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赴く理由を 1
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何故、こうなってしまっているのだろうか。清潔なベッドに身体を預け、両腕を掲げ見る。フィンの目に映る、自分のものであるはずの両腕は、華奢とはほど遠い力強さを確かに、持っていた。そう。この腕も、この身体も、……フィン自身のものではない。この身体は、他人のもの。
目を瞑り、これまでのことを思い返す。そう、あれは確か、十日ほど前のこと。森の中に開けた小さな丘で、フィンは、かつて小さなフィンを助けてくれたグレンと一緒に暮らしていた。そして、僅かな森の糧を探しに入った森の中で、痩せ細った一人の男を助けた。夏中降り注いだ細く冷たい雨によって、男が暮らす、森の向こうに最近作られた街道沿いの町周辺の畑の作物は全滅し、男は一人、食べられるものを得るために危険な森へと入ったという。その男を、グレンとフィンは、二人で暮らす丘の麓の小屋に連れ帰り、保存しておいた穀物を食べさせた。雨のせいで作物の育ちが悪いのは、二人が耕す小さな畑も同じ。だがフィンが世話をしている羊達は元気だし、二人に自然の様々を教えてくれたグレンの祖父が注意深く選んだ寒さに強いという穀物は何とか実をつけている。かつかつでも、グレンとフィンなら二人で何とか生きていける。そう思ったからこそ、グレンもフィンも、男を助けるのに何の躊躇も無かった。だが。小屋に男を泊めた、その夜、物音で飛び起きたフィンが見たのは、台所にあった刃物を手にした男がグレンを襲う、その光景。そして。一瞬で視界から消えたグレンに目を瞬かせたフィンが次に我を取り戻した時には既に、フィンの身体はがんじがらめに、見知らぬ広場に立てられた柱に縛り付けられていた。足下から這い登る熱が、フィンの全身を舐めるように覆う。吸い込んでしまった炎と煙が喉と胸を焼く、その痛みに、フィンの全身はのたうった。
〈母様……、グレン……〉
助けを求めて、愛する人たちの名を呼ぶ。だが、助けが来ないことに、フィンはどこかほっとしていた。この炎の中では、フィンを助けてくれる者も傷付いてしまう。それは、……イヤだ。朱色の向こうにグレンの姿が見えた気がして、フィンは小さく首を横に振った。
〈逃げて、グレン〉
グレンまで、幼いフィンを助けてくれた大切な人まで、この炎の中に巻き込みたくない。もう一度、小さく首を横に振る。その動作でグレンの姿が消えてくれたことにほっとする間もなく、フィンの意識は闇に飲まれた。
そして、今。……焼かれたはずのフィンは何故か、がっしりとした石造りの建物の、小さいが清潔な部屋の中にいる。何故自分は、ここにこうしているのだろう? 目を閉じたまま、フィンは柔らかな枕に顔を埋めた。
と。
「まあ、ダニー!」
甲高い声に、瞼を上げる。たちまちにして、フィンの身体は温かな女性の腕に包まれた。
「どうしたの? 気分が悪いの?」
気遣わしげな女性の声に、首を横に振る。
「熱は、無いけど。……気分が悪いのなら、眠りなさい、ダニー」
「いや」
その女性の声を遮ったのは、肩幅の広い男性の声。この人は。小さく唇を噛み、声の方を見上げる。この人は、この町の、グレンを襲った男が住んでいるという町を支配する長官。フィンを広場の処刑台に縛り付け、火炙りにした、張本人。
「甘やかしてばかりでも身体に悪い」
フィンを見て口髭を上げるその長官を見つめ、上半身を起こす。そう。死んだはずのフィンの魂は何故か、フィンが男に捕らえられてこの町に来たその晩に急な病で亡くなった長官の一人息子の身体に入り込んでしまっている。それが、フィンの戸惑いの、大部分。
「遠乗りをすれば、気分も晴れるさ」
「あなた」
その戸惑いのまま、ベッドから立ち上がったフィンを、長官の妻である女性が制する。
「ダニーは、……ダンは、一度死にかけたのですよ」
「だからだ」
顔を歪め、息子を庇う妻に笑いかけ、長官はフィンの腕を掴んだ。
「行くぞ」
来年の春には、この町から遙か南にある都の学校に行くのだから、学力はともかく体力はしっかりとつけておかねば。そう言いながらフィンの魂が宿る身体を部屋の外へと連れて行く、長官の手の熱に、俯く。自分がいた部屋の方を振り返ると、ベッド側にある机の上に広げられた重そうな本が、フィンの目を鋭く射た。その本の中に何が書いてあるのか、フィンには分からない。母から教わったはずの文字は、あの丘で暮らす間にすっかり忘れてしまった。法律の勉強も良いが、医者になるのも良いな。あくまで明るい長官の言葉に、フィンの胸は疼いた。ダンという少年は、もうここにはいない。きっと、母様が昔話してくれた、善い人々が辛さも苦しみも感じることなく暮らしているという『天国』という、ここでは無い別の場所に行ってしまっているのだろう。ここにいるのは、フィンという、病弱で物知らずな、存在。もの悲しさを覚え、フィンはそっと、唇を噛み締めた。
