戻る場所は/赴く理由を

風城国子智

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「死者の魂は皆、自身が愛する生者が幸福に暮らしていることを確かめてから、ここではない別の場所で新たな命を得るために、大いなる自然に身を任せる」
 何度も聞いた、祖父の厳粛な言葉が、グレンの耳に優しく響く。そう、それが、グレン達の一族に伝わる、死者に関する言い伝え。しかしそれが、別の一族にも適用できるのだろうか? グレンの前で、掘り返されたばかりの土をそっと撫でる小さく白い手を見つめ、グレンは首を傾げた。
「それ、母様から聞いた話と違ってる」
 グレンの前にしゃがんでいる少年、フィンも、グレンと同じ疑問を抱いているらしい。首を傾げて、グレンの祖父を見上げている。
「母様は、人は死ぬと天国に行くって、言ってた」
「そなたの一族では、そう言い伝えられているかもしれぬが」
 そのフィンの濡れた紅い瞳に、祖父はあくまで静かに、答えた。
「私は、天国などまやかしにすぎぬと、思うておる」
「じゃあ、母様も、今、ここで、フィンを見てるの?」
 祖父の答えに、フィンがぱっと顔を綻ばせる。
「ああ、そうだ」
 フィンの問いに、祖父は深く頷くと、グレンの方に土塊を投げようとしたフィンを鋭く睨んだ。
「確かに、いたずらばかりすれば、そなたを心配する母の魂はここに留まるだろう。だが」
 そう言って、祖父は今度はその鋭い瞳でグレンを見つめる。
「死んだ場所に留まる魂は、自分が愛した生者のことすら忘れ、あらゆる生者に害を為す『悪霊』となってしまうぞ」
 心に突き刺さる、祖父の言葉に、フィンの顔が歪む。そう、グレンも、まだ幼い頃、収穫された作物をこの土地では生産できないものと交換しに行った父と母が何者かに襲われて命を落としてしまった時に、両親を自分の許に留めておこうと、祖父と、今はこの場所に葬られている祖母を困らせることばかりしていた。
「は、い……」
 泥で汚れた手を顔に押しつけて泣くフィンと、幼かった頃のグレン自身とが、重なる。そっと、墓地に一歩だけ入り、グレンはフィンの手を自分の服の裾で拭った。
 母の亡骸を埋めたばかりの地面に尻餅をつき、しゃくりあげるフィンの手をそっと見つめる。フィンの手の、透き通るような青白さと、自分の手の日焼けした赤さに、グレンは少しだけ、唇を震わせた。フィンは、グレンとは違う。グレンの祖先を住み慣れた土地から追い出したという、南から来た、一族の者。グレンの父と母を襲い、致命傷を負わせたのも、最近この辺りにまで手を伸ばし始めているその一族の者であると、グレンは風の噂で耳にしていた。それでも、フィンの、グレンとは違う顔と手の色を見ても、フィン自身に対して怒りの感情を持つことができないのは、フィンがあまりにも弱々しく見えるから。
 祖父が産まれるよりも更に昔。ここより南の、豊かな土地で静かに暮らしていたグレンの祖先は、白く長い手足を持つ一族の襲撃により、住み慣れた土地を捨てることを余儀無くされた。北へ逃げるうちにばらばらになってしまった祖先達はそれでも、人の気配の無い、峻険な山々と深遠な森に囲まれたこの場所に、生きる希望を見つけた。グレンの祖父の曾祖父は、小さな丘の南斜面を切り開き、自身と妻がかつかつで暮らせるだけの畑を作った。その後を引き継ぎ、グレンの祖先達が少しずつ開墾していった結果が、現在グレンが目にしている、なだらかな畑と放牧地。畑には寒冷地でも育つ作物を植え、放牧地では羊を飼い、衣と食を得ている、小さくも豊かな土地。今は寂しく感じてしまう場所だが、いつかは、グレンが大きくなって家族が増えれば、もっと賑やかで楽しい場所になるだろう。時折、祖父はそう、グレンに言っていた。
 もう一度、フィンの青白い手を見つめる。グレン達が慎ましく暮らす丘を囲む深い森の向こうで勢力を伸ばし始めてきている、かつてグレンの祖先達を襲撃した南の一族。その存在が、グレンの心を不安でいっぱいにさせる。自分達と異なる者を徹底的に嫌うこの一族は、たとえ自分達と同じ姿形をしている者でも、少しの違いを見つけて迫害するらしい。昨日、森の奥深くで倒れていた透き通る肌を持つ女性と、その女性の側で泣き崩れていた小さなフィンを見つけたグレンに、祖父は確かにそう、言った。おそらく、森で力尽きていた華奢な女性、フィンの母は、違いを恐れる者達に『悪』だと決めつけられ、子供とともに住む場所を追われたのだろう、と。
