰された。
「リトっ!」
 息苦しさを覚えながら、それでも、見えなくなってしまったリトに声を掛ける。もしかしたら、リトは、魔物の瘴気に当てられて倒れてしまったのでは? 不安感に苛まれながら、それでもエリカは、布に包んで持って来た、西の街に咲いていた薔薇の花びらを形の無い影に投げつけ、そしてリトからもらった短剣を怯んだ黒色に突き刺した。
「エリカっ!」
 その動作で、少しだけ、影の圧力が外れる。エリカが次に目にしたのは、その僅かな隙を突いて部屋の床に血に濡れた新しい剣を突き刺す、リトの姿。
「リトっ!」
 薄れ始めた影をかき分け、床に頽れたリトを抱き起こす。怪我は、見えない。しかし顔に血の気が無い。平原の魔物を倒した後と同じだ。震えを覚えながら、エリカはリトの耳に唇を近づけて叫んだ。
「リトっ!」
「……エリカ」
 小さな声が、エリカをほっとさせる。
「魔物は、うまく、封じられた?」
「ええ、……多分」
「良かっ、た……」
 エリカの腕の中で、リトが意識を失う。そのリトを助ける余裕は、リトと同じく魔物の瘴気に体力を奪われてしまっていたエリカには、残されていなかった。
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