目を瞑り、これまでのことを思い返す。そう、あれは確か、十日ほど前のこと。森の中に開けた小さな丘で、フィンは、かつて小さなフィンを助けてくれたグレンと一緒に暮らしていた。そして、僅かな森の糧を探しに入った森の中で、痩せ細った一人の男を助けた。夏中降り注いだ細く冷たい雨によって、男が暮らす、森の向こうに最近作られた街道沿いの町周辺の畑の作物は全滅し、男は一人、食べられるものを得るために危険な森へと入ったという。その男を、グレンとフィンは、二人で暮らす丘の麓の小屋に連れ帰り、保存しておいた穀物を食べさせた。雨のせいで作物の育ちが悪いのは、二人が耕す小さな畑も同じ。だがフィンが世話をしている羊達は元気だし、二人に自然の様々を教えてくれたグレンの祖父が注意深く選んだ寒さに強いという穀物は何とか実をつけている。かつかつでも、グレンとフィンなら二人で何とか生きていける。そう思ったからこそ、グレンもフィンも、男を助けるのに何の躊躇も無かった。だが。小屋に男を泊めた、その夜、物音で飛び起きたフィンが見たのは、台所にあった刃物を手にした男がグレンを襲う、その光景。そして。一瞬で視界から消えたグレンに目を瞬かせたフィンが次に我を取り戻した時には既に、フィンの身体はがんじがらめに、見知らぬ広場に立てられた柱に縛り付けられていた。足下から這い登る熱が、フィンの全身を舐めるように覆う。吸い込んでしまった炎と煙が喉と胸を焼く、その痛みに、フィンの全身はのたうった。
〈母様……、グレン……〉
助けを求めて、愛する人たちの名を呼ぶ。だが、助けが来ないことに、フィンはどこかほっとしていた。この炎の中では、フィンを助けてくれる者も傷付いてしまう。それは、……イヤだ。朱色の向こうにグレンの姿が見えた気がして、フィンは小さく首を横に振った。
〈逃げて、グレン〉
グレンまで、幼いフィンを助けてくれた大切な人まで、この炎の中に巻き込みたくない。もう一度、小さく首を横に振る。その動作でグレンの姿が消えてくれたことにほっとする間もなく、フィンの意識は闇に飲まれた。
そして、今。……焼かれたはずのフィンは何故か、がっしりとした石造りの建物の、小さいが清潔な部屋の中にいる。何故自分は、ここにこうしているのだろう? 目を閉じたまま、フィンは柔らかな枕に顔を埋めた。
と。
「まあ、ダニー!」
甲高い声に、瞼を上げる。たちまちにして、フィンの身体は温かな女性の腕に包まれた。
「どうしたの? 気分が悪いの?」
気遣わしげな女性の声に、首を横に振る。
「熱は、無いけど。……気分が悪いのなら、眠りなさい、ダニー」
「いや」
その女性の声を遮ったのは、肩幅の広い男性の声。この人は。小さく唇を噛み、声の方を見上げる。この人は、この町の、グレンを襲った男が住んでいるという町を支配する長官。フィンを広場の処刑台に縛り付け、火炙りにした、張本人。
「甘やかしてばかりでも身体に悪い」
フィンを見て口髭を上げるその長官を見つめ、上半身を起こす。そう。死んだはずのフィンの魂は何故か、フィンが男に捕らえられてこの町に来たその晩に急な病で亡くなった長官の一人息子の身体に入り込んでしまっている。それが、フィンの戸惑いの、大部分。
「遠乗りをすれば、気分も晴れるさ」
「あなた」
その戸惑いのまま、ベッドから立ち上がったフィンを、長官の妻である女性が制する。
「ダニーは、……ダンは、一度死にかけたのですよ」
「だからだ」
顔を歪め、息子を庇う妻に笑いかけ、長官はフィンの腕を掴んだ。
「行くぞ」
来年の春には、この町から遙か南にある都の学校に行くのだから、学力はともかく体力はしっかりとつけておかねば。そう言いながらフィンの魂が宿る身体を部屋の外へと連れて行く、長官の手の熱に、俯く。自分がいた部屋の方を振り返ると、ベッド側にある机の上に広げられた重そうな本が、フィンの目を鋭く射た。その本の中に何が書いてあるのか、フィンには分からない。母から教わったはずの文字は、あの丘で暮らす間にすっかり忘れてしまった。法律の勉強も良いが、医者になるのも良いな。あくまで明るい長官の言葉に、フィンの胸は疼いた。ダンという少年は、もうここにはいない。きっと、母様が昔話してくれた、善い人々が辛さも苦しみも感じることなく暮らしているという『天国』という、ここでは無い別の場所に行ってしまっているのだろう。ここにいるのは、フィンという、病弱で物知らずな、存在。もの悲しさを覚え、フィンはそっと、唇を噛み締めた。
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