 力が強く、敵も多いが何故か仲間も多いこの一族には、誰も逆らえない。だから彼らは、この世界で一番良い場所を次々と奪っている。そう呟いた時の、祖父の唇の震えが、グレンの脳裏を過ぎる。だが、森と山に囲まれた侘びしいこの土地は、彼らも欲しがるまい。祈るような調子でそう呟いていた祖父は、フィンの母を埋葬した三年後の冬に、ふとした風邪がもとで亡くなった。それからずっと、グレンはフィンと、小さいが豊かな場所で暮らしていた。グレンが畑を耕し、種を蒔き、作物を収穫する。病弱なフィンは、時折熱を出して倒れたりはするが、それでも、グレンを手伝ってくれた。羊の出産を助け、羊毛を紡ぎ織って衣服にし、森の藪で摘んだ小さな液果に蜂蜜を混ぜて甘味を作る。一族の風習に従って長く伸ばしたグレンの硬い髪をフィンは細い指で器用に結い上げ、グレンが不器用に結い上げたフィンの白く細い髪はいつも、後れ毛が肩の辺りでゆらゆらと揺れていた。祖父が居間に飾っていた古い竪琴を器用に弾くフィンに合わせて、祖父から教わった歌をグレンが夕空に響かせる。このままずっと、グレンやフィンが大人になり、家族が増えてもずっと、この生活が続くものと、グレンもフィンも思っていた。だが。
 初夏からの冷たい霧雨が続く、初秋のある日。グレンとフィンは、森の中で、痩せ衰えた、フィンと同じ青白い手を持つ一人の男を助けた。夏の間ずっと続いていた雨によって、男が暮らす、森の向こうに新しくできた町周辺の畑の作物は全滅したらしい。食べられるものを探して深い森に入ったというその男を、グレンとフィンは自分たちの小屋に招き入れ、万が一のためにと保存しておいた穀物を食べさせた。雨続きなのはこの土地も同じ。だが、羊は元気だし、冷害に強い作物は何とか実を結んでいる。グレンとフィンの二人なら、かつかつで冬を越せるだろう。だから、飢え死にしそうな男に食べさせることは、グレンもフィンも当然の行為だと思っていた。しかし、その晩。暖かい方が良いだろうと台所の暖炉の側に寝かせた男は、台所にあったグレンが鍛えた包丁を持ち出し、フィンと共同で使っている自分の部屋で眠るグレンの首筋にその得物を叩き込んだ。僅かな気配にはっと飛び起きたので、その攻撃は幸いグレンには当たらなかった。だが、男の二度目の攻撃は、グレンの左腕をやや深く切り裂いた。
「グレン!」
 物音で目を覚ましたフィンの悲鳴が、耳を打つ。次の瞬間、グレンの身体は、見知らぬ森の中にあった。
「あいつっ!」
 暗闇の中、舌打ちより先に、辺りを見回す。
 フィンが時折、祖父が『魔法』と呼んでいた不思議な術を使うことは、グレンも知っていた。
「おそらく、フィンは、無意識の魔法使いなのだろう」
 同じく無意識に魔法を使っていたグレンの祖母が生きていれば、フィンを教え導くことができただろうに。少し気落ちした、その言葉とともに、自身の力に気付かずきょとんとした顔のフィンの、肩に掛かる白い髪を撫でていた祖父の指が、脳裏を過ぎる。難産の羊を助けるために羊の腹に当てたフィンの指先から零れた光、作物の育ちが悪い時にフィンが小さな声で歌う歌、そして森の中で、暴走する猪を一瞬で消した、フィンの青白い顔。その全てを思い出しながら、グレンは暗闇を走った。
 三日、闇雲に走り、やっと、見慣れた丘の麓に戻り着く。しかしグレンの目に映るのは、荒らされた小屋だけ。フィンの姿は、何処にも無い。床に血が零れていないから、フィンはおそらく生きている。男が、何処かに連れ去ったのだろう。でも、何処に? 一カ所しか思い当たらない、男が暮らしているという新しく作られた町へ、グレンは急いだ。誰にも咎められぬよう、一族の風習で伸ばしていた髪を、町に住む人々と同じように短く切って。だが。痛む足を押して辿り着いたグレンが見たのは、広場の真ん中で燃やされる、華奢な人影。
「邪悪な魔術で雨を降らせ、作物を全部ダメにした」
「捕まった腹いせに、長官の一人息子を呪い殺したそうだよ」
 自然を軽視したが故の結末のみならず、たまたまフィンが町に連れて来られた日の夜に亡くなった長官の息子の死亡原因まで押しつけられて、ただのか弱き存在であったフィンは生きながら燃やされた。そのことを、グレンが理解するまでに数瞬、掛かる。既に息絶えているのだろう、炎の中のフィンは、身動き一つ、していなかった。
 だが。
 フィンを見つめるグレンに気付いたかのように、炎の向こうのフィンが、少しだけ首を動かしてこちらを見る。炎とは違う紅さを持つフィンの瞳が、グレンの視界に焼き付いた、次の瞬間、グレンは再び、見知らぬ木々に囲まれていた。
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